第3話 桔梗(ききょう)

 その貴族の屋敷より、傷を負い逃げ出したあやかしの名は『桔梗』と言った。


 屋敷の主人=藤原直比呂なおひろと桔梗が出会ったのは、この時より2年程前の事。

 夏のある日。都の北側にある山中の神社に直比呂がもうでた際、不意に強い風が吹き、「あっ」と咄嗟とっさそでで顔を覆ったものの、そのふらついた体勢のまま小道より谷川へ足を滑らせて落ちてしまったのである。

 幸い、大事には至らなかったが、片足をくじいてしまい難儀なんぎしていた所で、その娘と出会ったのであった。


 川の水に足を浸している直比呂の背中から、小さな声が聞こえた。


「もし、お困りのようですが、どうかなさいましたか?」


 その声に「はっ」と直比呂が振り返ると、大きなおけを手にした美しい娘が立っていた。


「あそこから落ちた時に足を痛めてしまったようです。冷やせば良いかと思って…」


 そう言って上の方を指さした直比呂の視線は、指先の小道の方を見上げる娘の端整たんせいな横顔に釘付けになってしまった。


「ちょっと失礼いたします」

 そばにかがんだ娘は、直比呂の足に触れて様子を確認していた。


「大丈夫。骨は折れてはいないようですね」

 微笑ほほえむ娘の、大きな美しく澄んだ瞳を見た途端、直比呂は何か温かいものに全身が包まれた感じがした。


 娘は、直比呂に肩を貸し、その華奢きゃしゃな体つきからは感じられないしっかりした足取りで、近くに有った娘の小屋に直比呂を連れていった。

 また、ぐに小屋の近くから薬草を取って来て、くじいて少し腫れている直比呂の足に揉んで貼り付けると、川から汲んできた水で薬草を煎じて飲ませるのだった。

 娘の手際の良い治療に、驚きながらも安心して身をまかせている自分に気が付いた直比呂。

 娘は言葉が少し不自由なのか、あまり多くを語らなかったが、その美しい瞳を見つめると娘の温かい気持ちが伝わって来るのがわかる直比呂だった。


 娘のことをいたく気に入った直比呂は、それからしばらくして、娘を自分の女房(使用人)として屋敷に呼び寄せるのだった。


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