第三十話 「誰にだって事情はある、……手心を加える理由にはならん」
――――雨が。
――――雨が、降っていた。
ざあざあ、ざあざあと、路地裏に一人座り込むミリーに降り注ぐ。
衝動的に飛び出し結局、彼女は街へと戻ってきてしまった。
しかし、どの顔をして家に戻ればいいのだろう。
この街に来て、まだ一ヶ月も経過していない。
奴隷という身分だった故に、新しい友人など居る筈がなく、一番大切な人からは自分から離れてしまった。
「お腹、減ったなぁ…………」
くぅと可愛らしい音を鳴らす腹部に、こんな時でもお腹は減るのかと、ミリーは暗い瞳で苦笑した。
ざあざあ、ざあざあと雨は降る。
ぼんやりと瞳を彷徨わせるミリーの前に、一匹の野良猫が通りかかり首を傾げて。
「…………あなたも一人なの?」
のろのろと延ばされた手を、さっと交わして猫は鳴く。
にゃおん、にゃおんと二つ…………否。
「なぁんだ。…………お前、一人じゃないんだ」
二つ目の鳴き声は、どこからともなく現れたもう一匹。
「さ、お行き。私と一緒にいると食べちゃうぞー」
それは自嘲であり、本心であった。
今のミリーは無性に、――――血が欲しい。
そんな彼女の心を知ってか知らずが、二匹の猫はミリーに体をすり付けながら去っていった。
「…………。ああ、また一人ぼっち――――」
「――――じゃないわよ子猫ちゃん」
はぁい、と軽やかな雰囲気で現れたのはラセーラ。
雨傘をさし、くるくると回しながら妖艶に微笑む。
「~~~~っ! 貴女の所為でっ、貴女の所為でぇっ!!」
全てを思いだし、また自分の身に何が起こったのか理解してしまっていたミリーは、彼女に詰め寄るとっその襟を掴んで睨む。
「ふふっ、怖い顔しないの。アタシ達は仲間じゃない」
「どの口でっ――――!」
全て、そう全てこの女が悪いのだ。
なのに、仲間。
「私から貴女がっ! 貴女が~~~~~~っ!」
涙を流し、殴りたくて、殺したくて、でも体は動かない。
彼女はミリーの絶対なる主人、逆らうことなど不可能だ。
せめて心だけは、と牙をガチガチ鳴らしながら威嚇するミリーに、ラセーラは優しく告げる。
「アタシの可愛いミリー、大切な『跡継ぎ』…………ここでは風邪を引いてしまうわ。さ、着いていらっしゃい」
「誰が貴女なんかにっ! ~~~~っ! どうして、この体は~~~~っ」
力を得た、――――そんなモノは何の意味も無かった。
全ては砂上のまやかし、イレインを護るなどと、どうしてそんな思い上がった事が思えたのだろう。
「可愛そうに…………、ええ、でも、直ぐにアンタも理解するわ」
「そんな日は訪れないっ!」
ラセーラは立ち止まると、憐れみを帯びた瞳でミリーに微笑み、雨で冷たくなった体を抱きしめた。
彼女の傘が、地面に転がる。
ミリーの体に、人の体温が伝わる。
(ああ、ああ、ああ、ああ、あぁ――――――)
なんて、なんて優しい温もりなのだろう。
世界から切り離されて、孤立したと思っていた。
イレイン以外の温もりなど、欲しくないと思っていたのに。
「なんで、なんでよぅ」
弱々しく震えるミリーに、ラセーラは言う。
「アタシ達はね、そういう運命の下に産まれてきたのよ」
言葉が、ミリーの心に染み渡る。
「気づいた時は手遅れで、何かをしても無駄になり、そして、――――望んだモノは何一つ手に入らない」
違うと言えなかった。
現に、イレインへの感情を気付いた所で、その行き場は無く。
彼女庇った事は、客観的に見て意味が無い。ただ、心配をかけただけだ。
望んだモノは何一つ手に入らない、そうだ、イレインはミリーに恋する事など絶対にないのだ。
「だからね。この出会いはアタシ達の運命、世界を恨む力を、望むものを形だけでも手に入れる――――神サマの慈悲」
「神様の…………慈、悲?」
絶望に塗れた瞳で呟くミリーを、イレインは強く強く抱きしめた。
「だから、ね。アタシと一緒に、世界をぐちゃぐちゃにしてしまいましょう?」
「――――――――――――ぁ」
その瞬間、ミリーは悟った。
遅かれ早かれ、自分はこうなる運命だったのだと。
だから――――。
(――――イレイン、どうか『憎んで』)
心に深く深く、傷跡を残して。
そしてどうか、一生を悔いて生きて欲しい。
そう、思ってしまった。
「あはっ、あはははっ、そっか。そんな簡単な事で良かったんだぁ」
大粒の涙を浮かべながら、彼女は一歩向こう側へ踏み出す。
ラセーラもまた憂いの瞳に涙を溢れさせながら、ミリーに自分の首筋を差し出した。
□
雨はもう、降り止み。
しかし晴れ渡る事は無く、日は落ちて夜空に浮かぶ月が、雲間から朧気な光を覗かせて。
その姿をラセーラはぼんやり眺めながら、傍らで眠るミリーの黒髪をそっと撫でた。
二人は共に全裸、覆い隠すモノは白い大きなシーツだけ。
あの後、ミリーはラセーラの止まる高級な宿に連れて行かれ、感情と本能の赴くまま交わり合った。
それは、艶めいた想いなど一切無い、同情や憐憫、悲哀、そして――――吸血欲、そういった傷の嘗め合いにしかならないものだったけれど。
今のミリーに、そしてラセーラには十分であった。
「…………ごめんなさい、ミリー」
魔獣が、魔王が、人や生命を恨み怒るのは何故だろうか。
それは、異世界の理によって歪められている、という事だけではない。
その全てが、この世界に、社会に馴染めず、敗北を余儀なくされた『弱きモノ』だからだ。
「アンタにとって、これが。…………救いであれば良いのにね」
そうでは無い事を知りながら、ラセーラは呟く。
彼女自身もそうだったのだ。
本当に大切なモノに気付かず、本当に欲しかった者は手には入らず。
あらがった所で、失敗し、敗北し、人の輪から排斥された。
そんな時だ、――――『先代』と出会ったのは。
彼女もまた同じ苦しみを経験し、違うのは、自分だけの力で『魔』となった事だ。
「長く眠っていたとはいえ、アタシもそろそろ限界ね」
ラセーラは先代と同じ様に、大きな力を得て、蹂躙し、そして『ヒト』に倒された。
今生きていられるのは、協力者である永遠の少女――――『カナシ』のお陰である。
「アンタ達に、少しは報いる事が出来ればいいのだけど…………、でも、全てはこの子次第ね」
人間から発生した吸血種、それが他の種族と違うのは『子供』を産むことが出来ない事。
それが故に、自分がそうであった様に、同じ境遇の子を探し、力を植え付けて後継者と為す。
「これで、後はアタシが死んだら終わりかぁ…………」
自分は、世界に傷跡を残せただろうか。
生きた証を、苦しみを、他の命に刻んだのだろうか。
三百年前の戦いで、人々は何か変わったのだろうか。
「冒険者かぁ、それがアタシの時にあれば、アタシも何か変わっていたのかな…………」
自分自身が作り上げたとも言える機構に気付かず、ラセーラは苦笑した。
彼女のするべき事は、三百年前のあの敗北で終わっている。
後継者という心残りが消えた今、思い残す事は――――。
「――――ケイン、アンタなら一緒に死んでくれると思ったんだけど」
ラセーラの端正な眉が歪む。
それは、ケインが手に入らなかった事へではない。
「リーシュアリア、それからアベルだったわよね。――――狡い、狡いじゃないアイツら」
何故あの女は、のうのう人間の隣で生きているのだろう。
人間の奴隷として、女として愛されているのだろう。
こんな存在になった身だ、彼女とて辛い過去があるに間違いない。
だが、だが、だが。
「赦さない、アタシが。この子が赦す筈が無いわ」
見ていなさい、とラセーラは月を睨んだ。
代替わりの時は近い、この街が世界への反逆に狼煙となるのだ。
ラセーラは、魔獣達に仲間を増やすように指示し。
ミリーを大切そうに抱きしめながら、眠りについた。
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