303.Ante diem rationis

「リディ!!」


 シルビスを包囲していた魔法師団と合流して、ディアンと共にグレイスランドに戻ったリディアは、即座に高い背に抱きしめられた。


 メンバーに比べると中肉だが、鍛えた身体は硬く、力強い。

 痛いほどの力で、まるで離さないという万感の思いをこめているかのような抱きしめ方。


 子どもの頃から一番に守ってくれて、いつも助けてくれた存在――ディックだ。


 リディアはその懐かしい感触が現実だと思い知り、浮かんできた涙を堪えて、同じように抱きしめ返す。


「ディック……」

「マジ、で。心配した、焦ったし」

「うん」


 随分長い抱擁の中で、リディアは何度もこみ上げてきた感情をやり過ごす。

 どれだけ心配させただろう。自分勝手に、解決できると思っていた。


「ばか、やろ。もう、どこにも行くなよ」

「うん……」

「もう二度と、あんなこと、考えんなよ」


 それから、とディックは続けた。いつもよりしつこいくらいに。


「お前がどんな目にあおうと、どんなことになっても、絶対連れ戻すからな」


 耳元で囁くような小さな声に、リディアは泣き笑いを浮かべた。


「腹に子がいたって、関係ねえんだよ。――そいつもまとめて、面倒見てやる」


 全部、ばれていた。お見通しだった。

 わかっていた。隠せるはずないって。でもそれに対してみんながどんなふうに思うかって、それを考えるのを拒否していた。


「ごめん……、ごめんなさい」


 ディックがリディアをようやく解放して、リディアの髪をかき回すように撫でた。


「いつまでも、俺はお前を見捨てねーし。ずっと、何があっても、何をしても、助けてやる」

「……うん」


 リディアは一度、肩で大きく息をしてこみ上げてきた涙を堪えて、そして頷いた。

 ディックから離れて、リディアは他の師団のメンバーと、それから協力してくれたウィルとキーファを見つめ返す。


「――平気か、リディア?」


 ウィルがすごく言いにくそうに聞いてくる。


「ちょっと休め」


 シリルが伸ばしてきた手をリディアは掴んで、そして首を振る。


 以前にこうやって戻った時は、かなりのダメージを負っていた。それを思い出されているのだろう。けれど、休んでいる暇はないし、何よりも気づいたから。


「大丈夫。それよりすぐに動かないと」

「……まだ無茶です」


 キーファがこわばった顔でリディアに断言する。でもリディアは笑った。作った笑みではなくて、吹っ切れたものだった。


「気づいたから。自分ひとりじゃないって」


 行き過ぎた自責の念。行き過ぎた自己責任感。


 シルビスに生まれたのも、そこで役目を果たさなきゃいけないと思ったのも。


 ――自分で追い詰めていた。


 グレイスランドに対して、自分がいたせいで皆に迷惑をかけた、自分が責任を取らなきゃいけない、自分一人でシルビスに対抗しなきゃいけないって、全て抱え込んでいた。


 でもそれはただの自己満足だった。

 そう思うことで、何かを償い、何かの代償になるって思っていた。


(――私は、ヴィンチ村での失敗で学んでいたはずなのに)


 自分が人に頼れない、自分で抱え込んで失敗する性格だって学んでいたはずなのに。


 ――自分の人生を決めるのも、自分の失敗に責任を取るのも当たり前だ。


 選択肢が狭められて、選べるものが少なくなった時に、道を最後に選ぶのも自分。

 でも、自分しかいない、自分でやるしかない、そうやって追い詰めていって。

 自分しかいないって、思いつめて、そうやって今度は――いじけてしまう。


 誰もいない、自分しかいない、そうなってしまったら、差し伸べられた手さえ払い除けてしまう。

 自分しかいないって自分の殻に閉じこもって、物事を解決できなくなる。


 自分で自分を追い詰めて、誰も助けてくれないって思い込んでしまう。


 ――人は、一人では生きられない。

 一人で生きなくてもいい。


 誰かが助けを求めていたら、リディアは助けるだろう。

 だから、リディアも助けを求めていい。助けてくれない人もいる、でも助けを求めちゃいけないなんて自分で思わなくてもいい。


 余裕のある誰かが手を伸ばしてくれるかもしれない。

 最初から、ずっと仲間はいた。リディアのことを心配して、いつも助けてくれていたのに。


「心配してくれてありがとう。――もう、大丈夫だから」


 リディアは、皆を見て微笑み返す。


「シルビスにはもう帰らない。そして太陽の主を、封じなきゃ」



***


 話し合い、決行まで一時間の休息となった。

 リディアはその間に医務室で診察を受けて、報告のためディアンの執務室を訪ねた。


 ノックをしても応えがない。ドアに手をかけたら、カチリと音がして、解錠された音がした。入っていいという意味らしい。


 そしてドアを開けると、彼が背を向ける形でソファに頭を預けていた。


「先輩……」


 寝てる? いや、遠隔魔法でドアを開けたのだ。鍵は彼の意思で自由に開け締めができる。


 リディアが入っても、目の上に腕をかざしてだらりとしている。


 シルビスの宮廷どころか、国全体に網を張り、彼の国を制圧したのだ。それにかける時間と労力は並大抵じゃない。


 消耗していないはずがない。

 けれどそんな彼は珍しくて、出直そうと戸口で立ちすくんでいると、彼がちょいちょいと指で手招きをする。


「……」


 えーと、来いということですよね。

 何か怒られるのかな? 起こしていいのかな?


 恐る恐る近づくけれど、彼は起きる様子がない。具合、悪いのかな?


「先輩、大丈夫?」


 顔を覗き込もうとすると、不意に後頭部が掴まれて引き寄せられる。驚いていると、彼が起き上がり不意に近づく顔。

 そして、唇が重なっていた。


 ――離れた顔に、ようやく事態を飲み込む。


「慣れてねーの」

「……な」


 フッと笑う顔は、馬鹿にしたようなものじゃなくて。呆れたようでもなくて、むしろ穏やかでどこか嬉しげだった。


「あっ……な、れてなんか……」


 いるか! 


「だろうな」


 なにその、満足げな顔は! どうせ慣れてませんよ! きっと自分は悔しげな顔をしてるんだろ。


「せ、せんぱいは、そりゃ……」


 そこまで言って、リディアは言葉を飲み込んだ。自己嫌悪というより、これ以上は自分が落ち込むだけだ。


 彼は不思議そうな顔をして、サラッと言い放つ。


「俺がお前に、それを見せたことあったか?」

「え?」

「お前に告られてから、見せてね―だろ」


 リディアは思い出す。十六歳で彼に思いを告げて砕けた後。


 ディアンは、相変わらずお姉様方のアプローチを受けていた。なんとか省のトップとか。どこかの機関のお偉いお姉さまとか。


 みんな長い髪のウェーブを緩やかに流して、堂々と腰を振り、身体にフィットしたスーツを着こなして、ディアンを名指しで当然のように執務室に訪ねて来ていたけれど。


 リディアは次第に眉を寄せた。そりゃあ、モテてはいたけれど。ウワサもたくさんあったけれど。――真相はしらない。


「……誰もいなかったの?」


 いやいやいやいや、まさかね。

 彼は肩をすくめるだけだった。肯定とも否定とも取れる態度だ。いた、はずだよね? 


 だって。


「それって、大丈夫なの? まさか先輩、病気?」


 男の人って、耐えられるわけがないよね!? 

 知らないけど、生理現象でしょ?


 思わず漏らしたリディアに、ディアンはムッとしてソファから立ち上がる。


 あ、怖い。


 一歩下がろうとしたリディアより、ディアンのほうが早い。

 彼はリディアの腕を掴んで、壁に手を押し付けて顔を覗き込んでくる。


 彼の迫る顔、その横に押し連れられた自分の右手。それを横目で見て、リディアは顔をゆがめた。

 今は白く何も汚れていない。その白さが……偽善だ。


 カーシュを傷つけた手。血は洗い落とされたが、行為は消えない。


 沈黙した自分を見て、ディアンは不意に強くリディアの右手首をつかみ、唇を寄せる。


「……せ、せんぱい」


 眼差しを伏せて肌を唇で喰むように触れる感触に、リディアは小さく声をあげる。


 温かい舌先が確かにリディアの肌を舐める。そこだけが鋭敏で、何も考えられなくなる。

 声を失ったリディアを、ディアンの眼差しが見据える。


「――あいつは、気にしてないって言っただろ」

「でも私のしたことは消えない」


 ディアンは壁に押し付けたリディアの手を、指ごと包み込むように右手を重ねる。


「お前の手は、癒す手だ。お前に癒やされたやつは多い」

「……」

「お前より俺らのしてきたことのほうが、ずっと最悪だ。それならお前は俺を厭うのか?」


 リディアはディアンを見返す。


「私はずっと庇われてきたから」

「――違う」


 ディアンは即座に否定した。


「うちには戦闘バカのほうがずっと多いんだよ。お前がやる必要はないし、お前の代わりは誰もいない」

 

 彼は一つ区切って。リディアの首に顔を寄せる。


「……特に、俺にとっては」


 囁かれる言葉は、耳元で。更に近くなった声が、リディアの頬を掠める。


「で、誰が誰の――何をしたいって?」


 思考が停止する。罪悪感にとらわれていたリディアはそれさえも強制終了させた。


 何のこと?、は一瞬だった。


 答えるよりも顔が赤くなっていって、それを意識するとますます顔が熱くなってくる。彼が屈んでいるのか、額と額が合わさる。


 笑みを浮かべた顔が、笑っているのに、何かこう、言わせようとする迫力のような。

 でも楽しんでいるような脅しのような。


「忘れたのか? 自分の言ったこと」

「え、と、あの、」

「言えね―なら、このままでいるか? それとも思い出させてやろうか? ――行動で」

「あ……」


 言えない、言えるわけないよ! 

 その楽し気なのに、妙に色を滲ませた表情に思考が完全に停止して、声さえも出ない。


「――リディア」 


 先程までとは打って変わって、優しい声。

 耳元に口を近づけて、吐息が耳朶に触れる。軽く耳が甘噛みされて、痛みよりも触れた唇の感触に、もう頭がどうにかなりそう。


「――そー言うのって、女に言わせるモンじゃねーんだよ」


 バンって大きな音を立てて、ドアが開く。


 ひっと肩を揺らして、慌ててリディアは腕を伸ばして全力でディアンを突き放した。


「――施錠してんのは、入ってくんなって意味だって理解してないのか?」

「こんな鍵、ねぇのも同然なんだよ」

「へえ? 物足りなかったか?」


 ディックは好戦的だし、ディアンも不機嫌を隠そうともしないし。


「リディ。カーシュは元気だ。お前のことを気にしてずっとウルセーから、コイツは妬いてるだけだ」


 こ、こいつ? 団長だよね?

 コイツ呼ばわれされたディアンを見返したリディアだが、彼はわずかに苦い顔をしているだけ。そしてディックはディアンを無視して、リディアに近づいて頭に手を置く。


「リディ。覚えとけ。お前がどんなヤツの子を宿そーが、俺が面倒みてやるからな」

「あ、はい」


 思わず頷いてしまうけれど。ディック、そんな仮定の話をしても。


 でも、そんな事態の渦にいたのだ。

 それに師団にいる以上、その危険がないわけでもないし。


「お前にそんな面倒をみてもらう必要はない」

「そうかあ?」


 会話に口を挟むディアンに、皮肉げに返すディック。


 いつにもまして、ディアンに敬意の欠片も払わないディックに、リディアは不穏な空気を覚えて、顔を引きつらせる。


 えーと二人、なにかありました?


「――殴った」


 ディックはリディアの気持ちを察したように、即座に答える。


「お前を連れずに、一人でとろとろ戻りやがったから」

「でもそれは――」


 私が、追い返したからで。


 ディアンは黙って偉そうに腕を組んでいるが、口を開くことはしなかった。もしかして、気にしてる?


「ええーと。先輩、平気だった?」


 ディックは一応ボスには遠慮しているが、相当に強い。ディアンが負けるわけがないが、えーと。

 ディアンはどう対応したんだろ。部屋も大丈夫だった?


「シリルがブチ切れて、半殺しにしそうになったから、俺が止めた」

「――あ、あ、は……」

「シールドの団長夫妻からも呼び出されて、正直あっちシルビスにいて拷問受けていたほうがよかったんじゃねーのかよ?」


 ディアンは顔色ひとつ変えないが、不本意そうな、気まずそうな。

 リディアはそちらを見て、内心でちょっとゴメンって思った。


「ワレリー団長は平気?」

「――光の主、ないしは太陽の主はかろうじてまだ抑えてある。あの人は問題ない。ウィルも――なんとか、人としては保っている」

「どういう意味?」

「獣と一体化したんだ、魔力が枯渇して今は補充薬の世話になってる」

「……そう」


 じゃあ、リディアが戻った時、あの場にいたのは、かなり辛かっただろう。


「ほっとけよ。あんぐらい、うちの新人研修よりマシだ」


(そ、そうだね)


「リディ。後少しだ、休んでおけ」

「――うん」


 シャワーを浴びて、師団のベッドで横になろう。

 そう思ってリディアは出ていくディックを見送った。


「リディア」


 彼が出ていった後、ディアンが呼びかけるからリディアは振り向いた。


 ディアンがリディアを見下ろす、その目は真摯で。今までになくリディアをまっすぐに見つめて離さない。


「何があっても、どんなことがあっても、お前を見捨てない」


 だから、と彼は続けた。


「――頑張れるな」


 案じて、心配して。でもその手は絶対に離さないと言ってくれたから。

 

 リディアは頷いた。


*Ante diem rationis

(決裁の前)

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