第37話 対決(前編)
蛍光灯が少し古びたタイルカーペットを照らしている。壁ぎわにはロッカー。それに演劇の衣装がかけられたハンガーラック。床に小道具と人形が無造作に突っ込まれた段ボール。
部員は誰も見当たらない。
あれから一日が経過した演劇部の部室だ。
そこに星原はただ一人待っていた。その表情は硬く思い詰めている。
何分くらいこうしていただろうか。
外から運動部のかけ声がかすかに聞こえ始めたころ、ようやく待ち人は現れた。
部室のドアがギッと音を立てて開かれる。髪を整髪料で固めた中年の男性。柴崎先生だった。
「私を呼び出したのは君か?」
「はい。柴崎先生」
「誰だったかな。君の授業を受け持ったことはなかったと思うが」
「二年B組。星原咲夜です」
柴崎先生は「ふむ」と頷いてから懐から紙を取り出した。
「こんな真似をして一体何のつもりだ?」
先生が取り出した紙にはこう書かれていた。
『私はあなたが四年前にしたことを知っている。放課後、演劇部の部室で待つ』と。
「何のつもりだ、ですか? でははっきりわかるように言いましょう。あなたの犯した罪をこの場で糾弾するつもりなんですよ」
「私の犯した罪? 何の話だ?」
「四年前、この演劇部では女子部員の着替えが盗撮される事件が起こった。そしてその時、犯人として幡ヶ谷という女子生徒が処分され部を追われることになった。そうですよね?」
「ああ。そういえば、四年前そんな事件があったな」
「その真犯人があなただということですよ」
「何を言っている?」
柴崎先生は依然わけがわからないという様子で星原を見た。しかし星原もそれに動じることなく敢然と睨み返す。
ただその手がかすかに震えていたのが僕にはわかった。内心星原はおびえているのだ。
無理もない。星原だって十代のか弱い女の子である。その彼女が勇気を振りしぼって大人の男と正面から対決しようとしている。
「この魔女のロッカーが教えてくれたんです。このロッカーの中には戯曲『ファウスト』の一節と当時彼女が書いた反省文が残されていた。この反省文にはある文章が隠されていたんです」
星原は日野崎から借りた反省文をポケットから取り出して、柴崎先生に突きつける。
「この反省文が何だというんだ」
「ロッカーに貼り付けられていた『魔女の九九』。これは魔方陣の書き方になっているんですよ」
星原は僕にした説明と同じように柴崎先生に『魔女の九九』について簡単に語った。
「つまり、この『魔女の九九』を使うことで上下左右と対角線が同じ和になる縦三マス横三マスの数字列を書くことができるんです。しかしこの魔方陣、実は『左上から右下だけ』は数字が一致しない」
柴崎先生は困惑しながらも星原の言葉に耳を傾けていた。
「これはつまり、反省文に隠した彼女のメッセージを暗示していたんです。その反省文を『一番左上の文字から右下』に読んでいくとどうなります?」
「一体何を……。これは?」
柴崎先生の顔色が変わった。
「一番左上は『犯』その右下は『人』。続けて読むと『犯人はしば先、人形に気をつけて』となる。ここでいうしば先とは四年前も演劇部の顧問をしていた教員。あなたのことでしょう。柴崎先生」
柴崎先生は一瞬声を詰まらせたが、「ふん」と小さく呟いて首を振った。
「馬鹿らしい。ただの偶然だろう?」
「果たしてそうでしょうか。人形に気をつけてというこの文章。これは部室内にあるこの人形劇用の操り人形のことだと考えられます。ちなみに部員の方に伺ったところ、何年も人形劇の公演は行っていないのに何となく片付けもされず、ここに置かれているそうですね」
星原は部屋の隅にある人形が入った段ボールの前に来た。
彼女はおもむろに段ボールの中の人形を一つずつ取り出しては戻し、また取り出すのを繰り返す。その重さを確かめるかのように。
「木を隠すなら森の中。嘘は真実の中に紛れさせたときに効果的に作用する」
やがて星原は人形の一つをつまみあげ、衣装を脱がせた。人形の胴体には黒い機械のようなものが埋め込まれていた。小型のデジタルカメラだった。
「このカメラで動画撮影を行い、あとから着替えている最中の画像をキャプチャーしたのでしょうね」
柴崎先生はほう、と声をあげる。
「なるほど。確かに盗撮をしていた人間がいたのは確かなようだ。だが犯人を私とするのは早計じゃあないのか」
「と、いいますと?」
「四年前、幡ヶ谷は部を去る時にちょっとした悪戯で怪文書をロッカーの中に貼りつけた。そのときに彼女自身が書いた反省文もロッカーの中に紛れ込んでいた。そしてたまたまその反省文の斜め読みが意味ありげな文章になってしまったんじゃないか?」
星原は黙り込む。真っ向から否定してくることは予想外だったのかもしれない。
そこで自分が優位になったと思ったのか、さらに柴崎先生はたたみかける。
「大体、そのカメラを誰が仕掛けたものかなんてわからないだろう。もしかして私を貶めるために星原、お前が事前に部室に来て仕込んでおいたとも考えられるじゃあないか」
柴崎先生は勝ち誇ったかのように余裕の笑みを浮かべ始めた。証拠がその程度のことなら言い逃れできる、と考えたのだろう。
確かに客観的に見て、これだけの話で柴崎先生が犯人と断言するには不十分ではある。
だが自分の教え子たちが現在も盗撮されていたことが発覚したにもかかわらず、彼には生徒を案じるそぶりがまるで見えなかった。ただただ自分は関係ないといいたげに己の保身に熱弁をふるっていたその様子は、生徒の導き手である教師にはふさわしいものには見えない。
「では、伺いますが。先生」
人形を段ボールに戻した星原は柴崎に向き直った。
「四年前、幡ヶ谷礼香という生徒を直接知っている人間に話を聞いた限りでは、彼女は明るくまじめな生徒という評価だった。しかし演劇部に残っている噂では、周りから嫌われた挙句、望まない魔女の役を押し付けられて『自分をおとしめたことを必ず思い知らせてやる』と悪態をついて去っていった非常に攻撃的で傲慢な人間として言い伝えられている。これをどう考えます?」
「盗撮の犯人だったのだから嫌われていたのは当たり前だろう」
「そうでしょうか? 私の友人が元演劇部の人間に聞いたところでは彼女は魔女の役を自分から買って出たそうです。そもそも四年も前に部を辞めた人間が魔女と呼ばれて、いまだに彼女のロッカーがタブー視されて現在に至っている。これは明らかに不自然です」
星原は魔女のロッカーを指さした。
「普通ならそんな噂、当時の関係者たちが居なくなったところで廃れていくものでしょう。それなのに今でも語り継がれている。これはつまり『彼女のロッカーを使わせたくない誰かが意図的に噂を流し続けて彼女のイメージを歪めていた』ということです」
柴崎は沈黙して星原を凝視する。
「そして、先日起こった日野崎さんの衣装が汚されたあの嫌がらせ。あれもおそらく同一犯によるものです。数年の間誰も触れていなかったロッカーを調べ、当時の彼女のことを探ろうとする生徒が現れた。そこで犯人は脅しのつもりであんなことをした。あのロッカーに近づくな、と」
「何が……言いたい」
「つまり犯人は知っていたんでしょうね。幡ヶ谷さんは自分のことを指し示す手がかりをあのロッカーの中に隠したと。あるいは幡ヶ谷さん自身がほのめかしたのかもしれません。犯人に対して『あなたの行いは白日の下にさらされる』と告げたうえで、あのロッカーを意味ありげに番号鍵をかけて封印して見せた」
「……」
「あのロッカーは代々、演劇部の中でも最も演技に秀でたものが使うことになっていた。いずれ誰かが無理にでも鍵を開けて中を調べてくれる、と期待していたのかもしれません。犯人は動揺したでしょうね。演劇部室で誰にも気づかれずにロッカーを開けるために四桁の番号を合わせ続けるのは結構な時間を費やす。しかし何もしないでいたらロッカーを使いたがる学生が先に鍵を開けて中を見てしまうかもしれない。そこで犯人は噂を流したわけです。魔女のロッカーという怪談めいた噂話を」
たじろぐ柴崎を星原は指さした。
「おわかりでしょう? 何年にもわたって演劇部に噂を意図的に流し続けられる人間がいるとしたら、それは卒業してしまう生徒ではない。教師です。そして最も演劇部にかかわりのある教師はあなたなんですよ。柴崎先生」
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