267.安息のとき
ふりむいて、リディアはその姿に安堵に似たものを覚えた。ようやく息がつけたような感じがする。
「キーファ……」
彼は入口付近を振り返りいぶかし気な顔をしたあと、一言断ってからリディアの前に腰を掛ける。眼鏡の下は、相変わらず警戒した目つき。
ただしリディアに向ける時は、案じる眼差しだ。
「――今の人は?」
「覚えているの?」
「……うっすらですが。体格が良い、一般人ではないですね。師団の団長クラスだ」
リディアは表情には出さなかったが、内心驚きとともに不安を覚える。
「
キーファの瞳に僅かに驚きが見える。彼は、自身の突出した能力に気づいていない。誰も注視しない、記憶から消されてしまう存在を覚えていて、しかも正体を見抜いている。
観察眼の鋭さ、それで説明していいものだろうか。
(けれど、イースクがわざと気づかせた、という可能性もある)
「……何がありましたか?」
「対抗戦の招待状を渡しただけよ。受け取って貰えなかったけれど」
リディアはそう言って、封筒を鞄に戻す。だがキーファは、なにかを言いたげな顔をしている。気まずさから目を逸らすが、僅かな不満が彼から発せられる。
「何かありましたね。――何を言われましたか?」
聡い。そして、ここに彼がいる理由もリディアはわかっていた。師団の仲間から連絡が行ったのだろう。
キーファは大学から来たのだろうか。午後は講義がなかったはずだけど、図書館で卒研の論文を書いていたのかもしれない。年度末で国家試験の勉強もあるし、生徒も暇じゃない。
リディア個人を気にかけ行動させて申し訳なく思う。
「……心配かけてごめんなさい」
彼は少し表情を和らげて苦笑する。
穏やかで、余裕のある表情だ。ウィルもそうだが、キーファにも教師として導くよりも、世話になってばかりいる気がする。
彼の服装は深い紺色のデニムジャケット、二つほどあるメタルボタンはドーム型でカジュアルブランドの刻印が入っている。ジャケットを前で留めず、その下の淡い水色のシャツは、キーファの瞳とよく合っている。
イースクとは違う装いだが、彼の服も安物ではない。仕立ての良いもの。ちゃんとした家庭で育てられたのだと改めて認識する。
「見張られていると憤慨してもいいんですよ。あなたの周りで妙な揺らぎがある、と連絡を受けました。ただ悪意はなさそうだからと確認でしたが」
リディアは首を振った。自分をマークしてくれているのは、彼らが心配していてくれるからだ。
「……ですが、あまりいい相手ではなさそうですね。あなたの表情を見ると」
「そんなこと……ないけど」
一応否定をすると、給仕がキーファの前に珈琲を運んでくる。そしてリディアの前のロイヤルミルクティーを下げてしまう。慌ててまだ飲みかけです、と言おうとしたら、アフタヌーンティセットの三段プレートが運ばれてきてしまった。
「――頼んでませんが」
キーファが珈琲を置く給仕に言い、リディアも頷く。そもそも、このアフタヌーンティセットは、上のカフェで行っているもの。ここで受けられるサービスではないはず。
「ご注文も、お代もすでに承っておりますが、なにか不手際がございましたでしょうか?」
洗練された動作の給仕がさも心配そうにキーファに尋ねるから、リディアは言葉に詰まる。
「いいえ、あの。このセットは、こちらでもいただけるんですね」
「お客様の特別なご要望として承っております。ところで、こちらにはお好きなお飲み物をお選びいただくことができますが、何がよろしいでしょうか」
リディアに差し出された茶色い革のカヴァーのメニュウは、紅茶に緑茶、中国茶、そしてフレーバーティがそろっていて、しかもホットもアイスも可能、おまけに飲み放題。
ロイヤルミルクティーでさえ注文に躊躇したというのに、シーズンフレーバーまで飲めるとは誘惑が半端ない。
困惑を見せるキーファに、リディアは目の前の珈琲を飲むように促して、自分はスペシャリティという枠に目を走らせる。
迷った末に『ファム・ファタール』と名付けられた白薔薇とアーモンドのフレーバーティを頼む。
「――リディア?」
「その団長からよ。その珈琲はあなたの分」
「このセットは?」
「……私が食べたいなって思っていたの。思っていただけなんだけど……」
眼鏡の下のキーファの眼差しが思慮深げに伏せられる。けれど、眉は顰められている。
「食べるんですか?」
「作ってくれたのはホテルの人だし。食べ物は粗末にはできないから。一人では食べきれないし、一緒に食べてくれない?」
三段プレートの一番下は、
上段のプティフールは、グラサージュショコラが艶やかなオペラ、透明なゼリーのようなナパージュで赤が引き立てられたイチゴが載ったタルト、抹茶のチョコレートで覆われたエクレール、そしてピスタチオとヴァニラのマカロン。
お茶を待っている間に次々と、他のプレートも運ばれてくる。
白磁のデミタスカップには一口程のカボチャのポタージュ、ガラスの器に入ったパプリカのムースは、トマトのジュレが煌めいて、縁に飾られたシュリンプのカクテルとともにバジルソースがかけられている。
「スコーンはお替りができますので、お申し付けください」
スコーンが食べ放題のティセットは、なかなかない。
リディアは、三段プレートの横に置かれた温められたスコーンの籠をキーファに差し出す。レーズンに似たそれより小さなドライフルーツのカランツ入りと、プレーンの2種のタイプ。
テーブルの中央に置いたのは三種類のスプレッド。バターよりあっさりしつつも芳醇な香りのクロテッドクリームに、フランボワーズのコンフィチュール、レモンとバターで作られたスプレッドのレモンカード。
本当は下段から食べるのが正式らしいが、スコーンが冷めるのは嫌だ。
正式な食べ方は無視して、まだ困惑の表情のキーファに冷めちゃうからと勧めると、彼は気乗りしないという顔でリディアを見返す。
「……できれば、俺が喜ばせたかったです」
「ええと」
「とりあえず、次回は別のホテルでリベンジさせてください。約束してくれたら、食べます」
リディアは、半分に割ったスコーンにクロテッドクリームとたっぷりのフランボワーズのコンフィチュールを載せたまま、困惑してそのまま固まる。
「落ちますよ」
キーファに指摘されてコンフィチュールを落とさないように慌てて口に入れると、口の中でクロテッドクリームが溶けて、フランボワーズの甘酸っぱさと混ざり合った。
鼻腔を抜けるバターの香り、サクサクとしたスコーンの感触を楽しみながら、飲み込んだ。
「食べちゃいましたね」
「……うん」
「じゃあ約束ということで」
あれ、ちょっと条件が違う。
そう思いながらもリディアはお茶を口にした。白薔薇の瑞々しい香りが鼻を掠めた。
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