3-4 飲んで話そう

「ど、どうぞ」


 千穂がたどたどしい手つきで日本酒のグラスを手渡す。


「ありがと」


 それを受け取った柊監督は、テレビカメラにも向けたことの無い優しい微笑みを浮かべていた。


「いやいや、美味しいねこれ」


 イカの刺身をちゅるるんとすすりながら、社長が嬉しそうに言う。まるで子供のようだ。


 だが同じカウンターに座る松本は、そんなふたりに見向きもしていなかった。焼酎のグラスを握ったままテーブルの一点をじっと見つめている。


 俺と岩尾もこの状況に気まずくなりキャプテンにちらちらと視線を送るも、相変わらずにやにやと笑い返されるだけでどうしようもなかった。


 そしてずっと黙り込んでいた松本はついにぐいっとグラスを空にすると、思い切って口を開いたのだった。


「社長、何しにここまで来られたんですか?」


 社長と監督の手が止まる。すぐに社長はちらりと店内を見回すと、「ここなら記者もいないから、思い切って話せるね」と箸を置き、視線を逸らす松本に身体を向けたのだった。


「松本君、プレイヤーの立場からすれば横山君がいなくなることの重さは僕も承知しているし、手放すのは惜しいとも思っている。僕のことを恨んでもかまわない、でもここだけは分かってほしい、この移籍はクラブにとっても横山君にとっても前進の大きなチャンスなんだ」


 すぐさま松本が「じゃあ、どうして?」と訊き返す。こんな風に盾突いている松本を見るのは初めてだ。


「横山君たっての希望なんだよ。わかやまFCのためにも」


「横山が?」


 俺は口をはさんでしまった。


「実は横山君、イスタンブール・イニチェリSKに移籍するに当たって僕たちにある条件を出していたんだ。それが移籍金を使ってわかやまFCに昇格できるだけの戦力と環境を整えてほしいって。前にも話したけど、相手方からの移籍金はうちにとっては莫大な収入だ。でも横山君は自分の実入りを削って、その分をわかやまFCに回してくれって」


 社長の言葉に俺たちは全員聞き入っていた。松本も目は合わせていないが、耳だけはちゃんと傾けている。


「その中のひとつに松本君とプロ契約を結ぶことも含まれているんだ。横山君からの提案でね」


 直後、松本の手から力が抜けた。ずっと手にしていた空のグラスが机の上に転がる。


「まさか!?」


 俺と岩尾も間抜けな声をそろえる。


「今回の移籍金があれば引退間近のベテランや有望な若手と契約することもできた。でもわかやまFCの攻撃を一番よく知っているのは松本君だ、うちに必要な選手なんだからサッカーに専念してもらいたいって、どんな条件よりもまず最初に横山君が出したんだよ」


 俺たちの驚きようにも眉一つ動かさず、社長は滾々と語り続ける。ついに松本はちらりと社長の顔に一瞬だけ眼を向けると、そのまま両掌で顔を覆ったのだった。


「横山さん……」


 嗚咽混じりの泣き出しそうな声だった。大好きなサッカーを続けるため、ずっとバイトで食いつないできた松本にとってはまさに干天の慈雨、思わぬ幸運に思えたに違いない。


「柊監督を呼んだのも、実は横山君の移籍を見越してのものだったんだ。もし横山君がいなくなっても、若い女性監督がいることでクラブは注目を浴び続けられるからね。柊監督にとっては不服だったかもしれないけど、そこは無理言って引き受けてもらったんだ」


 俺は「そうだったのですか」と頷いていた。トルコから最初のオファーを受け取ったのは去年のこと、そこから社長は横山がいなくなった時のことを見据えてチーム改革に動いていたのだろう。クラブ全体が強くなることで横山の成績も上がり、移籍の際にもより価値が高まる。


 くいっと日本酒を傾けながら聞いていた監督もつい口を開く。


「そりゃ思うところもありましたけど……私にとっては男の世界に女が飛び込めただけでも嬉しかったですよ」


 そう言えば監督の経歴はほとんど聞いたことが無かった。そんなことをふと気にしていると、カウンターに立つ千穂が俺よりも先に尋ねる。


「あのー監督、なぜ高校の女子サッカー部からわかやまFCに移ってこられたのですか?」


 興味半分で聞く妹。しばしの間柊監督は口を閉ざす。


「いえ、話してくれってお願いしているわけではないのですが……」


「そうね、ここはオフレコだから」


 だが監督は焦った様子の千穂をふふっと見つめ返すと、日本酒のおかわりを頼んで話し始めたのだった。


「私は小さい頃からサッカーばかりやってきたわ。小学校までは男子に混じって、中学からはユース世代の日本代表にも選ばれて、そのまま大学にも進学した。でも、そこまでだったの」


 日本酒をちびちびと口に含みながら、どこか遠い目で話す監督は妙に色っぽかった。だがそこはかとなくにじみ出る憂いは、安易に俺たちが口出しするのを拒んでいるようでもあった。


「大学に入った後、思うようにうまくならなくてね……人生で初めての挫折だったかしら。ユニバーシアード代表選考にも漏れて、サッカーをすることが怖くなっちゃったの。でも私にはサッカーしかない、それで生きていきたいって自己矛盾をずっと抱えてて」


 監督の言葉は俺たちにも深く突き刺さるものだった。なんだか俺たちにも刺さる経験だった。俺もキャプテンも岩尾も、ここにいる全員サッカーを心の底から好きだと言える。だが好きなことを押し通して生きていけるほど実力があるわけではない。全員、大なり小なり挫折を経験したからこそ今ここにいる。


「気が付いたら選手ではなく、指導者としてサッカーに携わりたいって思うようになってたわ。大学を卒業したら教師になって、女子サッカー部の顧問になることでサッカーに関わり続けたいって。そしていつか誰もやったことの無い何かを成し遂げたいって」


「その誰もやったことの無い何か、が男子クラブの監督だったんですね」


 岩尾が口をはさむと監督は無言で頷き返した。


 一見完全無欠のキャリアを重ねてきたような柊監督だが、その内情は俺たちと同じだった。ただ最大の違いは挫折しても別の可能性を見出し、そして実績を残したこと。


 特に目立った実績の無かった中堅高校をわずか3年で全国準優勝まで導いたのだから監督としての手腕は相当なものだ。加えて現状に飽き足らずさらに上へ上へと見つめる向上心。社長は柊監督のそういった想いを見破り、ラブコールを送ったのだろう。


 そして監督も自らの夢のため、社長の依頼を引き受けたのだ。たとえそれがクラブの広告塔としての意味合いを含んでいても。


「わかやまFCから、Jリーグ初の女性監督・当面の夢はそういうことですね?」


 鳥山キャプテンが咥えた煙草に火を点けながら訊くと、監督は「もちろん」と明るく返した。


「でもそれで終わりじゃない。それができたら次はJ1制覇、それもできたら日本代表を率いたいって、そう言うと思うわ」


「夢か……」


 キャプテンがふうっと煙を吐き出す。そしてだしぬけに隣に座る松本の肩にバシンと手を置いたのだった。


「松本、俺は今まで一度も優勝を経験したことが無い」


 なおも顔を手で隠して縮こまっている松本に、キャプテンが語り掛ける。試合の時と同じ、真剣な眼差しだった。


「J2もJ3もいくつものチームを転々としてきたが、今まで自分のいたクラブがリーグでもカップでも優勝したってことが一度も無いんだ。15年以上サッカーで食い続けてきた俺にとって優勝は人生で一度は味わってみたい夢だった。でも今回は違う、お前のような頼りになる戦力がいて、強化のチャンスも巡ってきた。この機会を逃すことはできない」


 キャプテンの言葉に一際力がこもる。


「いっしょに優勝しよう。横山のためだけじゃない、ファンのためにも監督のためにも、俺のためにもな!」


 ようやく松本が顔を上げた。そして手で顔を何度もこすり、すっかり赤くなった目をキャプテンに向ける。


「はい、当然です!」


 そう答えた松本は何か憑き物が落ちたようだった。

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