307.La célébration
――リディア!
呼ぶ声が聞こえる。
目を開けた時は、師団の中だった。三日間ほどリディアは眠ったままだったらしい。
ディアンがいた。
彼がリディアの右手を握っていた。
「お前――俺のこと、わかるか?」
覗き込むのは見慣れた顔。目に強い力を宿しつつも、リディアを真っ直ぐに見つめる瞳は少しだけ不安げで、案じるような眼差しだった。
リディアの頭に伸ばされた手は、前髪を掬い、そっとかきあげ撫でる。
小さく頷きながら、彼の後ろを見る。
ディックが硬い顔つきで、シリルが腕を組み様子を伺っている。それから、キーファとウィルも心配そうに、バーナビーは優しげな瞳で見つめている。
そちらをちらりと見て、またディアンに目を向ける。
「……ディアン、先輩」
リディアが彼の名前を呼ぶと、彼はわずかに黙り僅かに目を伏せた。彼の瞳は全てを語らない。
ただぐっと堪えるように唇を結ぶと、いきなりリディアの腕をぐいと引き寄せ半身を起こさせる。
近くなる距離。
背中を支えられて抱きしめられたと思えば、唇が重なっていた。
最初は驚き、呆然とした。でも確かな感触で、夢じゃない。
動揺で身動ぎしたら、支えられた後頭部がぐいっと強く固定されて、さらに深く重なった口づけ。
――触れ合う唇は温かい。
リディアは観念して、触れ合う革のジャケットを強く掴んだ。
彼の手がリディアの髪の毛をより強く掴んで、押さえつける。
伝わってくる体温と、彼の匂いが懐かしくて、リディアはなんだか泣きたくなって、目を閉じた。
――それが終わったのは唐突だった。
ディアンが不本意そうにリディアを離して、後ろを向く。ディックが偉そうに顎をもちあげてディアンを半眼で見下ろし、頭を殴った手を振っていた。
ちょ、これって上司に手をあげたってことで……ええと大丈夫?
「リディに手を出すなってんだろ」
ディアンはディックを咎める様子がないから、とりあえずいいかと安心したのも束の間。
「――俺の女に手を出して、何が悪い」
「誰が、誰の、何、だって?」
リディアはディアンの胸を押して、とりあえず離れる。
ちょ、っと。
今ものすごく恥ずかしいこと、言われたような気もしますが、私のこと……?。
「まあ待てよ。自称と、公認は大きな差があるからな」
シリルがディックの肩に手を回して、二人でディアンに対峙する。
「誰かに認めて貰う必要はない」
「じゃ、自称だ」
やだこの人達、臨戦態勢だ。
物騒な人たちから目をそらして、生徒たちのほうをちらりと見上げたら、バーナビーが笑っていた。
「リディア、お帰り」
「――ありがとう」
彼の穏やかで、何事もなかったような笑顔に、リディアも思わずつられて笑みを返す。
「……リディア、無事に戻ってきてよかったです。具合は?」
「問題、ないみたい。でもね、キーファ。ニンフィア・ノワールが……」
「ええ、俺も見ていましたから」
リディア自体の記憶も、彼らの記憶も、これまでの事実も変わっていないのか。
キーファはリディアを力強く見下ろし、何もかもわかっているというように頷く。
彼のことを彼女に託された事は言わなかった。キーファも知っているみたいだったから。
「帰ってきてくれて、よかったです」
キーファは、ただリディアだけを見つめていた。
何事もなかったかのように、他には目もくれずリディアだけを見つめて言うから、リディアもお礼を言いつつ、あれと思う。
今のって、何もなかったのかな。
それとも今の行為って、この世界で当たり前? こういうのが通常の世界に変わっちゃったのかな?
そう言えばディアン先輩が、こういうことするのって、ちょっと変な気もするし。そう思えば、どこからどこまでが自分の知っている世界なのかと、ちょっと不安にもなる。
「……リディア、えーと、お帰り」
ウィルだけが、複雑な顔で、言葉に詰まりながらそう言って、そしてリディアの頭に触れる。
これだけは、変わっていない。
頭にすぐ触れるのは、ウィルの癖?
「えーと、抱きしめてもいい?」
その瞬間、みんなが見てきてリディアは固まった。
リディアは少し下を向いて、それから顔をあげた。
――ようやく終わった。
そして皆が迎えてくれている。自分の居場所はここでいい。ここから、また頑張る。
「――ありがとう」
リディアは全員を見て笑顔を返した。
「私からも。みんなを――抱きしめさせて」
***
――風が今日は少しだけ強い。
頬にかかった髪を耳にかけるが、すぐにそれは落ちてきて、そしてまた頬を掠める。
肩より少し上で切りそろえた髪は、耳からすぐにこぼれ落ちる。軽くウェーブをかけた毛先、髪を切って少し大人っぽくなったとサイーダに言われた。
「――リディア!! 写真取るから来いよ!!」
向こうの芝生の丘から、ウィルが手をふっている。
――今日は卒業式だ。
先程、式典が終わり、生徒たちは各自中庭で、別れを惜しんでいた。
リディアも書類を配ったり、来賓への挨拶で駆け回り、ようやく雑務から解放されたところだ。
――今日でリディアも出勤の最終日だ。
今年度で退職届を出したリディアは、彼らの卒業式に合わせて仕事を終わらせ、後は有給休暇の消化。
今日までは、師団での新しい防衛網構築の協力と、カーシュの治療も行った。
彼の目はキーファの魔法で復元できたが、やはり障害があったのか見え方や視力が完全に戻るまで、時間がかかるようだ。
しばらく彼の元に通って、日常生活には支障がないところまで回復の手伝いをした。
師団での特殊任務の復帰はまだ時間がかかるが、彼は無理をしそうなので時々様子を見に行く予定だ。
皆のところにたどり着くと、個人端末ではなく立派なカメラを三脚に載せてキーファがセットしていた。
「――趣味なんです」
少しだけ顔を赤らめて恥ずかしそうに言う彼に、リディアは笑いかける。
「素敵な趣味ね」
「今度、あなたを撮らせてください」
「……え!? そ、それは」
「うまく撮りますよ」
固まっていると、キーファは穏やかに笑いかけてくれるから、リディアは恥ずかしそうに頷いた。
いつのまにか、自分のほうが顔を赤くしている。
「――キーファ、早く来いよ。センセは真ん中」
チャスが催促する。
彼は師団のメディカルチェックを受けて、メンタルも安定していた。しばらくは師団で研究協力のバイトをして、情勢が落ち着いたらバルディアに戻るらしい。
「私は端でいいよ!」
「アンタがいちばん、ちっこいんだよ!」
ウィルに手を引かれて、真ん中に据え置かれる。
「ちっこい言わないで!」
「先生が中央に入らないでどうするんですか?」
キーファにもそう言われてしまう。
「真ん中は僕だよ」
「あーはいはい。好きなとこいけば?」
リディアとケイは隣同士になる。
彼の卒研は、ホントに大変だった。それはもう思い出したくない。
リディアはみんなに真ん中に入るようにいわれて、そこに収まった。
真ん中は主役みたいで、落ち着かないけれど、役目だしと割り切る。
キーファは個人端末を取り出して、操作をしている。カメラと連動していて、それでシャッターを切れるらしい。
教授たちは呼ばなくていいの? と思ったが、集合写真を撮ったからいいか。あの人達は早々にどこかへ行ってしまった。
リディアはケイとチャスの間に立ち、背の高いキーファとバーナビーとウィルが背後に並ぶ。
写真を撮り終えたリディアは、皆を振り返った。
担当していた学生の人数は、少し減ってしまった。
マーレンは卒業式を待たずにバルディアへ戻り、ヤンはバルディア内で先王殺害の疑いで指名手配をされて、二度と学内に顔を見せることはなかった。
でも自分の領域で退学者を出すと評価に響くからだろう。
エルガー教授のいつもの謎の単位のあげ方で、全員無事に卒業し、学位も授与されていた。
これって真面目に授業に出て課題も提出して試験も受けた学生と同等の扱いでいいの? と思うが、下っ端のリディアは異を唱えなかった。
上の方々が決めたことだ。
「――センセ。今日でおしまい?」
「そうね」
「師団で会える?」
「たぶんね」
チャスが聞いてくる。師団内で、すれ違うこともあるかもしれない。
「ウィルは、第一師団なんだろ? よく入る気になったよな。センセ目当て?」
チャスの指摘にウィルは肩をすくめて頷いた。
「じゃなきゃ、あんなとこ入らねーって」
それ、言っちゃう?
彼特有の照れ……ではないか。
彼は実力もあるし、努力もできる。成功にたどり着ける能力がある。
ディアンに特訓を受けていたとはいえ、第一師団に受かったのだからすごい。
(……見込みがないとディアン先輩は鍛えないから、当然の結果かな?)
「とりあえず、同じ職場っつーことで、よろしく先輩」
ウィルはリディアの頭に手を置く。ちょっと、背が縮む感じがするからやめてよ。
払い除けようとすると、ウィルは笑う。
「髪型、似合ってるよ。最近、すげーきれいになった」
「――ありがとう」
彼はいつもいきなりだ。
からかっているかと思えば、真面目な顔でリディアをドキドキさせる。
リディアは突然の褒め言葉に、目をさまよわせ違う話題を振る。
「ちなみに、新人は最初、特殊訓練の合宿だから、半年以上会うことはないからね」
「……」
黙り込んだウィルの腕をキーファが掴んで、リディアの頭から外させて向きなおる。
「先生は、バルディアに、どれくらいの頻度で行くんですか?」
「まだ情勢も安定していないし、マーレンも治めきれないから、しばらくはグレイスランドと行ったり来たりかな」
リディアは、次年度から
それとともに、バルディアの王宮魔法師も兼任する。師団のバックアップで王位についたマーレンの補佐をすることにしたのだ。
バルディアと繋がっていたほうがグレイスランドの益になる。だから師団はマーレンの王座取得に全面協力したのだ。
リディアが師団の人間として王宮に入るのも、まだ不穏な動きをみせるバルディア内部の監視と影響を与えるため。
でもリディアは、それらの理由に関係なくマーレンの力になりたいと思ったのだ。
「けど、ダーリング教授のフィールドワークが最優先だけどね!」
そして、もうひとつ。
ウィルのお父様で、魔法陣学の権威のアーサー・ダーリング教授のもとで博士課程に進むことにした。
もともと魔法陣学に興味があったし、祖母の残した紙片の印章の研究をしたかった。だからダーリング教授の面接を受け、そして受かったのだ。
一年でこの職場を辞めるのは中途半端で、悩んだ。
けれどリディアは、修士しか取っていない。教授、准教授になるには博士号を取らないと話にならない。このままここにいても、下っ端で終わってしまう。
だから尊敬するダーリング教授のもとで教えを受けて、博士号取得を目指すことにした。
「……は? 親父んとこって……俺、聞いてないけど!」
ウィルがしばし固まった後、リディアに詰め寄ってくる。
「言ってないもの。生徒に次のことなんて言わない」
受かるかどうかもわからなかったし。
「てか、マジかよ、ほんとマジかよって……キーファ、お前っ知ってたのか?」
そう言えば、ってウィルはキーファを振り返る。
「とっくに。今度は先輩ですね。よろしくお願いします、リディア」
「うちの親父んとこの院生になるって言ってたけど!! マジで……」
キーファは就職をせず進学を選んだ。ダーリング教授の修士課程に進むのだ。
ウィルは友人だからキーファの進路は知っていたのだろう。でも口の固いキーファは、リディアも同じ大学院に進学することは言わないでいてくれたようだ。
キーファとリディアはすでに、ダーリング教授のゼミで顔合わせをしている。
「修士も博士も同じ院生室ですし。今後も教えていただくことになると思いますが、よろしくお願いします」
「私のほうが、たぶんお世話になると思う。ええと、こちらこそよろしくね」
キーファのほうがぜっったいに優秀だと思う。
「そういえば、親父が明日からどっか行くって……」
「ええ。教授は研究のためにハラール国の図書館都市に入都が認められたの! 私も院生としてお供させていただくの!!」
そのために仕事を全部終わらせて、残りの有給休暇を全て当てたのだ。
――南東の大砂漠を超えての古今東西の書物を集めた図書館都市。リディアの学歴では生涯訪れることは無理だが、ダーリング教授の経歴ならば問題ない。
院生としての同行だが、師団の一員として教授の護衛も果たさなきゃいけない。
「俺も同行します、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「はあああ? 聞いてねーけど」
「言ってないもの」「言ってないから」
リディアとキーファの声が重なる。
ちなみに教授の護衛は
南東砂漠はかなりの難所だ。慣れたものじゃないと難しい。
リディアだけでは心もとないが、ディアンやディックが護衛するならば、教授の安全は確保されたも同然。
人を選ぶという図書館都市に、彼らは拒絶されるのではと余計な懸念をリディアはよぎらせたが、彼らは以前も、かの都市に護衛で訪れたことがあるらしい。
「まあさ、合宿がんばれ」
チャスがウィルの肩を叩く。
ケイは個人端末を持って、中庭で撮影をしているようだ。就職はせず、そちら方面で稼ぐらしい。
バーナビーも就職はせず、自宅で過ごすようだ。「また逢えるよ」と言われたから、どこかで逢えるのだろう。
全員、魔法師の国家試験にも受かり魔法師になる。教師としては教え方が未熟で足りないところばかりで、申し訳なさも残る。
でも彼らが生徒で、出会えて、よかった。
――ゆっくりと空を見上げる。
まばらな雲の合間に青い空が覗いている。キラリ、と光ったのはアウダクスの子竜の尾だ。まだ父竜には及ばないが後継として、空を守ってくれている。
時々空を巡回しているが、今日姿を見せてくれたのは、サービスかもしれない。
リディアは全員を見渡して、笑みを浮かべた。
「これからは、同業者だから。魔法師としてよろしくね」
狭い世界だから、また何度でも会うし、仕事も一緒にすることになる。
そして多分、みんなは自分よりも優秀な魔法師になる。
「みんな――卒業おめでとう。そして、みんなが生徒でよかった。――ありがとう」
リディアが言うと、みんなが見返す。
「先生になってくれて、ありがとな」
ウィルが代表のように言い、無邪気なようで大人びた笑みを返す。
そして。
「アンタは、ずっと俺たちの先生だよ。――リディア」
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*La célébration
(儀式)
長い間、リディアの物語にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
この話は、本来はここで終わりになります。
ヒロインが未来に誰を選ぶのかは、未定のままです。
ですが、少しだけヒロインにひとつの未来の幸せをあげようと思います。
次話は、たくさんある未来ルートの一つの結末です。
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