基礎からやり直さない


 私は上手に乗れない。

 何かが間違っている。だから……。

 もう一度、基礎からやり直そうと思う。


 と、言えば、とても聞こえがいい。

 実際、もう一度基礎から見直せ! とアドバイスしてくれる人もいるだろう。


 だが、あえて言う。

 基礎からやり直してはいけない。


 私は、馬との関わりを人生に例えた。

 自分の人生、どこかが間違っているな、と思った時、誰もが子供の頃に戻り、その時からやり直したい、と思うもの。

 でも、やり直せる人はいない。


 馬も人も、やり直せない。

 積み重ねたことは消えない。

 だから、身についた悪癖も、何もかも、白紙に戻すことはできないのだ。


 そもそも、基礎的な練習は、どんなレベルになっても必要なことだ、と思う。

 私は、体が硬くてバランスを取るのが苦手なので、乗り始めにかなり長い時間をかけて、馬上体操を行う。

 鎧を外して、足を回して見たり、腕を回してみたり……必要に応じて、狭い丸馬場で乗ってみたりもする。

 調馬索で運動を見てもらえるチャンスがあれば、そうするだろう。

 でも、それらの練習をするのは、もう一度、やり直したいからじゃない。今の私に必要だからするのだ。

 やれ駈歩だ、横運動だ、経路を踏むんだ……と、雑音ばかりの扶助を無理やり繰り出しても、馬は戸惑うだけだ。

 だから、そういう合図が通じやすい自分になるために、バランスの練習や馬上での柔軟性を養うことは、とても大切で、早道だ。


 基礎の練習をするっていうことでは、同じじゃないですか? と思うかもしれない。

 でも、乗馬はメンタルがとても重要で、自分がどういう気持ちで取り組んでいるのか? ということが、ものすごく重要だ。

 馬は、それを見抜くから。


 野球の王さんは、かつて畳がボロボロになるほど、素振りの練習をしたそうだ。基本が大事、といういい例だろう。

 だが、素振りだけで世界の王が誕生したわけではない。


 私は、広い馬場で駈歩ができるほどの人が、もう一度基礎からやり直したいから……という理由で、ずっと丸馬場で調馬索などのレッスンを受けるようになったのを、何人か見てきた。

 だが、その人たちが、再び広い馬場で駈けまわる姿を見たことがない。

 そういうレッスンがダメだというのではなく、おそらく、その人たちのメンタルが悲鳴をあげていたんだろう、と思う。

 やがて、乗馬から離れてゆく。


 もう一度、基礎からしっかりやり直す……と言えば、聞こえがいいけれど、その実は、今の自分はダメだから何も知らなかったあの頃に戻り、やり直したい……が本音だ。

 その基礎的な練習に戻ってダメなら、もっと以前へ、さらに以前へ、と後退する。

 そして、どんどん初心者に戻ってゆく自分に、ますます落ち込むのだ。


 人はスランプに陥ると、基礎からやり直したくなる。

 でも、自分の胸に手をおいて、よくよく考えて欲しい。

 今のできない状況がもううんざりで、何も知らないあの頃に戻り、やりなおしてみたい……と思っているのではないか? と。

 今の煮詰まった練習が、もう辛くなってしまったんじゃないか? と。


 自信がない時は、自信あることまでで留めておくことが大事だ。

 でも、必ず小さくても成功を積み重ね、自信にしていって、次に繋げないと、どんどん後退するだけだ。

 この場合の後退は、技量の後退ではない。

 乗馬の敵は、技量がないことじゃなく、自分の技量に自信がなくてやれなくなることだ。チャレンジから逃げることだ。

 飛べる能力が身についても、いつまでも巣立ちできない鳥のように、本当にできるの? 無理じゃないの? と尻込みすることだ。

 自信のない鳥は、そこにとどまるか、中途半端に羽を広げて地面に叩き落される。


 自信過剰になってしまい、まだやるべきことでないことにチャレンジしては、馬をかわいそうな目に合わせてしまう人は、見ていて痛い。

 でも、自信を失って、やれることをやらない人も、また、同じように痛い。


 馬にも人にも、最初から完璧を求めてはいけない。


 いくら基礎練習を重ねても、完璧になることはない。

 基礎練習には終わりがない。

 素晴らしいバランス感覚を身につけても、落馬する時は落馬する。

 馬が跳ねる時は跳ねる。それに耐え切れる確率が少しだけ増えた、それだけだ。

 それに、やり直したところで、同じ体を持つあなたは、おそらく同じ悪癖を身につけるだけだ。

 やり直せば完璧になると思い込むのはやめよう。


 自分に嘘をついてはいけない。

 見栄えするいい子ちゃんの言い訳はいらない。


 たとえ、人が「悪癖だ」と言おうが、あなたが身につけてきたスキルは、けして、無駄じゃない。

 そこまでやれるようになったのは、素晴らしいことじゃないか。

 そもそも、完璧な馬もいなくて、あなたがまっすぐじゃなくても、馬が歪んでいることもある。

 完璧な基礎を身につけている乗り手なんかいないのだ。誰もが自分の悪癖や癖と戦っている。

 あなたも、その仲間だ。






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