195.シルビスの楔
リディアはサイーダの彼女のそういえば、と切り出した言葉に絶句した。二人とも研究室で互いに背を向けながら、各々の資料をつくっていた時だ。
「ミユが大学辞めるのよ」
「――え? ええ!?」
「今日父親が、退学届をだしてきたの」
「ケヴィン・ボスと婚約してましたよね」
妊娠? 一瞬、そう思ってしまうけど、口にはしない。配慮が必要なことだから。それに妊娠していても大学を辞める必要はない。
「――解消したみたい。シルビスに帰るって」
リディアは絶句した。キラキラした指輪。それ以上に輝いていた笑顔。
サイーダも辞める理由はわからないという。面談した教授からは国に帰るから、それだけを聞かされたようだ。
ミユは受け持っていたわけではないが、個性が強すぎて印象が深い。
だからだろうか、リディアの中に棘のように深く刺さってしまって、どうしてもこのことを考えずにはいられなかった。
***
中廊下を歩いていたところで、校舎の壁に寄りかかるミユを見かけた。A4サイズの茶封筒を持っている。何らかの書類だろうか。
ぼんやりした顔に、リディアは慌ててそばに駆け寄る。
「ミユ……ギルモア? 大丈夫?」
「――先生」
ケヴィンは? という問いを飲み込む。別れたと聞いて、問えるはずがない。でもいつも彼女の背後にいるケヴィンがいないのは違和感だった。
別れたと聞いても、信じられない。どう考えてもどう見ても、彼女が望んだようには見えない。
「――さよなら言ったの」
彼女の脇に下ろされた手、何もない薬指。
「返したの、ケヴィンに」
リディアの視線を追う前に、彼女は予期していたように、いや最初から言いたかったように呟いた。
「どう、して?」
「――リディア、先生」
床に、雫が垂れる。
「パパがね、戻ってきなさいって」
彼女は涙を拭おうともしない。
「私、結婚するの。パパが相手を決めてくれたの。前の奥さんが死んじゃった四十歳の男の人。貴族じゃないけど、お金持ちの商人で、子どもがいないから。でもミユなら望めるから」
「……ミユ」
思わず名前が漏れた。それ以上は言えない。それであなたはでいいのか、なんて聞けない。
「優しそうな人。他に奥さんも持たないって約束してくれた。ミユには十分な条件だよってパパが」
ケヴィンのほうがよほどいい、普通はそう思うだろう。同級生で、同年代。彼の家だってそれなりに裕福だ。何よりも両思いだった。
「パパの言うとおりにする。そう思ったらね――ホッとしたの」
リディアの胸が痛む。ミユの思いは――多分痛いほどわかる。
父親に反対される、それを押し通すことの難しさ。どんなに相手が好きでも、好条件でも、ケヴィンはグレイスランドの人間で――シルビスの男性じゃない。
「『シルビスの女は、シルビスに帰る』それって、やっぱり本当なんだね」
ミユの涙、歪んだ笑顔。
諦め、けれど受け入れていた。それでいいと彼女の顔は言っていた。
彼女を見送っても、リディアは動けなかった。ミユには何も言えなかった、慰めもできない。良かったとも言えなかった。
シルビスの格言。
シルビスの女は外では生きていけない。必ず戻ってくる。……だからこそ、父も、兄もリディアを好きにさせているのだろう。
リディアはシルビスに戻る――それを彼らは確信しているのだから。
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