5-2 来たる時
「あら兄さん、お帰り」
「ああ、ただいまー」
いつもの練習を終えて帰宅した俺は、夕方からの営業の仕込みをしていた千穂に軽く手を挙げて挨拶を返す。炎天下の練習はしんどいが、この程度でへこたれていては関西1部でトップには立てない。
家の扉をくぐった途端、どっと疲れが押し寄せる。欠伸混じりに冷蔵庫を開けた俺は、中からキンキンに冷えた麦茶を取り出すとコップに注いだ。
「前までただいまなんて滅多に言わなかったのに。兄さん、前より丸くなった?」
麦茶でいっぱいになったコップを口に当てながら、俺は「そうか?」と答える。
「うん、前はもっとこうトゲトゲしてたと言うか、なんか人生捨ててる感あった」
「失礼な妹だな、まだピッチピチの20代だぞ」
そして一気に飲み干してぷはあと冷たい息を吐き出す。
まあでも、たしかに前とは気分が違うな。向上心を持つことができず鬱屈した気分をずっと胸に抱えていたのはどこへやら、今は前向きにサッカーをしたいと子供のように思えている。
「それより明日は試合でしょ? 晩御飯用意してるから早く食べて休んで」
「ああ、ありがとうな」
そう言って俺は店の奥の居間へと引っ込んだ。明日は檜川さんと雌雄を決する大勝負だというのに、自分で驚くくらい俺は穏やかだった。
翌早朝、俺たちはバスに揺られて姫路市へ向かった。
競技場の駐車場に降り立った俺たちは一様に背を伸ばす。バキバキと骨が鳴り、ずっと折り曲げていた足に血液が循環していくのが伝わってくる。
「やっぱ遠いよ、姫路は」
「アウェーの洗礼だな」
和歌山から高速道路を使っても2時間半というなかなかの長距離移動。試合はこれからだと言うのにわかやまFCの面々はもう既にへとへとだった。
「わかやまFCの皆様ですね、こちらへどうぞ」
クラブのスタッフだろう、駐車場で待っていた定年間近くらいの年齢のおじさんが荷物を担いだ俺たちをニコニコと案内する。決して強いわけでも資金があるわけでもないが、いつも温かく迎えてくれるのでこの姫路マイスターは他のクラブからも評判は良い。
それにしても。俺は周囲をちらちらと見回す。
姫路名物明珍火箸の鉄の色をシンボルカラーに、黒いユニフォームを着たファンたちが開場前から集っている。それも結構な人数、地域クラブでここまで支持されるとは驚いた。
「ここってこんな人気あったかな?」
キャプテンも同じように感じたのか、首を傾げてぼそりと呟いた。前半戦で向こうが和歌山まで来た時は、たしかに熱心なサポーターはいたがほんの20名ほどだった。だが今日は今の時点で軽くその10倍は超えている。
「ねえ、あれわかやまFCよ!」
姫路サポーターだろう、黒いユニフォームを着た女の子があっとこちらを指差すと、周囲のサポーターも一斉に顔を向ける。
「本当だ!」
「すげえ、本物だ!」
そしてみんなが一斉にスマホを向け、カメラで撮影を始めたのである。
「え? え?」
カシャカシャと鳴り止まぬシャッター音に、わかやまFCは全員が全員面食らっていた。どういうことだ、地元のファンでもこんなに歓迎してくれること無いぞ。
「松本くーん、こっち向いて!」
「佐々木、佐々木、紀州の大魔人!」
「鳥山さん、大好き!」
「監督ー、結婚してくれ!」
わかやまの主力メンバーが次々と名指しで声援を受ける。スタジアムでならまだいいのだが、まだ入場前にそう呼ばれることは滅多に無いので俺たちは無性に恥ずかしく思い、急ぎ足で関係者専用入り口に駆け込んでいったのだった。
それにしても俺への声援、無かったのは悲しいなあ。
ようやく姫路サポーターの姿が見えなくなると、俺たちは互いにきょとんとした顔を見合わせていた。ただ一人、監督だけはいつもの澄ました様子だったが、「結婚してくれ」と呼ばれまんざらでもなかったのか、頬が少し色付いていた。
何だあれ、どういうことだ?
「姫路のサポーターはわかやまFCと戦えて、心の底から喜んでいるのですよ」
前触れも無く、スタッフのおじさんがふふっと微笑んで言い放つ。
「俺たちと?」
「はい、うちは何年も何年もかけてようやく1部まで上がったものの、強豪ぞろいの1部リーグではまったく歯が立ちませんでした。ですが今年はわかやまFCが好調で、横山さんもトルコに移籍して。1部どころかそれ以上のレベルを間近で見られたのです、ずっと地域リーグを応援してきたファンが喜ばないわけがありません」
メンバー全員、おじさんの話に耳を傾けていた。おじさんの声にはまるで出来の悪い子供をかわいがるような愛情がこもっていた。
「わかやまFCの活躍から関西リーグに興味を持ってくれて、新たに姫路ファンになった方もいます。皆さんはは関西リーグ全体を活気づけてくださったのですよ」
「はは、なんだか照れくさいな」
「照れてるキャプテンて思った以上に気持ち悪いですね」
「うるさい黙れ」
キャプテンが後輩に蹴りを入れる。途端、チームはここ最近一番の笑いに沸いた。
試合前のミーティングを終えてピッチに入場する。
今シーズン1番という人の入り、そこまで大きくない市営サッカー場とはいえ観客席は完全に埋まっていた。姫路マイスターにとって今期の逆転は絶望的だというのに、黒一色の観客席は奇妙な巨大な生き物のように一体となっていた。
そして俺はベンチに座る。先発CBは檜川さん、俺は後半から交代する。
この試合の出来不出来で、次の最終決戦のスタメンが決まる!
ホイッスルとともに試合が始まると、檜川さんは的確な指示と位置取りで壁役をこなした。相手が攻め込もうにもDFそれぞれが隙を見せないのでどこにもシュートを打てない。ヤケクソで蹴り出しても経験豊富な檜川さんに敵うはずもなく弾き返されてしまう。
相手が格下とはいえ完璧な試合運びだった。相手は枠内シュートさえ打てず、ただただわかやまがボールキープしてプレッシャーをかけ続ける。
そして前半終了も近付いた38分、キャプテンの送り出したボールに反応した松本と佐々木さんのツートップが一気に攻め上がり、松本のシュートで先制点を決めたのだった。思えばここまで1点も取れなかったのが不思議なくらいの内容だが、松本の100点満点と言える見事なシュートには姫路のファンも落胆した後に称賛を贈った。
ベンチも「いけるぞ!」と身を乗り出す。このままリードで折り返してくれたら、後半はもっと楽になる。
しかしあんなに完璧な守備を披露されたら、俺は後半どう動こうか。今の内からあれこれと考え、監督に自分が檜川さんより優れているところを見せられないかと考える。
だがそれは突然に訪れた。前半アディショナルタイム終了間際、DFとMFでガッチガチに守りを固めるわかやまFCのゴールに向かい、姫路FWが破れかぶれのシュートを蹴り出した。そのボールは弾丸のように鋭く、一瞬で胸の高さほどまで浮き上がる。
最初に反応したのはMFの後輩だったゴールを守ろうと身体を動かし、さっと横に跳んでボールの軌道を塞ぐ。
だがそのタイミングはほんの少し及ばなかった。そしてよりにもよって伸ばしていた腕に、ボールは直撃してしまったのである。
「ハンド!」
鳴り響くホイッスル。その審判が片手で高々と掲げていたのは一発退場のレッドカード。
選手も観客も、全員の時が止まった瞬間だった。
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