第8話 涙

「この不届き者! 泥棒! 此処から出てゆけっ!」


 女房から矢継やつばやに浴びせられる罵詈雑言に、桔梗は悲しげな憐れみの表情を浮かべると、書物を手に立ち上がろうとした。

 その瞬間、くだんの女房が上から飛び掛かり、桔梗の手から書物を奪おうとするのだった。


「うっ……」 女房に、のしかかられてたまらず声を洩らす桔梗。


「こいつめっ! こいつめ! それをこっちに渡せ‼」


 更におおかぶさったまま、扇を逆に持ち、柄で桔梗の手を何度も何度も打ち据える。


 そうしているうちに扇の柄が折れ、ささくれた木片が、透けるように白く美しいその手に刺さった瞬間 ―― 真っ赤な血しぶきと共に、のしかかっていた女房の体が、桔梗の上から弾け飛んだ。



 組み敷かれていたその場によろよろと立ち上がった桔梗だが、艶めく黒髪は乱れ、白い肌は血の気が引いて青白かった。何より、端整で美しいその顔立ちは苦痛で歪んでいた。

 だが、扇の柄が刺さり血が流れ出しているその手は「ひとのもの」ではなく、毛がびっしりと生えている獣のであった。


「きゃーっ!」


「ひえ〜っ!」


 桔梗の手を見た若い女房たちから、次々と悲鳴があがる。

 弾き飛ばされた女房が唸り声をあげながら上体を起こし、桔梗をキッと睨みつけると指を差して叫んだ。


「とうとう正体をあらわしおったな、この化け物っ! 出て行けーっ‼」


 ―― 部屋の悲鳴を聞きつけて駆けつけた者たちが、更に騒ぎ立てる。


「皆っ、化け物じゃーっ!  化け物が出たぞーっ‼」


 こだまのように、あちらこちらで声が上がり、屋敷中が大騒ぎになった。




 その喧噪けんそうを後にして、反対の手で大切そうに書物を胸にいだき、廊下をよろよろと歩いてゆく桔梗。だが、獣の形のその片手は、赤い血をしたたらせながら、ぶらりと垂れたままであった。


 よろめく足取りの桔梗と廊下ですれ違った者たちは、普段の美しい様子からは想像も出来ないほど乱れた髪や衣服に驚き、また血が滴る獣の手を見て、唖然として、道をあけるしかなかった。

 

 ようやっと直比呂なおひろのもとに戻ってきた桔梗であったが、部屋の入り口で、


「……旦那様、お探しのものが見つかりました……。こちら……です……」


 と、懸命に手を伸ばして書物を差し出した瞬間、後ろより「ヒュウッ」と矢を射かける音がして、その場に膝から崩れ落ちた。

 けれども、必死に起き上がった桔梗は、這うようにしてやっと書物を直比呂に手渡すのだった。

 その桔梗の獣の片手を見て、一瞬、「ギョッ」とひるんだ直比呂であったが、桔梗の目から流れておちる涙を見て、全てのことがわかった気がした。


 直比呂が、愛おしそうに桔梗に向かって手を差し出した途端、


「危ないっ!」


と声がして、長刀なぎなたが桔梗の後ろから振り下ろされた。

「ズンッ」と鈍い音がして ―― 桔梗は動かなくなった。


「桔梗ーっ‼」


 直比呂は、桔梗の名を叫びながら傍らに駆け寄り、動かなくなったその身体を胸に抱きかかえた。


「しっかりしろっ! 桔梗っ! しっかり……」


 直比呂の声が聴こえたのか、苦痛で歪んでいた桔梗の表情が柔らかな微笑みに変わった。 ―― その瞬間、桔梗の身体はまばゆい光に包まれ、姿を消した。


 刺さった矢も長刀の先も桔梗の身体と共に消え、直比呂の胸には衣だけが残った。

 桔梗が残した衣を愛しそうにいだき、はらはらといつまでも涙を流す直比呂であった。











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