163.試練
「リディア!」
キーファは少年を追い越し、横をすり抜ける。その際少年の顔を見る。子供特有の柔らかそうな頬の輪郭、恐らく十歳前後だ。手にした禍々しい気配を放つ本を閉じる顔は、大人じみていて、眼差しも怜悧でアンバランスさに不気味さを一瞬覚えた。
そして彼は穴を一瞥すると、覗き込むこともなくあっさりと背を向けてしまう。
『リディア。せいぜい愉しめよ』
そう告げて去って行く背中は、去り際にちらりとキーファを見た、気がした。
これは過去のはず、見えていないはずだから気のせいだろうか。
キーファはそれよりもと、慌てて穴を覗く。
穴の中は――大量の虫だった。青黒く光る背の虫が、大量にうごめいている。足が生理的嫌悪に逃げたがる気持ちを堪える。
虫は壁を這い上がろうとするが、見えない壁に阻まれているかのように落ちては這い上がり落ちては這い上がる。
「リディ、リディア!? そこにいますか!!??」
キーファは、身を乗り出して叫ぶ。小さな手、それから金色の頭髪が見え隠れしている。
「誰か!?」
キーファは振り返るが、そこには誰もいない、恐ろしいくらい静まり返っていた。
“――助ケルノカ ミステルノルノカ”
この空間の背後には、今にも炎に包まれようとしているバスがあった。
どちらかしか助けられない、というのか。
“――全テ等シク”
凄まじい音が響く。背後でバスが炎に包まれて爆発する。
リディアの頭が虫の中に埋もれて、見えなくなる。
“ミステヨ 全テ等シク”
逡巡したのは一瞬だった
キーファは、何者かの視線を振り切るように前を見据え、そして穴に飛び込んだ。
(……う)
すさまじい感触だった。全身を這い回る虫虫虫。歯を、口を食いしばっても、目を閉じても、それは自分のすべての穴に侵入してこようとする。
キーファにはすでに分かっていた。これは。彼女の過去だ。
これが一体何の意味があるのか、それはわからない。
けれど、以前にリディアが話してくれたこと、虫の屍骸の穴に落ちたというもの。これは実際の出来事なのだろう。
だったら、助ける。それは当然だ。
(リディア、リディアはどこだ――)
手を夢中で伸ばす、彼女の姿を捜し求める。
耳の中に虫が入り込み、昇ってこようとする。這いずり回る、気が狂う。想像が恐怖を呼ぶ。
入ってくるな、無理だ。こいつが侵入したらどうなる。硬く閉じた瞼をこじ開けようともぞもぞと虫が這いずり回る。引き結んだ口の周囲で足らしきものがくすぐる。
頭の上を大量の足がはいずる。鼻の穴にも入り込んでこようとする。
無理だ。無理だ。気が狂う。無理だ。
だが手に触れたのは、虫ではない。
布地を引っ張ると確かな人間の感触が引き寄せられる。虫ごととそれを抱き寄せる。
キーファは自分の胸にリディアの後頭部を腕で押し付けて、できるだけ腕で耳の穴を塞いでやる。だがキーファに虫は容赦なく襲いかかってくる。
“――救エヌ”
キーファは、その声に僅かに意識を向ける。
“――選ブナ”
キーファはただ奥歯をかみ締めただけだ。
そして引き寄せる頭を余計に強く抱きしめて土壁に指をかける。小さな穴だ、キーファとリディアが二人で身を寄せれば、それだけで幅がいっぱいになる。
ただし、とても深くこんな状況下で這い上がるのは無理だろう。
“――救エヌ“
声が笑った気がした、冷笑というものだろうか。
“――力ハ等しく”
キーファは閉じた視界の中で、ソノ存在をにらみつけた。
“——循環サセル 選択ハナラヌ 全テ等シク”
お前が助けたせいだ、と頭の中で声が鳴り響く。
“——守ル 選ブ 出来ヌ 力ハ等シク 循環サセルモノ”
助けるな、選ぶな、というのか。
両者比べて選ばせて、どちらを選んでも無力だと言いきかせられているというのか。
キーファはリディアを抱きしめる腕に力をこめる。確かにリディアは過去を語っていた、覚えていないといっていた。リディアはこの過去を乗りきれたのだ。
キーファが助けなくても、彼女は乗り越えていた。
妹も、怪我を克服した。
リディアは、顔をあげない。キーファの存在も認識していないかもしれない。
けれど伸ばした小さな手でキーファに捉まっていた。しがみついていた。
“――誰モ 救エヌ”
(ふざけるな!!)
怒りがこみ上げてくる、こんな目にあわせた少年にも、それから傍観する声の主にも。
(――ならば、俺にこの虫を、全部向かわせろ!!)
虫を、リディアではなく自分に向かわせろ、そう怒りと共に命じる。
(彼女を放す、その代わり虫を俺に向かわせればいい)
”――オモシロイ“
いきなりだった。これまでがなんだだったのかというくらいに、さらに大量の虫がキーファを覆い尽くす。キーファは、リディアをできるだけ突き飛ばすように遠ざける。
これは、ただの過去なのか。まやかしに放り込まれたのか。それでもいい、記憶の中でも、まやかしでもリディアを裏切りたくない。
彼女を危害から遠ざける。そう決めたのだ。
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