282.逝きしもののつとめ
“――愛しい子”
どこまでも白い空間にいた。足がついているはずの地面もわからない。天井もわからない。ただ、白木蓮がいた。
“――とうとう、それをやってしまったね”
美しい顔だった。長い金の髪はゆるいウェーブがかかり、足先まで伸びている。まるで絹糸のよう。
瞳はリディアと同じエメラルドの色。でも内側から光に溢れていて、目を離せない。兄が最も美しいと思っていたが、比べ物にならない。兄が模倣された人形にしか見えない。
彼は人間よりも表情に溢れ、穏やかで優しい眼差しをリディアに向けていた。
――これまで光に溢れ眩しくて、直視できなかった姿。
そして初めて見た彼の姿は、全身が、黒く醜い瘤のある蛇行する血管のような痣で覆われていた。
リディアはその姿を見て、叫びを堪える。手で押さえて、謝罪の言葉を飲み込む。
自分は――なんということをしてしまったのか。こんな状態で、放置して、力を借りていたのか。
堪えていたのに、声が滑り落ちてしまう。
「白木蓮、ごめん……なさい」
せめて、涙はこらえる。リディアは両手を口で覆い、深く膝につくほど頭を下げた。
リディアが呪いを引き受けたせいだ。
そのせいで彼がこんなことになってしまった。この状態で彼はずっとリディアに力を貸してくれていたのだ。
彼は首を振る。
“――これは私が決めたこと。君が謝ることではない”
ただ、と彼はつづけた。
“――君がこれをしてしまうこと、それを私は恐れていた”
死に逝く人との命の交換。――エクスチェンジ。
その魔法は、リディアしか知らない。白木蓮に叶えてもらえる最後の方法だった。
“――御覧。皆が悲しんでいる”
ディアンが叫び魔法を唱えている。キーファが目を開けて、ふらりと頭を抑えながら起き上がろうとして胸を押さえ、身をかがめる。だが、周囲を見渡して騒ぎに気づいて、目を見開いて呆然とする。
ウィルはもう、ケイをそのままにしてリディアの胸を圧迫し心臓マッサージをしている。
キーファが辛そうにでも堪えて、よろめきながら、リディアの頸動脈を触知して、ウィルと協力して救助しようとしている。
“――迷いはなかったのかな”
リディアは首を振る。衝動でしたことだ。
でも考えてみても……間違えていない。
“――おいで”
リディアは差し出された白木蓮の手を取る。そして彼の胸の中に抱きしめられる。
熱い感情がこみ上げてくる。
――ようやく、彼に会えた。ようやく抱きしめてもらえた。それはまるで父に抱きしめられたような、そんな満足感と嬉しさに満ちていた。
「白木蓮。私の主。――いままでありがとう」
ずっと一人だった。誰かが、欲しかった。誰かに見てもらい、側にいてほしかった。
白木蓮との契約は、偶然で、リディアの力ではあり得なかったこと。
あれから、たくさんの問題が起きた。でも――彼がそばにいてくれた。リディアを見守る存在、それがどんなに生きていく上で力を与えてくれたか。
“――私と行くかい?”
リディアはほんの一瞬逡巡したあと、俯いて、それから微笑を浮かべて頷いた。
少し悲しい気もする。寂しい気もする。
でも――ホッとした気もする。
彼の背後には温かい道がある。穏やかな光に照らされている気がした。
“――この世界に、後悔はないのかな?”
「私は、もう役目を果たしたと思うから」
魔法師団での日々は辛く大変だった。けれど、初めて自分を見てもらえた。自分を鍛えて、育ててもらった場所だ。今思えば、懐かしさしかない。
大学では、自分の至らなさばかりが思い出される。生徒の彼らに助けられた。自分が育てたわけではない。
最後まで見届けられなかったけれど、彼らに会えて、よかった。
白木蓮はリディアの返答に、悲し気に目を伏せた後、リディアを離した。
“――愛しい子。君には話していなかったことがある。――君の力だ”
「私の、力?」
“――君には、私の甦生の力を貸した。けれどそれに隠されていた本来の君の力がある”
首を傾げるリディアに彼はほほ笑んだ。
“――浄化の力”
「浄化?」
“――君は呪いを引き受けたね。蘇生魔法と同じように、命を一度取り込むように、呪いを取り込んだ。けれど、本来それは私の力の範疇ではない。
「どういうこと?」
“――君が呪いを身に入れることができたのは――君の持つ力、浄化の力。そのためにできたこと。
「私の……浄化?」
“――呪いを受け入れて、それを消す力、それが君の浄化の力”
「白木蓮、どういう……こと?」
“――君には月の君になる可能性が残されている”
「月の君……?」
創世記に出てくる存在。かの話では光の主に求められて、闇の王と取り合いをされた存在だ。いきなりそんなものを持ち出されて戸惑う。
“――月は、等しく生きるものに慈悲を与える。君がそうしてしまうのは、月だからかもしれない”
「白木蓮、私はそんなのじゃない」
“――いいや。君には浄化の力があった。それは、月の君である証”
それって何のこと? なにがいけないの? どうしてそんなに悲しい顔をしているの?
「それは、私があなたじゃなくて、月の君を主に持つ、ということ?」
彼は首を振る、どこか悲しげな顔だった。
“――違う。君が『月の君』そのものになるんだ”
「それって。――人間じゃなくなるということ?」
“――そうだ。そうすれば、君は死なずにすむ”
リディアは戸惑うだけだった。
白木蓮が見せてくれている現実の映像では、まだ皆が混乱していた。リディアを助けようとしている。
“――私は君を月の君にする最後の
「そのピースを私に与えると、白木蓮はどうなるの?」
“――もうわかるだろう? 私は太陽の欠片。そして彼を封じる楔”
「そのピースを私に与えたら、太陽の主が甦ってしまうの?」
太陽の主は、シルビスでの呼び名。グレイスランドでは光の君という。同じであって、少し異なる。
どちらにしても、蘇らせてはいけない存在だ。
“――どのみちもう私には抑える力がない。そして月の君が目覚めれば、必ず太陽の主は目覚めてしまう”
「あなたを失うならば、私はそれにならない。あなたと行く」
“――愛しい子。そう言ってはいけない。彼らを見なさい”
ディアン、キーファ、ウィル。みんな大切な存在だ。彼らを失うよりはましだ。
“――君がそう思う以上に、彼らは君を大切に思っている。君を失うことを恐れ、君を失ったら耐えられない。それは彼らも同じだ”
「でも……」
“――人は慣れる生き物だ。いつかは君を失ったことを受け入れる。けれど、喪失は永遠の痛みだ。去る者が、置いていかれたものの感情を無視してはいけない。自らの感情を整理させて終わらせてはいけない。相手が先に進めるように、道を作るのも置いていくものの役目”
「――白木蓮?」
“――人も、神も同じだ。永遠に得られぬものの幻を忘れることはできない”
リディアは戸惑う。それは、誰のことを言っているの?
『――時を直前に戻し止めました。まだリディアは死んではいません』
キーファが焦りながらもディアンに告げる。まだ顔色が悪い、生き返ってくれてよかった、と思うけれど、咳き込む様子を見て無理しないで、と思う。
ディアンはリディアの胸をはだけ、呪いを確認しながら詠唱を続けている。
いったい何をしようとしているの?
キーファが、リディアの時間を止めているということ?
『おい、白木蓮! リディアをとどめておけ! ウィル、結界を張れ。誰にも邪魔はさせるな』
ディアンが命じる、何をしようとしているの?
“――君を月の君に。――そう思ったが、彼らは、諦めてはいないようだね”
白木蓮が苦笑していた。
何? どういうこと?
『リディア、ふざけんなよ!! どれだけ俺がお前に時間をかけて慣れさせてきたと思うんだ!』
怒ってる。怒ってるけど、何!?
『お前の呪いは、お前の魔力に張り付いている。これから、俺の魔力を流し込む。ずっと慣れさせてきたんだ、耐えろよ』
(――は? え、ええええ!?)
『俺が何もしてこなかったと思うなよ。お前の呪い、全部引きはがしてやる』
“――彼は、君の中の呪いを引きはがすつもりだ。そのための術式だったのだろう”
白木蓮が示すのは、リディアの腕に刻印されたディアンの魔法術式だ。確かに長い間彼の魔力を注がれてきたけれど。
(そういう術式だったの!?)
ディアンの魔法術式は、呪いの進行を止めるためだと思っていた。けれど、ディアンの魔力を流し込む――彼の魔力をリディアに慣れさせるためのものだったと?
呪いはリディアの魔力に根付いている。でも、ディアンの強い魔力を流し込んで、一気に剥がすというのか。
これまでの呪い、そして今回の呪いも全部剥がせるの?
(そんなの、無茶!!)
“――彼は、そのつもりのようだね”
「――ちょっと待って!」
ディアンの魔力!? 冗談じゃない。レベルが違い過ぎる。
(――私が、壊れちゃう!)
リディアの身体がディアンの魔力を流されて耐えられるわけがない。彼の魔力はマグマのようなもの。リディアの身体は、プラスティックのコップのようなもの。
器が違いすぎる。無茶だ、やめて。
“――生きなさい、愛しい子”
白木蓮の姿が光に溶けていく。はらりとリディアの掌に花びらが落ちてくる。大ぶりの花びらが一枚。真白だったはずのそれは、今は茶色に変色し、枯れかけている。
これが、白木蓮の最後の欠片だ。
「白木蓮、白木蓮!! 嫌よっ」
『――リディア、耐えろよ』
ディアンの声が響く。そう言って彼は問答無用で、リディアの中に魔力を注ぐ術式を発動させた。
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