4-5 蘇る情熱
早朝5時。朝もやかかる和歌山の街を、俺はただひとりジャージ姿で走り抜けていた。
和歌山城が朝日に映える。大通りもたまにトラックが通るくらいで信号も無視して道路を横切ってしまえそうだ。
ぐるりと街を一周して家に帰ると、パジャマ姿の妹が歯ブラシを咥えたまま眠そうな眼を瞬かせた。
「あれ、兄さん外出てたの!?」
「ああ」
タオルで汗を拭いながら冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出した俺は、コップに注いだ牛乳を一気に飲み干す。学生の頃は毎日欠かさなかった習慣に身体は多少驚いているものの、しばらく走っている間に昔の動きをすっかり思い出していた。
「ふうん、どういう風の吹き回しかしら。ちょっと待ってて、朝ごはん作るから」
「それならついでにこれ頼めるか?」
牛乳を片付けるついでに冷蔵庫からいくつか食材を取り出す。出したのは卵にベーコン、さらにチーズ。いずれもタンパク質に富んだメニューだ。
「どうしたのよ突然、そんな一流アスリートみたいな真似して」
千穂がじっと疑り深い視線を投げつける。
失礼な、地域クラブとはいえ俺もプロ選手、いっぱしのアスリートだぞ。
そう言い返したいところだが、今は俺自身そんなに立派なものでもないことは重々承知している。
「強くならないといけないんだ」
小さく呟く。聞こえたのか聞こえなかったのか、妹は「ふうん」と答えて俺から卵とベーコンを受け取った。
朝食後、俺は和歌山から車を飛ばして大阪へと向かった。同乗者はFWの松本ほか若手の選手2人だ。そして大阪市内の長居運動場に降り立った俺たち4人を待っていたのはがっしりとした体格の運動着姿の男だった。
「久しぶりだな、釜田」
「ああ、磯崎」
磯崎はJ2時代の同期入団だ。俺が怪我でクビになった後もずっとクラブに残り、今では不動のSBとしてチームに欠かせない選手になっている。
この日、オフが重なった俺たちは一緒に練習することにした。久々に連絡を取って後輩たちとの練習を持ちかけたところ、ふたつ返事で快諾してくれたのは本当にありがたい。
準備運動もほどほどに、早速実戦を意識した守備連携の練習を行う。やはり現役のJリーガー、レベルがまるで違う。普段の何倍ものハードワークについていくので精一杯だった。
とはいえ何年か前まで俺もこのレベルの練習をこなしていたのだ。怪我をきっかけに何だかんだと努力を放棄していたのを嫌というほど思い知らされた一日だった。
それからというもの、俺は寝ている時間以外はずっとサッカーのことばかり考えて過ごしていた。
暇があれば練習に筋トレ、休憩時間はうまい選手の動画を見たり戦術の本を読んだりと常に上手くなることを意識していた。食事も栄養バランスを第一に、質も量も徹底的にこだわった。当然酒や煙草なんて言語道断だ、夜更かしのような不摂生も堅く禁じた。
正直なところ、ここまで熱心にサッカーに集中したことは無かったかもしれない。
いや、違う。一時期だけ、それこそ血反吐を吐くような努力を惜しみなく重ねていた時期があった。
学生時代、俺はサッカーに関してはある程度なら簡単にクリアできていた。それは一般に求められるレベルをはるかに超えるもので、チームでは常に戦術の主軸に組み込まれていた。
だからこそ当時の俺は上を目指してひたすらに努力しようという気分を今ひとつ感じることができなかった。少し頑張ればみんなからちやほやされるくらいには上手くなってしまうので、いつの間にか俺は必死の努力を積まないと上達できない他のメンバーを見下すようになっていた。
だが大学生3回生の時だった。同じポジションに入ってきた新入生が、それこそプロでも通用するような逸材だったことに人生最大の衝撃を受けたのだ。
最初の練習試合で監督のお眼鏡にかなったその新人が入学したてで公式戦に出場させられた時、俺は初めて焦りを覚えた。そこから卒業まで、俺は授業の単位はほどほどにサッカーに打ち込んでいた。こんな新参者に正CBのポジションを奪われてたまるかと、来る日も来る日もただめらめらとたぎりながら己の地位を守り続けた。
その甲斐あってか卒業まではなんとか自分のポジションを守り抜き、おまけにJ2クラブからも声がかかった。あいつがいなければ今の俺は無かったかもしれない。
そう言えばあいつ、今はJ1クラブで揉まれながらも着実に成長しているんだっけ?
「釜田、先週とはまるで別人のような動きだな」
試合形式の練習中、ゴールネットを守っていたGKの岩尾が驚いたように漏らした。
磯崎とのトレーニングの効果が早速現れているようだ。まだまださわりだけだが、ピッチを真上から見た時、自陣はどういう形になっているか。たとえ前線にボールがある時でもそれを常に意識しているかいないかで、不意のカウンターや味方からボールが返ってきた時の対処がはるかに容易になる。
「そっちに走り過ぎたら逆サイドがガラガラになる。マンマークすれば必ずゾーンが空く、ボールのない場所のことを絶対に忘れるな!」
練習中でもガンガンと指示を飛ばす俺に、後輩は目を丸くしながらも「は、はい!」とワンテンポずれた返事を送る。
「随分と気合いが入っているな」
訝しげに尋ねる岩尾に、俺は「まあな」とだけ返した。
否定はしない。今の俺はついこの間までの俺と違い消えない炎で燃え上がっている。
だがそれは今のままじゃ駄目だとか、そんな後ろ向きな気持ちで点いたわけではない。
今より強くなるには、上に行くには。
横山が俺よりはるか上の段階にまで段飛ばしで昇ってしまったこと、檜川さんという自分以上のプレイヤーを間近で見たことで、俺の中で何かが動いたのだ。
横山をずっと慕っていた松本の気持ちが今ようやくわかった。すぐ傍に目標となる誰かがいることで、人はどこまでも上を目指せるのだ。
「どうして今まで気付かなかったんだろうな」
練習の最中にも関わらず、俺はつい呟いていた。幸いにもこの呟きは誰の耳にも入らなかったようだ。
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