ド。はドレミのド、

@straightsalice

朝海16

 関東大会をこのかずねさんたち、大好きなメンバーでの最後の公演にはさせない。きっと勝ち上がって、全国の舞台に出る。高2の夏わたし朝海(あみ)は、ずっと憧れている演劇部部長にして脚本のかずねさんの卒業前最後の作品に臨もうとしている。舞台の袖で出番を待ち受ける私が目を、閉じると今日に至る様々な出来事が思い出される。


 横浜駅への到着のアナウンスが聴こえるのと入れ替わりにたくさんの人が車内へ押し寄せる。それ自体はわかりきったことなのだ。薄碧のラインの入ったこの車両に乗って関内のカフェに黄金町の服屋に幾度訪れたか分からない私たちには。この場所には海を媒介に集まりその豊かな穀物を文化を求め棲み着いた人々、そのたくさんの子孫がいるのだ恋を語らうお姉さんたち黒い膚(はだ)に白い歯を見せて笑い合う私立の凝った制服に黄帽の小学生ブロンドのOL車椅子の精悍な男。演劇とはそれが神に捧げられていた時代より変わらず数十メートル四方の凡庸な空間を聖域(サンクチュアリー)とみなし進むので、これからその大会に臨むからには慣れ親しんだ「当たり前」にアンテナをもっともっとぴんと張っておかないといけない。それが本番の会場に向かう部長のかずねさんと一緒にいられる最後の一回においても変わらないことを噛みしめ、はぐれないためにしっかりと人々の間を縫う。稀に押し退ける。

『クジラの耳が欲しいのです。』

 一度だけじゃないもう一度。この台詞を何度だって心の中で繰り返すんだ。 その一時間の間少年柿ノ木になるのだから。あと数時間後私(あみ)は高校演劇最高の舞台の上で一度死に、朝海(あみ)が帰ってくる。

 群れて生きるクジラは種類によって決まった音波を発信し同じ種類の仲間と交信するのだが、他にクジラに例のない五二ヘルツの周波数を発信する個体がいるとされている。仲間の助けを借りられないそれが一匹で生きていけるわけがないと思えるのだが、数々の観察が長年の生存を裏付けている。世界でもっとも孤独なクジラと呼ばれるそれが今回の脚本の軸となっていた。

 柿ノ木少年のことを思う。一人一人違う境遇、誰かには想像もつかないような、誰かにとっては当たり前のその苦難を聞き逃すまいと、本を書くことを心に決めていた十六歳の少年、本をよく読んでいた少年だ。

 朝海はそういう孤独を知らない。家庭環境、貧困、ある日の事故、山火事。陰惨な毎日を綴る、彼が読んでいたような本を読む度に目を逸らしたくなる。それでも、くじけてはいられない。かずねさんを私たちが全国大会に連れて行く。それが今の、十六歳のわたしの夢なんだ。



「柿ノ木のことを忘れてあたしは生きる。だからあんたたちは、勝手にあんたたちの物語を満喫してきなさい。…いってらっしゃい。」

「……いいんですか?」

「二度は言わないわよ。」

「ありがとうございます!」

「気が変わらないうちにさっさと練習しな。」

 あの時固唾を飲んで見守っていた私たちは、そのセリフを照れ隠しと受け取って、全身を使って感謝した。ファミレスの窓の外にはシルク博物館を始めとした町並みがあって、その先には山下埠頭と海が広がっている。

 かずねさんが大会に向けて用意したのは実在の事件を題材にした脚本で、これがコンタクトを取った千鳥さん--まり柿ノ木さんの幼馴染のお姉さんがそれを承諾してくれた瞬間だった。

「わかりました、--あたし、精一杯頑張ります!」

 かずねさんが声を張ると、地球の裏側まで届いてしまいそうに思える。私たちはそんな彼女を見ているのが大好きだった。共に在れるのが誇りだった。

 彼女がこれを題材に決めたきっかけは童話を読んだからだ。柿ノ木さんの唯一の作品。美談としてtwitterを中心に駆け巡ったその経緯によれば彼とその仲間たちもまた演劇部だったことは、否応もなくわたしたち自身を結束させている。

「熱いね。」

 思わずぽつんと呟いたような千鳥さんの声をかき消すように、店内には明るい話し声が響き始めていた。かずねさんの手の中には海藻と戯れる、小学生の柿ノ木さんと千鳥さん二人の今時珍しいポラロイド写真。手作業で現像してもらうタイプの、小さいころの思い出の残滓。

 そのクジラが引き合わせた、これはそれからたった数ヶ月後の、二人が海に行った時の写真だ。もう千鳥さんを庇った彼にいじめの矛先が向いているはずで、脚本で言えば序盤最後の場面に相当する。それでも、これから起こる事を二人は思いもしなかっただろう、多分。ふと、後輩が私に問う。

「あみ先輩、演劇続けないんですか?」

 空気が少し冷える。今この時に聞いてしまうんだね君は、と心中で毒づいてみるけれど、この部に入ったばかりの時は本当に幼かった彼が、「やめる」、じゃなくてこういう言い方ができる分成長、かもしれない。それだって、部長のおかげだった。



Q. ミドリムシ(ユーグレナ)は光を感じ取るとその方向に向かう。この性質をなんと呼ぶか

× A.反射

Q. 例えば大木が自然に倒れると、その跡に別の木が芽生える。

 木々のほとんどが残らない一次遷移ではなく、こうした現象二次遷移の繰り返しによって全体では森林の極相という姿が維持されるという考え方の名前を答えよ

◯ A.ギャップダイナミクス


 ショウジョウバエやネズミやイカが虐待される様を無機質に示す図表は正視できない。生物の参考書を解く息抜きに大学のパンフレットを並べるとき、数刻前の話が思い出されていた。バイトの家庭教師のお姉さんとパパと自宅で夕食を共にする時を思い返しながらふと、朝海はカバンに入っていた今回の脚本を手に取る。

「52ヘルツのクジラ、か。偶然だね。」

 先ほど読み込んだ教材の英文。人の勝手で漁網にかかったクジラを、危険を冒して助けようとした男たちの話。『手負いの動物が、自分たちを味方だと判断する可能性はほとんど無かったからだ。さらに悪かったのは、その動物は彼らとは比べ物にならないほど大きく、身じろぎひとつで彼らを殺せるという事実だった』

 事件に伴った噂通りにこの脚本に登場する、クジラと仮に呼ばれるそれは、その中ではたとえば学校の帰り道などにふと目撃される存在となっている。

「懐かしいな。」

「え?」

「ごめん、こっちの話。高二の時、クラスにクジラみたいな子がいてさ。」

「クジラみたいな子…?」

 図太いとかそういう意味だろうか。クエスチョンマークがいっぱいの私の脳内を慮るように、彼女は話題を変えた。

「勝手にそう呼んでたの。…これ読んでるとさ、確かにこの子たちが本当にどこかにいそうって気がしてくるよね。」

 私たちがこれから作る世界(ものがたり)は、一人の女の子の鉛筆で原稿用紙に書かれ、たくさんの身体によって表現される夢のひとつだ。今は深く潜っておく。確かに登場人物が実在するとでもいうように、リアルに想像する。だって部長の頭の中には、こんなにも生き生きした世界があるのだ! そんなことを考えていると、いつのまにか顔がにやけていたらしい、二人とも少し笑う。

「本当に演劇が好きなのね。」

「はい!」

 そう言うともずくの酢物を無事咀嚼し終えて、お姉さんはこう言った。

「それなら、部長の志望校を追いかけちゃえばいいのに。」

「…もう、何度も言わせないでください。それは二の次です。」

 心配をかけてるのは分かってた。結果がどうあれ、部長はこの夏をもって演劇部を卒業する。だけど、だから、彼女以外の脚本でできた演劇に今のような情熱を注げるとはどうしても思えない。それは失礼だけど私にとって真実で、別の大学だとしても彼女と同じ劇団に入れば、卒業後に彼女と活動すれば。いくつもの『もし』に私はもう一度かぶりを振った。

 これで最後だ。

「別のやりたいこと、探すのか。」

 一寸先は闇だ。自分が将来何をしているのか、何が起きるのか、皆目見当はついてないけれど。パパは私を見て頷く。

「私は普通です。大した才能がないのはわかってます。かずねさんに簡単についていけるほどこの世界が甘くないのは私が誰より分かってるし、今も悔しいけど。でも、」

 自分の日々を、誰か何か大きいものに簡単には売らない。

「あの頃は良かったねえなんてお茶菓子つまむような、そんな生き方、したくないです。」

 だから藻掻いている。幼児用プールからずっと泳いできたけど、あたしはそろそろビート板離すよ、と25mプールで先輩に言われて、社会の大海原というやつを少し止まって想像している。

「『これから投げ出される海がどんな風か教えてくれる声が聞ける、クジラの耳が欲しかった。今は、今いるこの海を知りたい。ちっぽけだけど僕が見てきた十六年。それがどんなものだったか十歳の誰かに伝える為に僕はこれから本を書くんだ。それって、とっても素敵なことだと思わないかい?』」



「思わないわよ。そんなの。」

 脚本の終盤辺りのセリフにして、童話にも広まっている両親の自伝にも似たようなことが書いてある柿ノ木少年の考えを、千鳥さんは否定した。広大な森の中の真っ赤な世界と、その後にずっと残る闇を想像する。それをされたら演じる私の立場はどうなってしまうのだなんて思えない感情がそこにこもっていた。

 柿ノ木役として一人呼び出された私は千鳥さんと話している。もう大学生の彼女は、就活の合間を縫って横浜に来てくれたのだと言う。私が名前も知らなかったような、森の近くの田舎で育ち、東京で死んでいくつもりの千鳥さん。

「あんたさ、このもずくってどうやって採れてどうスーパーに並ぶか知ってる?」

 突如そんなことを言った。

「…海で採れるんですよね、海女さんとかが採るんですよね。」

「藻に付着することから『藻付く』と言うが、海の底や岩で採れることもある。日本で流通するうち九十九パーセントは沖縄産であり、ほとんどが養殖である。…これは調べたことだけれど、畑のことなら、あなたよりは見てきた。」

 話が読めなかった。話しているうちに千鳥さんの声音はゆっくり静かになっていった。或は自らを落ち着かせるためにうんちくを語ったのかもしれない。

「こんなに華のないものでも、それを生業にして暮らし、誇りに生きている人がいる。」

 それはあくまで千鳥さんの価値観で、私はあの無機質な風味が好きだ。

「だけどそれはただ個人の価値観の問題だけじゃない。あの街はもう人が減る一方。あなたたちは、私達はそれから目を逸らしたまま大人になって、この街の普通を普通と決めつけたまま、」

「だからクジラの耳を欲しがったんじゃないんですか?」

「無理よ。無理なのよ、そんなの。」

 窓の向こうには港が広がっている。夜に在れば飾がさぞきらびやかであろう船もある。碧い昼の空の下、世界につながっているここからならなんだってできる気が小さい時からずっと、ここに来るたびにしていた。千鳥さんは吐いた溜息を隠そうともせずに言った。

「あんたは、あん、はっぴーだね。」

 あん、のとこをあいまいにして、千鳥さんは言った。

「しあわせなのか不幸なのかわかんないわよ。あんな人と出会って。」

「…考えたこともありませんでした。」

もう出会ってしまったんだ、碧い星の碧い街の中にある白い活動日誌を介してかずねさんと繋がった私は、もうそれ以外の偶然を考えることはできないし、それは無意味だった。

「取り返しがつかないんでしょ? ほんとうは。一度天才の存在、夢、喜び、なんでもいい。それを知ってしまったら、知ったままでこれから生きて行く羽目になる。私だって・・・ううん、おばさんね、」

「気が早すぎます。」

「カッキーのことをたぶん恨んでる。ああ言っておきながら、私のSOSさえ碌に聞いてくれなかった。隣にいたのに目が合わないまま、私は・・彼がああ言ったのは私と会ったせいよ。」

「それの何が悪いんですか。」

「あのね、」

彼女はひとことひとこと考えながら、窓の外を指差した。

「夜明けの朝日もさ、きっと全然違う風に見えてるのよ。」

あさひ? そこには気持ちのいい初夏の街路樹と、風光明媚な建物たち。

「明日が来るのが怖くて仕方無かったこととか、眠ることが救いになる感じとか、あなたにはわからないでしょう。」

そのもっと向こうには空と海の鏡のようになめらかな境を、昼の白い乱反射が叩いていた。

「わかります。それぐらい。」

 そう言いながら私は、数日前の家庭教師の来訪のことを思い出していた。脚本を読み上げたあと彼女は忠告したのだ、クジラが心地良いのは同じ周波数の仲間同士といる時であって、誰もは同じになれない、云々。

「それでいいの。これは私だけのもの。私だけの経験。…人に簡単には渡せない。」

 彼が聞いて書こうとした世界は彼自身にとっての現実だったけど、かずねさんの見ているのはこれからみんなに見せる夢で、別の世界を生きた一人の元演劇部員、千鳥さんは自らの指をもって私の下がっていた口角をずり上げた。

「…渡したよ。私の知ってるカッキーのことを。今なら安心して任せられる。ほら、わかったら、かっこよく可愛くしてないと承知しないから。」

 ささやかな夢を見ることすら許されない大勢の人を差し置いて、私たちは大きい夢に向かう。かずねさんを含めた部員を呼ぶように千鳥さんは言った。

「柿ノ木のことを忘れてあたしは生きる。だからあんたたちは、勝手にあんたたちの物語を満喫してきなさい。…行ってらっしゃい。」


 そして、前説の後輩とすれ違い、ドアを開けた。出番の時だ、足元の段差は暗く、ただ非常灯と誘導灯のみが照らしている。向かっている方が正しいかどうかなんてもう考えない、今はただこれから起こる情景を強く強く脳裏に描いていく。

 いつか、いつか私も死ぬ。その前に少しずつ老いていくことを、一生を日が昇り沈むことに例えた考えを倫理で習った。これは夕暮れから振り返る時恥じないためなんかじゃない。幕が開くその音。ゔーんー碧い春が幕を閉じようとしている。

「クジラの耳が欲しいな。」

 セリフを言うのにともなって、鼻腔で冷たい空気を取り入れた感触があった。

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