156.チャスの災難
キーファに警戒を呼びかけたとともに、リディアが投げた守り石は空中で何かに接触し、翠色の閃光が弾ける。
同時に何かがすばやく棚の下に隠れる。
「――コリンズ! 無事っ?」
「平気です、そちらに行きます」
止めるまもなくキーファが駆け寄ってくる。背後のチャスを見ると、右肩を押さえていた、そこから赤い血が滲んでいる。
「なんかが飛び掛ってきて噛まれた」
「動物か何かか?」
「ロー、傷を見せて。コリンズ、ここを動かないで周囲を良く見て、何かいる?」
「いいえ、何も……隠れているようです」
リディアはチャスが握りしめていた自分のハンカチを取り上げて、押さえる手を外させる。迷いなく上着を外して、シャツをめくり、傷口を見る。何かに噛まれたかのように、大きく穴がうがたれていて、そこから血が止まることなくじわじわと滲んでくる。
「ロー、上着で止血するわ」
チャスの傷口にハンカチを当てて、上着の袖を使って止血するようにぎゅっと結ぶ。
「しっかりしてね。必ず助けるから」
キーファが見張りをやめずに、そのままの姿勢でリディアに告げる。
「ドアですが、サムターンが解錠されているのにノブが動きません」
外鍵のシリンダー錠で、内側はサムターンのツマミ式。施錠されていないのに、開かないとキーファは言う。
「外鍵は私が持っているしね。外から鍵がかけられたわけじゃないと思うわ」
ウィルは去る時に鍵を置いていったし、内側からは解錠ができるはず。一番納得のいく説明は、壊れた、それだけ。けれど――。
リディアは頷いて、落ちていた自分の守り石――翡翠を拾う。わずかに一部が白濁している。“何か”と接触したからだろう。ずっとリディアの魔力を吸い続けていたから、力を溜め込んでいて、かなりの衝撃を与えたはずだ。
その何かは痛い目にあって、今は警戒しているのだろうか。
「なんか茶色い手、みたいだった」
「人形の手ね、私も見たわ」
チャスが顔を青ざめさせている。キーファは驚いているが余計なことを言わずに考えているのだろう。チャスの傷は噛みつかれた、というよりも指でえぐられた、だろうか。
「遊んだから恨まれてんのか? 俺のせい?」
リディアは、手首を失くしたその人形を覗き込む。右手首と右目がない。頚部に両手をあてて頭を引き抜くと、リディアは中を覗き込む。
「――あなたのせいじゃないわ」
空洞となっている頭の内側には、赤いインクで文句が書かれている。普通こんなのものは、人型模型には普通書かれていない。
呪詛だろうか。
「それ何? 俺、恨まれてんの? どうしたらいいんだよ……」
「“チャス”、大丈夫よ」
恐怖もあるだろう、チャスの顔色はよくない。リディアは彼を胸に抱きしめて、背中を叩く。過呼吸のように苦しげに、ひくひくと喉をひくつかせている。
「ゆっくり息を吐いて、吐くことに集中して。吸わなくていい、そうゆっくりでいいから。吐くと息が吸えるでしょ? ほら私の心臓の音が聞こえる?」
頷く頭、耳に囁く。
「その音に集中して。上手に息を吐けているから。目を閉じて。寒くない?」
「……少し」
「少し横になって。大丈夫よ。今から悪いものを避ける魔法をかけるから」
リディアは彼の肩に自分の白衣をかける。出血が多いと循環が悪くなり体温が下がるし、体温が下がると更に血液循環が悪くなる。頭を下にさせて、頭部への血流を優先させる。
「センセ」
「ん?」
「俺死ぬかも。死ぬ前に、膝枕して……」
「――じゃあコリンズにお願いしましょうね。ねえコリンズ」
「いえ、あの」
話しが振られ、キーファが返事に躊躇している。
「ヤローなんか嫌だ」
「はいはい。とりあえず、キーファよろしくね。私は魔法陣描くから」
膝枕をどうするかは二人に任せて、リディアは周囲を睨む。
棚から何かと利用価値のある魔石と聖水を取る。まず魔石を六角形の頂点となるように自分たちの周囲に配置して、次いでそれを囲むように聖水で自分たちの周りに撒いて、指でなぞりちゃんと円を描く。水だから消えてしまうが、可視できなくてもいいのだ。
「……センセぇ……」
チャスの怯えた声に、顔を上げると魔法陣の外を、先ほど外した首がころころころころ転がってきて、逆さになって止まる。
「ひい!」
声を上げたのはたぶんチャスだ。自分ではないはず。
ところどころ抜け落ちザンバラの長い黒髪が地面に海藻のように広がる。逆向きの口がぱかりと開く、落ち窪んだ暗闇の眼窩とつるりとした木玉の眼が並んでいる。アンシンメトリーな二つの眼が、リディア達三人を見据える。
「大丈夫よ! この中には入ってこれないから」
ただの空洞だったはずなのに、開かれた口には不気味な鋸歯が生えていた。にたり、と口角が笑みの形を作り、開かれた口は耳まで裂けていた。
――ガチガチガチ、ガチガチガチ!!
絶え間なく歯が打ち鳴らされ、部屋中に響き渡る。
「こえー! こえええええよ!! センセが頭とるから怒ってんじゃん!!」
「なんで逆さなのかしら。ウケ狙い?」
「シラネーよ!! っていうか、なんでここに、隣に、体があるの? それで怒ってんじゃねえの?」
魔法陣の中、キーファとチャスの前には人形の体幹がある。リディアはあえて中にいれたのだ。
「大丈夫よ、この中にいれば安全」
人形の頭が外れた頸部から、体幹の中を覗くよう示す。
「内側に沿って線が走っているでしょう? これが魔導線。この線は心臓を起点に、頭と体と手足を通り、最後に心臓に戻り円を描いているの。心臓に魔力を注ぐと手足が動くのはそのため。だから今回は、魔法が注がれて動いているのじゃないわ。頭に書かれた呪詛で、頭だけが動いているのね。でも手首が動いたということは……手首にも呪詛が描かれているのかもしれないわ」
「先生は、どうするつもりですか?」
キーファがリディアを見つめる。
「あなた達は落ち着いて、怖がらないで。それだけでいい」
リディアは、素早い影のように飛びかかってきた手首に、聖水をかける。命中するまえに、それは素早く避けて、まるで小動物のように壁の際まで下がり威嚇する。
「魔法陣…結界陣の中まで入ってはこられないけど、一応、飛んできたら聖水かけて撃退しましょう」
「念の為に聞きますが、魔法は使えないのですか?」
キーファの問いにリディアは正直に答える。確かに怪しまれているだろう。
「ええ、使いたくない。理由のひとつ目は、この場所は色々な魔法具がありすぎて、魔法を使うのが危険すぎる。何があるのか把握していないから」
キーファとチャスの眼差しには誤魔化しができない。
「そして、あの傀儡人形にかかっている呪いが分からない以上、魔法をかけられない。もとは魔法具だから魔法耐性があるし、かける魔法によっては最悪な事態になる可能性がある」
「……」
「そして、今私たちは魔法陣で作った結界の中にいて、魔法を外へかけられない」
「そもそも、なんで外に逃げないんだよ」
チャスの問いにキーファが目を向けてきたから、リディアは頷く。
「恐らく、ローが人形に触れた時に棘が刺さったでしょう? あの血で呪いが発動した。ドアが閉じたのはそのせい。場が閉じられたのよ、だからここからは逃げられない」
「そんな……じゃあ、俺は殺されるの?」
リディアは、チャスの顔を上から見下ろしてにっこり笑う。頭をぽんと撫でる。
「大丈夫よ。横になっていなさい」
そして、魔法陣を作る前に棚から出しておいた魔法剣を取り出すと、自分の手首を検分する。なるべく血液が絞れる場所がいい。
「やめてください」
途端にキーファが短剣を握るリディアの腕を押さえてくる。本当に鋭い。
「コリンズ……」
「それならば僕の血を使ってください」
「ごめんなさい、それはできない」
「……なぜその必要があるのかは、教えてください」
「終わってからね。あなたは、人形さんを見張ってて」
黙りこむ彼はじっとリディアを見つめていて、梃子でも動かない眼差しだ。リディアの腕も放さない。
「センセ、――まさか、腕を切るとか――」
チャスも、警戒の眼差しだ。生徒の前で腕を切る、確かにショッキングだろう。リディアは息を吐く。
「呪詛は対象者の分身を埋め込む時があるの。あなたの血液であなたを襲うようになったでしょ、だから血液を上塗りしようかと思って。呪いの対象を移すのよ」
「そんなこと、やめてください!!」
キーファの声は、鋭くていつもの穏やかな彼からは想像できない。
「先生は女性です。そんなことを目の前でされるのは耐えられないし、許せないです」
「すごく切るわけではないの。数滴垂らすだけ」
「それでも、あの人形に襲われる対象になるなんて、止めて下さい!」
「私のほうが経験あるし、狙われても平気なの。対象を私にして、おびき寄せるからこの中で待っていて」
「それをやるなら、本気で止めます」
「本気の私を、阻止できないわよ」
リディアがいいきると、キーファは口を引き結ぶ。
彼の瞳は怒っていたし、悔しげでもあった。年頃の男の子に力の差を見せつける発言はよくないけれど、今はそちらの怒りに目を向けさせて、リディアのすることには意識させないほうがいい。
「……なんで、だよ」
チャスが、唸る。
「……そんな庇われ方……されたくねー」
チャスは、顔をあげて呟く。そしてキーファの上着を丸めた即席枕にぽすんと頭を戻す。
「ロー。起き上がらないで」
「そういうの、やめろよ。やられる方が傷つく」
確かに、自分だったらそんな犠牲はされたくない。
「ロー、ごめんなさい」
「胸枕してくれないと、死ぬ」
「死なせはしないから、安心しなさい」
エロ親父のような冗談を言いつつも、チャスの顔色はよくない。ここで閉じ込められている場合ではないだろう。
(治癒魔法――しかない)
リディアは、自分の左腕を押さえた。
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