晴明の煩悶(はんもん)

第1話 池のほとり

 手負いの虎が、唸り声をあげながら、今にも襲い掛かろうとしている。


 平安時代 ―― 陰陽師おんみょうじとして有名な安倍晴明あべのせいめい

 とある長月の夜。半月が水面を照らすだけの明かりの中、今、都のはずれにある山中の池のほとりであやかしと対峙している。


 全身に紫色の光をまといながら、その左手には、こぶし程の大きな水晶玉を乗せ、右手は印を結び、何やら呪文を唱えている口元にかざす。鋭い眼差しは、虎に向けられたままだ。


「なぁ…… お前、一度私と話をしないか?」


 落ち着いた声で虎に話しかけるが、虎はなお一層大きな金切り声で威嚇いかくしてくる。そんな中、式神しきがみが晴明に声をかける。

「晴明様、あやつは既に、怒りと恐れとに飲み込まれております。なおさら手負いとあれば、もはや、そのお声を聴く耳すら持っておりませぬ」



 式神の声を聞き、一瞬ためらいが浮かぶ清明の顔 ―― 程なく、


「そうか……、ならば致し方無い」


 次の瞬間、 エイッ という気合いと共に、伸ばした左手の上の水晶玉に印をむすんだ右手をかざす晴明。

 すると、水晶玉からまばゆい光が放たれ、虎を包んだかとおもうとスウッと水晶玉に戻っていった。


 その一瞬の後、辺りは何事もなかったかのように静まり返る。

 ふうっ と息を吐いた晴明が、寂しそうに独り言をつぶやく。


「もうひと時も有れば、お前を封ずることも無かっただろうに……」


 ひゅうっと一陣の風が、池のほとりのススキの穂を揺らしていく。


 束の間、静まった水面みなもには月が映り、晴明は月を見上げたままその場を動かずにいる。その横顔は青白く、身体からだには何物にも触れられないほどのやいばのような鋭さをまとっていた。


 



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