第29話 動物園での問答
秋晴れの青空の下、少し冷たい風が広場を吹き抜けて顔をなでる。
数日後の日曜日。僕は都内の動物公園を歩いていた。
「ほら、月ノ下さん。見てください。サイですよ、あれ!」
「ああ、ほんとだ。実物は初めて見るかも」
僕の横ではしゃいでいるのはクラスメートの日野崎の妹、巴ちゃんだ。
「もう、月ノ下さん。女の子が隣にいるんですから。もう少し楽しそうにするとか、話を盛り上げるとかしたらどうなんですか? デートの練習だと思って」
「ああ、そうだな。ごめんよ」
口ではそう返事をしながらも、僕としては若干憂鬱な気分だ。デートと聞くと過去に一度失敗したトラウマがよみがえってブルーになるのである。
「あ、すいません。月ノ下さん」
「ん、どうした?」
「私ちょっとお手洗い行ってきますので……待っていてもらっても良いですか」
「ああ、わかった。僕も少し歩き疲れたからこの後どこかで休憩しないか?」
「もう。年よりくさいですよ? 月ノ下さん」
巴ちゃんは軽口をたたいてから、小走りに近くのトイレまで行って中に入った。
出てくるまで、どこかに座って待っていようかとあたりを見回すと少し離れたところに広場が見えた。ベンチもあるようだし、あそこで巴ちゃんを待とうか、と僕は足を向ける。
秋めいてきて赤や黄色の葉っぱが絨毯のように散りばめられ、その中にベンチが海に浮かぶ小島のように配置されている。僕は空いているベンチはないかと周囲を見回した。
が、そこで見覚えのある姿が目に飛び込んでくる。
タートルネックの長袖シャツに裾の長いスカート、薄手のカーディガンを羽織った黒髪の少女がベンチに腰かけていた。星原である。彼女は両腕に布にくるまった何かを抱え込んでいた。
「星原、奇遇だな」
「あれ、月ノ下くん。どうしたの?」
「ん、ああ、今日は日野崎に頼まれて巴ちゃんと動物園に来たんだ」
「? 日野崎さんに?」
僕は星原の隣に腰かけて大まかな経緯を説明する。
「一昨日の事なんだけど教室を出てきたところで日野崎に声をかけられてさ。何でも巴ちゃんが『レッサーパンダの赤ちゃんが生まれたから見に行きたい』っていうんで連れていく約束をしていたらしい。でも急きょ家の手伝いをすることになったとかで、代わりに日野崎が僕に保護者兼ボディガードとして連れて行ってくれって頼んできたわけだ」
「へえ。それで、巴ちゃんは?」
「今お手洗いに行っているところだよ。ところで星原はどうしたんだ」
「いや実は、ほらこの子なんだけど」
星原は腕に抱えていた物を見せた。いやそれは物ではなくてまだ歯も生えそろってないであろう幼児だった。小さな寝息を立てて眠っている。
「星原の子供か?」
「……その冗談は悪趣味よ」
星原はギロリと怒気をはらんだ目で僕を睨む。
「悪かった、すまん」
「私のお父さんの妹、つまり叔母さんの子供よ。私から見ると従妹になるわね。今叔母さんたちがうちに遊びに来ていて、面倒を見るように頼まれたのよ。おむつの替え方まで覚えてしまったわ。それで、今日は家族で動物園にでも行こうという話になったの。……叔母さんたちが上の子と一緒に園内を見ている間、私がこの子の面倒を見ているというわけ」
星原はため息交じりに答えた。どうやらせっかくの休みなのに疲労がたまっているようだ。
「大変だなあ」
「月ノ下くんもね。……あれ?」
「どうした?」
「あそこにいるの、虹村さんじゃない?」
「あ、ほんとだ」
「そういえば、この間虹村さんと中野さんたちが今度動物園に遊びに行くみたいな話で盛り上がっていたけど、あれって今日だったのね」
虹村はインナーの上に秋物のジャケットを羽織り、フリルの着いた巻きスカートを穿いていた。全体的にパステルカラーなのであまり派手な感じはしない。少し離れていたところを歩いていたが、ふと星原と目線が合うと驚いた顔をして近づいてきた。
「あれっ。……星原さんも来ていたのね。月ノ下くんも。偶然ね」
虹村は僕と星原が腰かけているベンチの前まで来るとにこやかな笑顔で声をかける。
「もしかしてデートだった?」
「えっ。いやいや! 僕らも偶然そこで出会っただけなんだ」
動揺しながらも、つい僕は即座に否定していた。実際その通りなのだから正直に答えただけなのだが、なぜか星原は微妙な表情になっている。何かまずいリアクションをしてしまっただろうか。
僕は気まずい雰囲気に耐えかねて、話題を変えることにする。
「ええと。……そういや虹村は他のクラスの連中と来たんじゃなかったのか?」
その言葉に虹村は「う」と恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「いや、むこうにすごく可愛いアライグマがいてね。カメラで写真を撮っているうちに、みんなとはぐれてしまったの」
しっかり者の印象しかなかったんだが、意外な一面を見た気分だ。
「ところで、その子はどうしたの」
虹村は星原の抱えている幼児に目をやった。星原は「ああ」と呟いて答える。
「月ノ下くんの子供よ」
どうやら僕がさっき言ったことの仕返しのつもりらしい。まあ、流石に虹村もこんな冗談を真に受けることはあるまい……と思ったのだが。
「こっ、こっ、ここここ、こっ!」
虹村はムンクの「叫び」のような表情とポーズで奇声を上げた。
「何だ、ニワトリの真似か?」
「いや、とり乱しているんじゃない? ニワトリなだけに」
「こどもっ!?」
「ちょっと、虹村さん? そんな大きい声出したらこの子起きちゃうわ?」
虹村の声に一瞬目を覚ましかけたのか、星原の腕の中で幼児が「うう」と小さく声を上げた。
「あ、ああ。ご、ごめんなさい。予想以上に早産だったものだから、驚いて」
星原が幼児をそっと胸に押し当てるように抱きしめると、幼児はまた安心したように眠ってしまった。
「そ、そうだったの。星原さんもすっかりお母さんね。なんだか感心しちゃうわ。月ノ下くんもちゃんとしないと駄目よ?」
「へ? あ、ああ」
「世間はあなた達を偏見と誤解の目で見るかもしれないけれど。私、友達としてあなた達を応援するわ」
「そうか。ありがとう。しかし今僕らの事を最も偏見と誤解の目で見ているのはお前のような気がするのは何故なんだ?」
なんだか虹村の様子がおかしいな。星原の冗談に合わせているのだろうか。
僕はいぶかしんで眉をひそめていたが、そこへトイレに行っていた巴ちゃんが戻ってきた。
「もう、月ノ下さん! こんなところにいたんですか? お手洗いに行っているんですから待っていてくださいよ! 女の子とデートをしているときに恋人を置いて勝手に他の所にいく人がありますか!」
「で、デート? どういう事? 月ノ下くん?」
虹村が僕の事を非難がましい目で見ている。
な、何か悪いことしただろうか?
僕はベンチから立ち上がりつつ、しどろもどろに状況を説明しようとする。
「い、いやこの子は日野崎の妹なんだけど、ちょっと事情があって今日は一緒に過ごしていてだな」
「『情事』があった!? ちょっとそこのあなた!」
虹村は巴ちゃんの方を向いて、尋問するような調子で詰め寄った。巴ちゃんは迫力に押されて、思わずビクッと顔を引きつらせる。
「は、はい?」
「月ノ下くんと今日はどこで何をして、これからどこへ行こうとしていたの?」
「へ? えっと、月ノ下さんと動物園に連れてきてもらってました。それでこの後は月ノ下さんがすこし休憩していこうかとおっしゃってまして……」
「……へーえ。ふうん」
虹村はなぜか巴ちゃんの言葉を聞いてからギロリと非難するような目で僕をにらむやいなや、ツカツカと僕に接近してくる。
「このケダモノ!」
唐突に虹村の腰の回転が入った平手打ちが僕の頬に炸裂した。
「あいったぁー!」
僕は悲鳴を上げつつ思わず後ずさる。
「こんな大事な時にほかの女の子と浮気なんて、なんてことしているの! しかもこの後ご休憩する予定だったなんて! 星原さんとの間に子供まで作っておきながら! いやらしい!」
いやらしいのはあなたの想像力の方ですが、と突っ込みたかったが痛みで声が出ない。
「虹村さん、結構ノリが良いのねえ。ここまで合わせてくれるとは思わなかったわ。おちゃめな一面を見たというか得した気分」
星原が呟くように呑気な感想を口走っているのが耳に届いた。
一方、僕はこの虹村の剣幕に不自然な流れを感じて、先日の彼女との会話を思い出していた。
『その……昨日の放課後、あなたたちがいつも過ごしている空き部屋の前を通りかかったときに、ちょっと……聞こえちゃったというか』
そういえば星原のテープレコーダーを僕が壊してしまった後、星原は「部屋の外で物音が聞こえた」といって確かめに行った。
もしかして虹村はあの時外にいて僕らの会話を聞いていた?
そうだとすると……。
僕はあのビデオの音声の後の僕らのやり取りを思い起こす。
つまり彼女はあの時の妙にもめていた僕らの会話を聞いて、いかがわしい行為に走っているものと考えてしまったのだろうか。
「…………いや。星原、違うぞ。どうやら虹村は僕らの事を本気で誤解しているようだ」
「え? ノリじゃなくて本気なの?……わかったわ。そういう事ならここは私に任せて」
星原が立ち上がって、僕と虹村の間に割って入るように進み出た。
よかった、どうやら誤解を解いてくれるらしい。
「虹村さん」
「……星原さん?」
「良く言ってくれたわ! そうなのよ。月ノ下くんたら私との関係をあいまいにするばかりで! あげく他の女の子にまで手を出そうとする始末なの! この際だからはっきり聞かせてちょうだい。私ってあなたにとって何なの?」
まさかの裏切り!
「星原、お前な……」
「どうなの? 月ノ下くん。ちゃんと答えてあげなさい」
虹村が僕に詰問する。
「えっと……そ、それはだな」
「それは?」
虹村と星原が二人して僕に詰め寄ってくる。巴ちゃんはぽかんとした顔で成り行きを見守っていた。
ここは正直に日ごろ思っていることを話した方が良いんだろうか。
「星原は一緒に話していると楽しいし、悩んだり迷っているときにアドバイスして僕の背中を押してくれる僕にとって大切な……」
「大切な?」
そこに「ああ、いたいた!」と騒がしい何人かの声が近づいてきた。
「虹村さん。どこに行ってたの? 探しちゃったよ!」
「他の所行くなら行くって言ってよ」
うちのクラスの女子の中心人物、中野春香と他にも中野といつも一緒にいる友人グループがわいわいと黄色い声を挙げながら現れた。はぐれた虹村を探し回っていたのだろう。
「ごめんなさい。今それどころじゃないの。月ノ下くんが不純異性交遊に走ろうとしていて」
「へ? 何? 何の話?」
これ以上あらぬ誤解を広めないでほしい。何とか虹村の口をふさぐ方策はないものかと僕は考えを巡らせた。が、その時。
「ああ、咲夜ちゃん! ずいぶん待たせちゃったわね!」
横から新たな人物が声をかけてきた。顔を向けると妙齢の女性が五、六歳くらいの男の子の手を引いて立っている。星原より背は高く長い髪を後ろで結いあげているが、その雰囲気は星原と共通するものがあった。
「ああ、おばさん。もういいんですか?」
「ええ、もう一通り回ったしそろそろ帰ろうと思うの。あら? もしかして咲夜ちゃんのお友達? 叔母の
女性は僕らに会釈する。星原に子供の世話を頼んでいたという星原の叔母のようだ。
「は、はい」
「どうも」
僕と虹村もとりあえず頭を下げた。
「美香の面倒見てくれてありがとうね。咲夜ちゃん。友達と会ったのなら折角だしもう少し話していく? なんなら美香は連れて行くから」
「いいんですか?」
「丸一日、面倒見ていたもの。疲れたでしょう?」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
星原は抱いていた幼児、どうやら美香ちゃんと言うらしいが、彼女をおばさんにそっと預ける。
「それじゃあ、帰りは私たちだけ先に帰るから。ゆっくり帰ってらっしゃい」
「はい」
吹雪さんは「それじゃ」と僕らにも上品に頭を下げて去っていった。
虹村はおずおずと星原に尋ねた。
「ほ、星原さん? あの赤ちゃんは……」
「……? 私の従妹だけれど? 頼まれて面倒を見ていたの」
中野が虹村の後ろから声をかける。
「虹村さん。何? どういう事だったの? さっき月ノ下くんが不純異性交遊に走っているとか言わなかった?」
「あ……、あ」
虹村はどうやらここに至って自分の誤解に気が付いたようだ。顔を真っ赤にして肩を震わせている。いつも毅然としている虹村のなかなか見られない貴重な表情を拝んでいる気がするが、それどころじゃないな。
よりによってクラスの女子の中心ともいえる中野がこの場に居合わせているのが問題だ。
僕は懸命に頭を働かせる。
ここで虹村が僕たちがいかがわしいことをしていると勘違いしていたことを説明したとする。そうすると「はあ? 虹村さん、そんなこと妄想していたの?」と笑いものになるかもしれない。加えて誤解するに至った過程を説明するとなれば、僕と星原が放課後一緒に過ごしているという状況にあることも知られてしまう。
結果、虹村は恥をかいて、僕と星原も関係を変に勘ぐられる恐れがある。つまり僕らも虹村も全員が嫌な思いをすることになる。
では、逆に虹村の誤解を僕らが認めてしまったらどうなるか。その場合、虹村に恥をかかせずには済むかもしれないが僕らにとっての不名誉な噂が広まることになるだろう。
じゃあ、どうする。どうすれば被害が最小限で済む?
悩める僕の視界の端に、さっきから困惑した表情をしている巴ちゃんが映った。
……やむをえん。
僕は親指で巴ちゃんを指さしながら後ろめたそうな表情を作って口を開く。
「いや、実はその。僕がそこの彼女を口説こうとしていていたところを虹村が見咎めたんだ」
中野たちは目を丸くしていた。
「は? 月ノ下くんが? ナンパ?」
「プっ! なにそれ、似合わないわ。あはははは!」
「えー。……だってその子、中学生でしょう? 年下趣味?」
星原は僕の意図を悟ったのだろう。「やれやれ、またか」と言いたげな呆れた顔をして静観していた。
一方で巴ちゃんは顔を紅潮させながらもごもごと呟いた。
「ええ? つ、月ノ下さん、私と、そういうつもりで? こ、困りますよ。そりゃあ、魅力的な女性として見ていただいたことは少しは嬉しいですけど。私、別にそんなつもりじゃあ」
「い、いやほんと、出来心と言うか気の迷いと言うか、虹村に説教されて目が覚めたところでさあ。はははは」
「あれ、それで、星原は? 何でここにいるの?」
中野が首をひねって尋ねる。
「私は、さっきの叔母さんに動物園に行くからお子さんの面倒見るのを手伝ってくれって頼まれて、たまたま来ただけよ。虹村さん?」
「は、はい?」
「後は私が月ノ下くんが変な気起こさないように見張っておくから、動物園見て回ってきたら? 今日は中野さんたちと遊びに来たんでしょう?」
「あ、ええ、そうね。……ありがとう。行きましょうか、中野さん」
「え、そうね。……なかなか面白い見世物だったわ。じゃあね、星原。月ノ下くんもほどほどにね。ふふ」
中野たちは園内をもう一回りするつもりなのか、虹村と一緒にその場を去っていった。
落ち着きを取り戻した虹村は、僕らの方を気に掛けるように何度も振り返っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます