244.揺れる翠の意図するもの

 兄が出ていき、リディアは椅子に腰をかけて拳を握っていた。


 部屋には、兄が見張りを兼ねてつけた侍女が一人控えていた。

 リディアの着付けを手伝った彼女からは、相変わらず親愛も敬愛も感じられない。ただ侮られているような雰囲気を感じる。


 それは、リディアがシルビスに帰った時に屋敷の者たちから向けられる感情と同じだった。


 今さら何も感じない。そんなの当たり前だったから。

 何も、感じない。

 そしてなにも、できない。できる気がしないのだ。


 この後馬車が呼ばれて、シルビスに連れ戻されるのだろう。

 

 首にかけられた魔法封じのネックレスは重く、リディアから気力を奪う。けれど、これがなかったとしても、自分は動けただろうか。


 わからない。どうしたらいいのかわからないのだ。


 微かな音がして扉が開く。力なくそちらに目をやると、王宮のお仕着せをまとう侍女が部屋を訪ね、兄が連れてきた侍女に何かを囁いている。

 二人は知己ではない、リディアの見張りを兼ねている彼女は余計な対応をする羽目になり、迷惑そうにしている。


『――を渡すようにと』

「処分してくださいませ」

『とにかく渡すようにと命じられてますので』


 こちらは客人扱いだが、リディア付きの侍女より王宮の侍女の方が格上だ。

 ツンとした態度を隠しもせず何かを押し付けて退出していった彼女に、リディアの侍女は不機嫌さを隠しもせず乱雑に扉を閉める。


 普通は主人であるリディアの前でそのような態度は許されない。それだけリディアは侮られているのだ。


 だが、そんなことはどうでもよかった。

 彼女が手に無造作に掴んでいたのは、バルディアに入国した際のリディアのジャケットだった。


「処分するように命じておいたのに……」


 美しく化粧した眉を顰め、忌々し気に部屋を出ようとした彼女を見て、リディアは素早く距離を詰め、その首に手をかけていた。


「な……、なにを」

「動かないで――」


 足を絡め、彼女の足を壁に縫い付ける。もうとっくに処分されていると思っていたはずのジャケット。それを見て、身体が動いた。

 

 王宮付きの侍女――マーレンの仕業だ。

 最後に彼が告げた力強い言葉。必ず逃げろ、と彼は言っていた。


「そのジャケットを返しなさい」

「これは、アレクシス殿下のご命令で――」

「あなたは命令通り、それを処分した。そう兄に伝えればいい。ここであったことは何もない」


 首を押さえる腕に圧をかける。彼女の目に怯えが見える。リディアは引く気を見せなかった。


 やがて、彼女の身体から力が抜ける。その瞬間、リディアは喉から手を放した。床に落ちるその身体を、音を立てないように注意を払い壁にもたれかけさせる。


 廊下の外には、兄の配下の者がいる。そのうち異変に気付くだろう。

 ジャケットの合わせを破いて、隠してあったキーファからのネックレスを手にする。


 ――泣きそうになる。キーファと、マーレンの思い。

 それを思い出し、心がわずかに動いた。


 今まで動けなかったのに、わずかに湧いた強い感情にリディアの本来の自分が動けと命じる。


 ……でも、まだ動けない。


 エメラルドのネックレスは、リディアと同じ瞳の色。


 裏返すとカシェットの印章。

 壁に半身だけを出して、隠れているのか覗いているのかのような少女、自分と似ていると感じるそれを撫でていると、ふらりとめまいのような感覚に襲われて、その図が揺らぐ。


(……え)


 その印章が消えて、浮かび上がるのは別の模様。二重に見えるのは、気のせいじゃない。


(これって……)


 ふっと、わずかに首が軽くなった。締め付けが弱くなる。

 

 リディアは息を吸う。まるで、今まで息ができなかったかのように、ようやく少しだけ空気が得られたかのよう。


 窓の外は雨で視界が悪かった。外の景色は、闇雨あんうにかき消されて、ぼんやりと影しかみえない。

 だが、塔や宮城の影が見えないということは、この部屋の窓は内庭に向いていないということだ。


(城壁側の部屋?)


 光の主の治める東が“正しい向き”とされる北・中央諸国連盟では、主要な建物は東に配する。このバルディアでも、正殿は東。その左右に翼を広げるように、南翼棟と北翼棟と呼ばれる棟が展開し内庭を囲んでいる。


 人の気配のなさからも、リディアのいるこの部屋は、正殿ではない。そして、魔法師はどんな場所でも、現在地の方角を察しなければいけない。


(――南翼棟の端?)


 窓の外、雨に紛れていくつかの影が見えた。

 闇に溶け込む質素な二頭立て馬車。目立たぬように黒い外套を着こんでいるが、動きからすると軍人だ。

 向かう先はおそらく裏門。


 直感で悟る、マーレンの移送だ。


 彼だって宮殿内に伝手つてがないわけではないだろう。早々に連絡の取れない場所に移送し幽閉してしまうか、または道中において不慮の事故による死亡を装うか。


 治療を受けていない可能性も高い、放置しておけばどっちみち死んでしまう。

 

 先王弑逆の罪を被せるには、うってつけだ。


 ――お前は、何もできない。


 兄の声が、リディアの身体を固くする。


 リディアはもう一度、キーファから貰ったペンダントを握りしめる。カシェットの印章の下に隠されていたのは、見たことのある魔法陣だった。


 ――限定転移陣。

 転移陣は通常施設などの定位置に固定されている。持ち運びのできる携帯のものは、まだ開発途中だ。

なぜ、こんなものが隠されていたのかはわからない。転移先もわからない。


 けれど、術式をみると、一人だけを転移させられるものだ。


 今しかない。

 今、行かないとマーレンは、もう助けられない。


 リディアは、椅子の背を掴んで窓に向かって振り上げた。

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