3-2 朗報と吉報は裏返し
「社長、どういうことですか!?」
社長室に押し掛けたわかやまアプリコットFCのメンバーは執務机に座った社長に詰め寄る。社長室とは思えないほど質素な部屋、机もソファも中古で買いそろえたものだが、ずっと丁寧に使われている。
そんなソファには横山と監督のふたりがじっとうつむいたまま座り込んでいた。
俺が立ち話を盗み聞きしてから一夜、横山の一件についてはメンバー全員が知るところとなっていた。
設立以来の大注目と絶好調に、もしかしたら優勝もあり得るかと選手自身も思っている最中、後頭部をバットで殴られたような衝撃に誰も落ち着いてなどいられなかった。名実ともに横山はわかやまFCのトップ、そんなスターがこれからという時にいなくなるのはあまりにも痛い。
「まさか聞かれていたとは思わなかったなぁ……まあ遅かれ早かれいつか発表しなくちゃいけないんだけれども」
いつもの軽い口調だが、社長の顔はずんと沈んでいた。
「もう全部話すよ。横山君にはイスタンブール・イニチェリSKから誘いがあったんだ。契約するかはしばらく様子見だったんだけど、ここ最近の絶好調を見て相手のオーナーがトルコでも通用すると判断したらしい」
「なぜこんな関西1部に?」
キャプテンが静かに問い詰めた。
調べてみるとイスタンブール・イニチェリSKはトルコ1部スュペル・リグでも度々優勝争いに絡んでおり、ヨーロッパ最強クラブを決めるUEFAチャンピオンズリーグにも出場したことのある強豪だ。もしここで定着できればJ1どころか日本代表クラスと言えよう。
「あのオーナー、実は他にも海運会社を所有しているんだ。で、去年串本のエルトゥールル号の追悼式典に出席した時、うちの試合を観戦したらしい。そこで横山君のプレーを目にして興味を持ったみたいだ」
エルトゥールル号遭難事故は和歌山県民にとっての一般教養だ。
1890年9月の夜、親善訪日使節団としてオスマン帝国から派遣された軍艦エルトゥールル号は帰国の途中、台風の直撃で和歌山県串本沖で座礁、機関部が水蒸気爆発を起こした。海軍将校や機関士など600名以上が冷たい嵐の海に投げ出されたのである。
その時駆けつけたのは地元串本の住民だった。貧しい漁村の人々は荒れる海に入って生存者を救い出し、自分たちの食糧をも惜しまず怪我人の介抱に当たったと言われている。
結果として587人の死者行方不明者を出す大惨事となったものの、助け出された69人は生還し、その後日本政府の尽力でオスマン帝国まで帰還した。この事故を受けてオスマン帝国の人々は日本政府はもちろん、地元住民の見返りを求めぬ救助活動に深く感銘を受け、日本に対して好印象を持つようになったという。
オスマン帝国が解体されてトルコ共和国となった今でもこの事故は語り継がれており、日本とトルコ友好の象徴となっている。串本で開かれる追悼式典にトルコの要人が招かれることも多く、オーナーもその際に民間人の代表として参列したのだろう。
「最初は僕だって驚いたよ。でも相手さんがちょうどFWを探していたところに横山君を見つけたみたいで。名のある選手じゃ移籍金もかかるけど、日本の無名リーグなら大した金額にもならないからね」
なんだか下に見られている気もするが、クラブの実力差から言えば仕方ない。
それにサッカー選手にとってヨーロッパの強豪クラブに入団できるなんて千載一遇の出来事。キャリアを考えれば断るなんて選択肢はあり得ない。
だがそれでも。チームの誰もが首を縦には振れなかった。
「そんな急に……これから後半戦だというのに」
「それに関しては手を打っている。横山君の移籍に関して、相手方はかなりの移籍金を用意してくれる。ビッグクラブにとってははした金でも、うちのクラブにとっては破格だよ。その資金を基に人員補強をするつもりだ、元Jリーガーにも声をかけて、さらに――」
「横山さんの代わりはいません!」
社長室に響く一閃。全員が指先まで動きを止める。
声の主は松本だった。23歳のFWは子供のように今にも泣き出しそうな真っ赤な顔で、わなわなと震えていたのだった。
「僕は横山さんと一緒に優勝したいんです、横山さんじゃなければだめなんです!」
年甲斐もなく主張する松本。だが俺は声をあげることができなかった。
ふたりはずっとツートップを組んできた仲だ。松本にとって横山は憧れの先輩であり、最高の手本であり超えるべき壁だった。
そんな松本の心中を誰もが推し量っていた。いつもふたり一緒にいるところを見ているので、そのショックの大きさを思うと安易に反論できなかった。
社長も「松本君」と諭すように話しかける。
「気持ちはわかる。せめてシーズンが終わってからはどうかって交渉もしたんだけど、あっちは開幕が8月からだからね。これを逃したら移籍の話自体流れてしまうんだ」
「ですがそれじゃファンもチームも納得しませんよ!」
松本が前に出て、社長の机をバンと叩く。
「松本、その辺にしておけ!」
直後、鋭い怒号が走り全員がすくみあがった。俺たちが振り返ると、ソファから立ち上がった横山がじっとこっちを見ていたのだった。言いたいことを秘めながら必死で抑え込んでいるような目だった。
「……横山さん!」
ついに松本は部屋をとび出した。
岩尾が「松本君!」と呼びながら追う。そこからしばらく部屋はしんと静まり返り、誰も話そうとはしなかった。
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