第三十五話 「誰かを犠牲にしてでも生きるのは、決して間違いなんかじゃない」
ディアーレンの住人達にとって、月明かりのない夜だったからこそ幸いであった。
心の弱い者なら一目見ただけで失神する、異形の魔王。
魔王を越えた魔神とも錯覚しそうな、その巨体を目にする事が無かったからだ。
だがしかし、その幸いの中の不幸は、闇夜が音までも塗りつぶさなかった事だろう。
彼らはその夜、怪音と轟音に悩まされる事となった。
では、そんなリーシュアリアと敵対してしまったラセーラ達はどうか。
彼らは今、圧倒的な力を前に怯え逃げ出す事も叶わず――――。
「――――嘘よっ!? 嘘嘘嘘嘘嘘――――ああああああああああああああ、そんなっ、そんな――――っ!?」
リーシュアリアが一歩踏み出しただけで、巨大魔獣は踏みつぶされ。
それだけでは無い。
頭足類を思わせる触手、一本一本がフラウの巨体より太いそれが振るわれる度に、巨大魔獣は消え去る。
吹き飛ばされ、なんて生温い事ではない。
跡形もなく塵となったのならば、まだ魔獣にとっての救いとなったかもしれない。
だが。
「何よそれっ――――!? 吸収してるっていうの!?」
圧倒的な暴虐を前に、ラセーラは美しい顔を見るも無惨に歪め、ただ逃げまどう事しかできない。
否、ここは惨劇を回避出来ている事を褒めるべき所だ。
それだけ、魔王リーシュアリアが強大なのだ。
ミリーとイレインを抱え、後方に避難しているアベルを見て、そこが安全地帯だと把握したラセーラは一矢報いるべく突撃を開始する。
「せめてお前だけでもっ!」
「――――出来ると思うなよ」
魔王の力、異世界の理により音の壁さえ突破した速度の拳は、しかして、アベルの左手一つで受け止められた。
国一つ、ましてや田舎街程度なら楽に壊滅出来る戦力が、いとも簡単に屠られ。
ただの人間相手にも叶わない。
ラセーラの顔に深い絶望が浮かび、そして次の瞬間。
「――――ここで、終わりかぁ」
アベルの異形の右手――――リーシュアリアから奪った権能、それから放たれた一撃がラセーラの胸を串刺しにした。
いかに魔王とはいえ、同じ魔王のそれも格上の力で心臓を破壊されては死ぬ以外に他は無い。
消えゆく命を前に、アベルは問いかけた。
「言い残す事はあるか?」
限りなく冷たいその言葉に、ラセーラは血の涙を流しながら睨んだ。
「我ら吸血種の魔王は、代替わりをするの…………、アタシを倒した所で第二第三の…………、それらがもし破れ、塵になったとしても。人の心に憎悪が、そしてこの世に異世界の理が在る限り――――」
ラセーラは血を吐き出す。彼女は急激に冷たく、動かなくなる体に、辛うじて残された力を振り絞って叫ぶ。
「――――世界にっ! 人類に災いあれっ! 生きとし生けるものよっ! 絶望の中に沈んでいくがいいっ!!」
そして、古の魔王ラセーラは死んだ。
かつては人類の支配に王手をかけた彼女であったが、今回は辺境の街一つ落とす事が出来ずに死んでいった。
「…………これで、終わったんですか? アベルさん」
呆然と呟くように出されたイレインの問いに、アベルは頷こうとし――――、それが出来なかった。
「――――妙だな」
通常、魔王が倒されたならば、その眷属である魔獣は動きを止め。
浄化と呼ばれる光に包まれて、新たな生物へと変化する筈である。
しかし、それが無い。
それどころか、未だリーシュアリアは巨大魔獣相手に蹂躙を続けている。
吸血種となった小型の魔獣の姿こそ無いが、巨大吸血種は無尽蔵に沸いて出ている様に見えた。
アベルが考え込む中、ラセーラの支配により木偶の坊と化していたミリーの瞳に生気が戻る。
命令以外では動けないまま、一言も話せない状態の彼女であったが、全てを聞いて、見ていたのだ。
その上――――。
「――――殺して、殺してくださいアベル様」
「ミリーっ!?」
「説明してくれるな、ミリー…………」
のろのろと立ち上がり、死を乞い願った彼女に、アベルは油断無く右腕を差し向ける。
「待ってアベルさんっ!?」
「いいの、イレイン。――――ごめんなさいアベルさん。私が、次の魔王みたいです」
真っ直ぐに出された言葉にアベルは納得し、イレインは訳が分からないと、愕然とした顔を左右に振った。
「嘘っ、嘘よミリー。いくら魔王に操られてたといっても、責任感じなくていいんだからね? そんな馬鹿な嘘つかなくても――――ぁ」
イレインは怖々と縋るように手を延ばし、ミリーは唇を噛みしめながら彼女の手を払った。
「聞いてイレイン。…………退院したあの日、私はラセーラに出会って支配され、そして彼女の『血』を飲まされた」
魔王の血、それは禁断の魔法薬『天獄への道』の原材料である。
それが故に量産が聞かず、それが故に効果は絶大。
薬として作る際に限りなく薄めているそれを、ミリーは飲まされた。
「――――腑に落ちた。お前が急に力を得たのはその所為だったか」
「はい、言えなくてごめんなさい」
「いいさ、お前に非は無い。どうせ無理して伝えた所で、街中でラセーラとやり合うだけだっただろうしな」
それは、アベルが危惧していた最悪の事態だった。
街中でリーシュアリアの本来の姿を出せば、その時点でディアーレンは壊滅する。
かといって普通に戦えば、手こずった挙げ句ラセーラに逃げられた上、住人達が魔獣化していた事は容易に想像出来る。
「ごめんなさいイレイン、そしてアベルさん。私を殺してください」
「だって――――――、今は、こんなにも…………貴女達が、憎い――――――――」
そう、今のミリーは人間のミリーではない。
この世全ての生命を憎悪する、魔王ミリーなのだ。
面と向かって話しているだけでも、奴隷商から解放してくれたアベルへの敬愛が、誰よりも愛おしいミリーへの想いが、――――憎しへと。
アベルは無表情で頷くと、その心臓に右の掌を向けた。
「――――駄目えええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!」
「退け、イレイン」
「駄目ですっ! 退きませんっ! わたしはっ、わたしは今度こそミリーを守るんですっ!」
イレインはアベルとの実力の差を正確に把握していた、今の自分には、どんな奇跡が訪れようとも届かない事を。
それでも尚、立ちふさがる。
「…………わたしだって、理解してます。ここでミリーを殺せば、ディアーレンは或いは世界を救う事になるって」
彼女のその姿に、かつての自分を重ねながらアベルはしかして譲らない。
「なら退くんだ。コイツは此処で死ななければならない」
アベルの殺気に、震える体を叱咤しながたイレインは言い返した。
「それでもっ! それでも! アベルさんなら何とかなるんじゃないんですかっ! だって、リーシュアリアさんも――――」
そうだ、リーシュアリアも魔王だ。
何故、彼女が平和に街で暮らせていたのに。
何故、ミリーが死ななければならないのだ。
「リーシュアリアはたった一度だけの奇跡だ。それに、お前はミリーの意志を踏みにじる決意があるのか?」
「意志を、踏みにじる…………?」
怪訝な表情をするイレインに、アベルは言った。
「アイツはな、――――人を食べなければ生きて居られないんだ。そういう魔王だからな」
「アイツはな、――――死を願ったんだよミリーと同じように、同じ人を食べたくない、誰かを憎悪して生きていきたくないって」
「俺はな、――――その全てを踏みにじった。俺が側に居て欲しいという理由だけで、故国の民を生け贄に捧げ、人の姿に縛り付け、それを維持する為に今も人を食わせている」
「覚えているか? ダリー達の事を。アイツ等は故郷に帰ってなどいない。俺が殺してリーシュアリアに食わせた。…………処刑人なんて笑わせる、ただ社会に不要な奴を選んで、その命を犠牲にしているだけだ」
「なぁイレイン。お前に――――全人類の命を危険に晒す覚悟はあるか?」
「…………それ、は…………」
イレインは、沈痛な表情で黙り込んだ。
その後ろでミリーは、そっと瞳を閉じる。
永劫とも感じる一瞬が過ぎた後、イレインは苦しそうに言い放った。
「貴男は…………間違っていますアベルさん」
「そうだな、俺は間違っているよ」
「誰かを犠牲にしてでも、大切な人を生き延びさせる。ミリーを殺して、犠牲にして平和を得る。それは利口で正しいやり方です、間違ってはいない。――――でも」
正しくなんて、決して無いと、イレインは顔を上げた。
そこには、人としての『光』が見えた様にアベルは思えた。
「でも、わたしは認めないっ! ミリーの友としてっ! 一人の人間としてっ! 誰かの犠牲による存続なんて、平和なんて、そんなの欲しくないっ!」
「ああ、そうだ。お前は正しいよイレイン。けどな、それでお前はどうするんだ? 今ミリーを殺す以外の手段を持っているのか?」
「~~~~っ!」
イレインは言葉を喪った。
幾ら魔術の天才であろうと、冒険者として期待の新鋭と言われようと。
ミリーを救う手段は、何一つ持ち得ていない。
握りしめた拳から血を流す彼女を、アベルはそっと押しのけてミリーの胸に右掌を当てる。
「イレインをお願いします」
「…………俺に、出来る事なら」
魔王としての本能に苦しい顔をしながら、それでっもミリーは笑顔をイレインに向ける。
「さよならイレイン、愛してる。どうかアベルさんを怨まないで、そして、貴女のその才能を、私みたいな子を二度と生み出さないように使ってね」
「ミリーっ!」
「――――ばいばい」
その瞬間、ミリーの胸を長く赤い角が貫いて。
ゆっくりとそれが引き戻された後、ずるりと彼女は倒れ伏した。
「ミリー! ミリー! ミリーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
月すら見えぬ夜空に、イレインの鳴き声が響いた。
アベルはその声をただ黙って聞き、いつしか隣には人に戻ったリーシュアリアの姿が。
朝になるまで泣き尽くし、イレインが気を失うまで、二人はずっと其処に。
憎たらしい程清々しい朝日の中、ミリーの亡骸と、意識を喪ってなお泣きはらすイレインを背負い、アベルとリーシュアリアはディアーレンに帰還した。
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