雨桜

田川春樹

第1話

 春、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは桜であろう。桜が美しいことは周知の通りであるが、その美しさの感じ方については千差万別、十人十色である。満開の桜が一面に堂々たる様子で並んでいるのも壮観であるし、庭の中心に独り咲く孤高な姿も良い。また、蕾に将来への期待を湛えつつ二三の花を開かせている姿も風情がある。朝の桜にも、昼の桜にも、夕暮れの桜にも、夜の桜にも、それぞれの美点がある。短い開花の期間とは裏腹に、桜は実に様々な顔を持っているのであり、時世を越えて桜が日本人の心を掴んで離さない所以はこういったところにあるのであろう。

 とりわけ私に新鮮とも言える独特の感覚を与えたのは雨中の桜である。


 その日、私の両親はそれぞれの用事のために不在であり、夕食を自分だけで食べねばならなかった。幸いにも、家には冷凍の米飯があり、あとは副食物を調達するだけであった。料理をするのも億劫であったため、近所の中華料理店で持ち帰りをすることにした。街道沿いにあるその店は普段それほど忙しそうにしている様子もない上、味も良かったが、若干家からは行きづらい立地にあった。車で行く分には何ら問題はないが、街道沿いということもあって交通量も多く歩道も極端に狭いため、自転車ならまだしも、徒歩では行きづらい。しかしあいにく僅かながら雨が降り続いていたため、徒歩で行かざるを得なかった。

 電話で注文を終え、傘を持って家を出た。裏からまわって安全な道を通って行く、という選択肢もあったが、指定された時間まであまり余裕がなかったため、街道沿いに歩いて行くことにした。なるべくせかせかと早足で歩いて行ったが、小心者の私は車がそばを通るたびに小さな恐怖を感じ、手に持った傘がぶつからないか心配であった。

 店まで辿り着くと私は傘を畳み、入り口の引き戸を開けて中へと入っていった。店の中は閑散としていて客の影も見えず、雨音の他には微かにテレビの音声が流れているだけであった。ちょうどできあがった頃だと見える野菜炒めの入った容器をもらい、代金を支払うと礼を言って店を出た。

 雨脚はより一層強まり黒々としたアスファルトの上を水滴が勢いよく跳ね回っていた。私は傘を差し、行きとは違う道筋で帰ることにした。街道を走る車の立てる水しぶきの音や傘に叩きつけられる雨粒の音がうるさくも愉快であった。傘を差しているにも関わらず身体は濡れてゆき少しの不快感を覚えないでもなかったが、むしろ心地の良い感覚の方が私の大半を占めていた。

 料理が冷めるのを気にしながら少し足早に歩いていたが、ふと、小さな神社の前で足を止めた。そこには満開の桜が堂々たる様子で咲き誇っていた。雨にも動じることなく晏然としていたそれは、晴天下のものとは一風変わった、抑制された色調の下での重々しく貞淑な桜であった。まるでその桜の周りだけが別世界になっているかのように思われ、不思議な気分になりながら私は惹かれていった。雨や車の立てる音がだんだんと遠のいてゆき、肌を伝う雫の感覚すら失われていった。桜と、社と、私。それだけがこの世から切り取られて独立しているように感じられた。時間の進退すらここには無くなってしまったようであった。雨は桜に干渉することなく降り続け、私はそれらをただ見ている。それだけでこの世界は完結する。始まりも終わりもない一つの特異な小宇宙であった。延々と、延々と、私は桜を見続け、無関心な雨は降りしきる。あらゆる感覚が麻痺してゆき、自分がいる今ここがいつであってどこであるのかすら判らなくなりかけていた。視角の狭まった私の目には、同じように雨中の桜に見惚れた幾人もの男女が微動だにせず立っているのが見えていた。眠った赤子をおんぶ紐で背中に乗せているもんぺ姿の女や洒落た帽子を被り和服を着た丸眼鏡の男、刀を腰に差し袴を着た男や麻布の切れのようなものを身につけているそばかすの女といったまるで統一性のない人々が一様にジッと桜を見つめていた。

 ぼんやりとした頭で、ああ、私も彼らの一人になるのか、と思っていると、俄に、一滴の雨粒が桜を打ち、花びらがひとひら、落ちていった。ゆっくりと時間をかけ、気紛れに舞いながら、幾度も逡巡した後に着地し、しめやかにその小宇宙の終わりを告げた。

 音が再び蘇り、肌には雨水の湿気が感じられた。境内のどこかで雀が鳴いて、私は酷く恐ろしく美しい幻想から目の醒めた気がした。雨に紛れて一筋の汗が頬を伝った。再び私は足早に歩き始め、灯籠の並んだ境内を抜けていった。鳥居をくぐると目の前には街道があり、ヘッドライトの点いた車がしぶきを上げながら走っていった。手に持った野菜炒めの入った容器から立ち上る湯気がこの上なく生活的だった。

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雨桜 田川春樹 @haninoakaki

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