第25話 ハンドルネームとコミュニティ
星原がこの間、僕に話してくれた推論はこうだった。
「『ライカ』『ニッパー』『ハチ』これって全部犬の名前なの」
「ああ、『ハチ』はさすがにわかるよ。確か大学の先生が飼っていた犬で、いつも主人の帰りを駅の所で待っていたんだろ。飼い主が病死した後もずっと待ち続けていて、渋谷に銅像が建てられたあのハチ公のことだな。……残りの二つも犬の名前なのか?」
「ええ。『ニッパー』と言うのは、あるイギリス人画家が飼っていた犬の名前。ある日飼い主が病死して、その後同じく画家をやっている飼い主の弟に引き取られた。でも、ある時『ニッパー』は亡くなった飼い主の声が聞こえてくる蓄音機に気が付いて、その蓄音機を不思議そうにのぞきこんでいたの。その姿に感銘を受けて、その飼い主の弟はその姿を絵に描いたんだって。数年後、その絵はある音響機器会社のロゴマークにも採用されているわ」
蓄音機に聞き入る犬か。……ああ、なるほど。
『神田理佳』は『時間感覚が厳しくて、待ち合わせの時に先に来て待っているような子』。
『大塚真理』は『ヘッドホンをしている子』。
『荻久保優香』は『長い巻き毛の女の子』。
「つまり、いつも待ち合わせで早く来て待っている神田理佳が『ハチ』。ヘッドホンをつけている音楽好きな大塚真理がハンドルネーム『ニッパー』なんじゃないか、ってことか。ちなみに『ライカ』というのは?」
「ロシアがまだソビエト連邦と言われていたころ、人工衛星スプートニク二号に乗せられた犬の名前が『ライカ』というのよ」
「ん? ここまでの推論が正しければ、『ライカ』は荻久保なんだろうけど、何故そんなハンドルネームを使っていたのかな?」
「その『ライカ』という犬なんだけどね。『クドリャフカ』という愛称で呼ばれていたの。その意味は英語でリトル・カーリィ。日本語に意訳するなら巻き毛ちゃんってところかしら」
僕は荻久保の髪型が緩いウェーブがかかった巻き毛であることを思い出した。
「つまり、巴ちゃんをサークルに勧誘した『ライカ』というのは神田理佳ではなく、荻久保さんだったというわけ」
「……間違いないのか、それ」
「たぶんね」
「だけど、それが事実だとしても、具体的な解決策になるのかな」
「なるわ。私には無理でも、このトラブルは男の子である月ノ下くんになら解決できると思う」
「へ?」
僕は星原の言葉の意味が解らず変な声を漏らしてしまった。
「『僕になら』ってどういう事だ? 僕に何を期待しているんだよ?」
「簡単なことよ。その漫研サークルが活動しているところに行って、彼女たちの描いている漫画を読ませてもらってくればいいの。女性向けに描かれた自分が描いた漫画を目の前で男の人に、それも同じ学校の生徒に読まれたら、それなりに心理的な圧迫を与えられると思うわ」
心理的な圧迫。……男の子が成人向け雑誌を見ているところを知り合いの女の子に見られてしまうのと同じようなものかな。
「もちろんいきなり部外者である月ノ下くんが行って見せてもらおうとしても難しいだろうから、事前に荻久保さんに協力をお願いするけどね」
「確かに、荻久保さんが『ライカ』だったなら、巴ちゃんとのネット上のやり取りを見る限り友好的だったし、サークルの作品を見せてもらうくらいなら協力してもらえるかもしれないけどな。でもそれだけの事で、神田と大塚の二人に心理的な圧力をかけられるのかな。それも、こちらの言い分をわからせるくらいに」
星原は少し困ったように眉をしかめる。
「……月ノ下くん。あなたは漫画とか小説とか書かないからわからないでしょうけど、自分の書いたものを目の前で読まれるのは、慣れていないと結構羞恥心を感じるわよ?」
星原にも小説を書く趣味があって、前に僕もそれを読ませてもらったことがある。
「ええ? でも自分が好きなことを懸命に表現しているんだろう? それって、少なくとも僕には出来ないことだし、好きなものがあって、それを一生懸命に追いかけられるってすごいことだと思うよ? 恥ずかしがるようなことかな?」
星原はそんな疑問を口にする僕になぜか優しい目を向けていた。
「私だって、最初小説をあなたに読んでもらった時には結構勇気が必要だったわ。それでも、月ノ下くんという人となりを知ったから、あなたなら読ませても構わないと思えたから、見せられたんだけれどね」
「……そうなのか」
「そうなの」
星原は頷いた。その表情は少し照れているようにも見える。
「まあ、というわけだから私、荻久保さんに連絡を取って協力できないかお願いしてみようと思うの。月ノ下くんもいいわね?」
「ああ、わかったよ。僕がその漫研サークルを訪ねてくればいいんだな? 最悪の場合でも向こうの嫌悪とか敵意が僕に分散するかもしれないしな」
とまあ、こういった経緯で僕は巴ちゃんと美術室を訪れ、現在に至ったわけである。
「へえ、なるほど。私、部屋に入ってきたときに積極的に話しかけて、イラストを見せるように言ってきたのが神田さんだったから、てっきり彼女が『ライカ』さんなのかと思っていました。『理佳』という名前をもじったような感じでしたし」
巴ちゃんは僕たちの説明を聞いて感心したように唸っていた。荻久保はそんな巴ちゃんに弁解を始める。
「いや、あれはほら『サークル仲間にも見てもらって出来が良ければ、私たちと一緒に同人誌を作る』っていう話だったでしょう? 私の方はもうホームページで巴さんのイラスト見せてもらって実力は十分だと思ったから、あとは神田さんと大塚さんにイラストを見てもらって判断してもらおうと思ったんだ。本当は初顔合わせになるのだから、ちゃんと挨拶をしようと思ったのだけれど、神田さんたちが先走ってしまったから、そんな余裕もなくなっちゃってねえ。……結局、巴さんを傷つける結果になったのは残念なことだったけれど」
荻久保は表情こそ笑っていたが、その声にはどこか悲しげな響きがあった。
「それにしても月ノ下くんも星原さんに協力するなんて意外だね。二人ともそんなに仲良かったの?」
「ああ、いや、まあ。日野崎の妹ってことで僕は巴ちゃんと会ったことがあってさ。星原も巴ちゃんとたまたま知り合いでその関係で、な」
荻久保の言葉に焦った僕はとっさに誤魔化すようなあいまいな答えを返していた。星原はそんな僕を微妙な目で見ていた。気まずくて僕は何となく話題を変える。
「荻久保、ちょっと聞きたいんだけれど」
「ん? 何かな?」
「さっき言っていた、このサークルを続けるのは潮時だと思っていたって言うのはどういう意味なんだ?」
荻久保はああ、と呟いてふと机の上の置かれていたノートを懐かしむような遠い目で見た。
「このサークルは中学時代の後輩の二人に、つまり神田さんたちに声をかけて私が作ったものだったんだ。元々中学時代に同じ美術部だったつながりで顔見知りだったし、そのころは和気あいあいとイラストを描いていたよ。サークルの名前の『ハウンド・スタイル』っていうのも私が付けたんだ。今は流行を追いかけて二次創作作品を描くだけだけれど、いつか獲物をとらえる『猟犬』みたいに、流行に追いついて自分たちが発信する側に回るんだっていう心意気でね」
そこまで話したところで、荻久保の声のトーンは暗くなった。
「だけどいつの間にかあの子たちは、イラストを描くことよりも人の評価を求めることを気にしていったの。それとともにイラストの腕はある程度まで上達していたけれど、何を描けばいいのか分からなくなっていたみたい。そればかりか、ネット上で他の人が描いたイラストが評価されているのを見て、自分の趣味に合わないと誹謗中傷することさえあったんだ。内容の批判だけならまだしも人格的なことまでね」
星原は、荻久保の話を難しそうな表情で聞いていた。小説を書いていた星原としても、荻久保の話に思う所があったのかもしれない。
「私自身、昔イラストや漫画を共有サイトに投稿した時、ある匿名の閲覧者に執拗に攻撃されたことがあったんだよ。アニメの二次創作イラストを描いたら、『このキャラはこんな格好しない。お前の趣味はおかしい。吐き気がする』とか『ありきたりなネタだ。こんなのしか描けないなら描くなよ』とかね。私は無視していたのだけれど、それを見かねた他の閲覧者の人が『これはこれで良く描けている』『人を楽しませようとしているこの人と執拗に悪意をまき散らしているお前とどっちがまともか考えろ』ってフォローしてくれたの。そうしたら、その人はそれがますます気に入らなかったらしくて『これを描いている奴も評価する奴らもクズだ』って、さらに誹謗中傷を続けてね。結局私はアカウントを取り直したわ。……あの時は正直嫌な思いをした。その私に嫌な思いをさせた相手と同じことをしている後輩を見て私がどう思ったかわかるでしょ?」
「つまり、神田さんたちのやっていることを何とか諌めたいと思ったのね?」
星原の問いかけに荻久保は「うん」と頷いた。
「でも、私が遠まわしに言ってもあの子たちは『センスが悪いから叩くだけだ、思ったことを感想として書きこんで何が悪いのか』って言い出してね。創作物なんていろんな人がそれぞれの解釈で描いているんだから、合わないものもあるのは当たり前だけど、他人の人格まで批判するのは間違っていると、私はどうしても教えたかったの。そんな時に『ヴァルキリー』さん、つまり巴さんのイラストを見つけてね。キャラクターの解釈や描き方は独特だけれど、斬新だしセンスもあると思ったんだよ。それに、もしかしたら神田さんたちも巴さんという後輩が入ったら、先輩としての立場を意識して、他者との価値観の違いを許容できるようになるんじゃないかってね。それに、イラストの作風にも刺激を受けてくれればとも思った。……残念ながらそうはいかなかったけれどねえ」
「……荻久保さん」
巴ちゃんがいたわるような声をかけた。
だが、荻久保は巴ちゃんに「ふふ」と気丈に笑って見せた。
「でも、もういいんだよ。巴さんという年下の同好の士が懸命に描きあげたものを、表面的なモチーフだけで非難して受け入れないのをみて、私ももう見切りをつけたよ。もうあの子たちとサークルを続けても仕方がないってね。それに新しい出会いだって、あった」
「あの、それってもしかして」
巴ちゃんが嬉しそうに荻久保を見上げた。
「うん、あなたさえ良かったら、私と新しいイラストサークルを作らない? まあ、私は受験で忙しくなるから、そんなにしょっちゅう活動することはできないけどさ。あなたの描いたマーカス×アキラのカップリング、私はアリだと思うの」
「分かってもらえますか! そうですよね。私、味方サイドより敵味方に分かれていたり考え方の違いでぶつかっている二人の方がカップリングするうえで想像力が刺激されると思うんですよ」
「わかる。わかる。スポーツアニメでも敵チームと因縁がある味方の脇役がいたりすると燃えるよねえ」
「話が分かりますねえ! 同感です」
二人はがっちりと手を取り合った。それを暖かい目で見ていた星原が横で呟く。
「美しい友情ねえ」
「……そうかなあ?」
僕には巴ちゃんが一度はまったらなかなか抜け出せない底なし沼のようなクラスタに足を踏み入れてしまっているように見えるが。
でも、本人たちが楽しいのならそれでいいのかもしれないな。
「かくして、この世に新しいコミュニティがまた一つ、か」
まだ二人しかいないけれど、温厚な荻久保と快活な巴ちゃんなら、この先新しく誰かが加わっても適切に接して上手くやっていくことだろう。
ふと、僕は思った。
荻久保は後輩を諌めるために、神田たちの気持ちを傷つけることなく本人たちに自分の間違いを気づかせようと尽力し、それが上手く行かなかったときは巻き込んでしまった巴ちゃんを助けるためにあえて嫌な役回りをやってのけた。何となくだが、そんな荻久保の生き方や考え方には僕と共通するものがあるんじゃないだろうか。
僕は何とはなしに荻久保の顔を見つめていた。
荻久保はそんな僕の目線に気が付くと、微笑んで声をかける。
「ねえ。もし良かったら、月ノ下くんたちも入らない?」
「え?」
一瞬、僕は荻久保や巴ちゃんと一緒に和気あいあいと休日や放課後の時間を過ごす、そんな想像をしてみる。が、その時、隣にいた星原が僕の顔を覗き込んでいた。
その表情は僕の感情をうかがっているようで、どこか不安そうに見える。僕は何となく親とはぐれた子犬を連想した。
そして気づいた時には僕は荻久保の言葉にこう答えていた。
「いや。ちょっと、放課後は忙しいし、僕にはイラストとか描けないからね。遠慮しておくよ」
それに僕はすでに自分にとって居心地の良いコミュニティを見つけているのだ。
荻久保は「そう」と少し残念そうな顔をする。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ」
「私も。巴ちゃんはまだここに居る?」
星原の言葉に巴ちゃんは笑顔になる。
「はい! もう少しお話ししていきます」
星原は「それじゃ」と言って僕と部屋を出た。
「……」
僕と星原は教室に向かってゆっくりと歩を進める。
すぐ隣を星原はほぼ同じペースで歩いていた。
廊下をしばらく星原と無言で歩いていると、ふいに星原が「ねえ」と聞いてきた。
「よかったの?」
「何が?」
僕の言葉に星原は安心したように「ううん。何でもない」と笑った。
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