243.盛られる毒、積もる濁
兄の足が近づいてくる。リディアは顔を上げられなかった。
その足元を見ながら、臀部を床につけたまま
兄が手を振り上げる、その動作に思わず顔をそむけた。パンっと右頬が鳴る、衝撃と共に床に倒れる前に、左頬も張られる。
間断なくリディアの首飾りに指を差し込んだ兄は、そのままリディアを引き上げる。
リディアはただ呻いただけだった。
「お前には何もできない」
首輪のように締め付けるネックレス。息がかろうじてできるだけ。
リディアは目をゆがめて、彼を見返そうとしてできなかった。すでに負けている。自覚して、意識して見返そうとしても、目を彼に向けられない。
「生徒の命を救うこともできない。むしろ庇われた。シルビスを出て、いったい何ができた? 何がお前のもとに残った?」
「それ……は……」
「その姿では一人で帰ることもできない。裸で出口まで行き馬車を拾うか? そのあと、その恰好で路上に立ち、男に拾われるのを待つか?」
リディアは口元を歪ませた。何かを言おうとして、声が出ない。
首を拘束されているからではない。まるで喉や胸に何かが詰まっているかのように、言葉が出てこないのだ。
――いつもならば、相手を突き飛ばし、この格好のままで兵士をなぎ倒し、衣服を奪う、それぐらいはできるはずなのに。
「学習できないのならば、させてやる。コルセットもドレスも着こなせない、満足に歩けもしない。シルビスの女性ならばできるすべてが、お前にはできない。魔法師団にいたのは、男を満足させるためだけのお飾りか」
「……っ」
違うと言いかけて声をのむ。反抗を許さない兄の糾弾だ。
「その目だ。その反抗的な目が、疎まれる原因だ。何もできないくせに、しおらしくも振る舞えない。お前が見下し出て行ったシルビスの同輩たちはどうなった? 結婚し、子どもを産み、夫を立てて夫人として暮らしている。なのに今のお前には何がある?」
兄がようやくネックレスから手を外し、そのまま突き飛ばす。リディアは床に手をついて、せき込んだ。
涙が滲むのは、咳込んだ生理的な反射のせいだ。けして、兄の言葉のせいじゃない。
「職を失い、家もない。己で身を養えない者など生きる価値もない。今のお前には、街角で男に拾ってもらうしか能がない」
「……違い、ます」
ようやく出た声は、か
追い打ちをかけるように返ってきたのは、さらに辛辣な言葉。
「何が違う。――お前がシルビスで破談となった後、職を得られたのは自分のこれまでの功績だと思っていたのか」
「……」
リディアは息を飲むことしかできなかった。問いたいけれど、問えない。
師団を辞め、実家を追い出され、住み込みの家庭教師の職を得たのは幸運だと思っていた。けれど、誰かが手を回していたのだとしたら。
「――何事も成すことができないもの、というのはいる」
兄の言葉は淡々とリディアの胸に染み込んでいく。
「本人は努力をしているつもりでも、いつも中途半端で達成できない。何もなし得ない、何も得ることができない。おまえはそれだ」
反論、できなかった。
師団も辞めさせられた。
大学も退職になった。
リディアの同世代の女性たちは、嫁ぎ子を産み、立派に夫人として認められている。
自分は、何ができたのだろう。
何が、この手に残っているのだろう。
何も成せない、何もできない者。そう言われてしまえば、そうなのだろう。
「お前が家を出た後、ディアン・マクウェルがどこを捜索したか知っているか?」
不意に出た名前に、虚を突かれる。
顔を上げたリディアの顎を兄は掴んだ。
彼の瞳はリディアよりも濃く、深い輝ける“シルビスの至高”と称される
「奴は、シルビスを含め北・中央国連盟の高級娼館から貧民街の娼婦、あらゆる売春街でお前の行方を調査した。洗いざらいな」
「せ……団長、が」
それは、何と言っていいのか、わからない衝撃だった。
そんなこと思いもよらなかった。探されるだろう、そう思ってはいたが。
あの時期のリディアは、自身の行動をよく覚えていない。家にいて縁談を受けたのもどこか遠い自分で、父に家を追い出されて彷徨っていたのも、自分ではないような、そんな心もとなさで。
家にいると、いつも思考ができなくなるのだ。
「どんなに認められようとしていたとしても。お前には娼婦になるしか
床についた手が震える。
胸を突く痛みは、何からもたらされたものか、わからなかった。
「何か言うことはあるか」
「……」
何も、とリディアは言いかけて、いったん口を閉ざした。
「――マーレン殿下は、どうなるのでしょうか。彼への救済措置は――」
答えてもらえるとは思わなかった。
「……」
「それだけか」
兄がバルディアの軍事クーデターになぜ協力したのか。いつから関係を結んでいたのか。問いかけても、兄は答えないだろう。
「お前にその答えが得られても何ができる」
そして兄は、リディアの疑問を見通せるようだった。
「シルビスに戻る。その反抗心を、充分に砕いてやる」
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