第8話 本当に言葉にすべきこと

「それにしても複雑な気分だわ」


 星原は頭を掻きながら、ぼやくように言った。


「何が?」

「さっき言った百足と蛙の寓話よ。自分の感じているものを、実践していることを言葉という形にして表そうとしたら本質とかけ離れちゃうっていう話」

「……?」

「だって私は、これでも小説家の端くれのつもりだもの。心の中に存在するイメージを、自分がこれは素晴らしいものなんじゃないかと信じている理想を文章にしたいと思っているのに。それが実は本当の姿と違っているものになっているかもしれないだなんて」

「……星原」


 そういえば、この前、心の中にあるあいまいではっきりしない感覚に名前を付けることで人間はそれを定義して知覚することが出来る、みたいな話をしたっけな。さっき語っていた百足と蛙の寓話とはまるで正反対だ。


「それに……それにね。月ノ下くん。ちょっとこっちに来てくれる?」


 そういうと星原は普段は一人で占領している二人掛けのソファーの端に寄って、自分の右隣に座るように勧めた。


 何だろう?


 僕はいぶかしく思いながらも、星原の隣に座った。


 すると、星原はそっと自分の右手を僕の左手に絡めつつソファの上に膝をついて、左手で僕の右腕を抑え込んだ。星原の体が僕に覆いかぶさるような体勢だ。星原は僕に体を預け、僕の肩にうつむき気味に顔をうずめていた。


 僕のすぐ鼻先に星原の顔があった。


 えええっ、と僕の脳内は驚愕の声で埋め尽くされていた。


 唐突な星原の行動に心臓が跳ね上がり、どきどきと脈打ち激しく動揺しているのが自分でもわかった。喉もからからに乾き、顔も熱くなって紅潮している。


「それに、ね。月ノ下くん。女の子は、男の子に心の中で思っているだけじゃなくて言葉という形にしてほしいことだってあるもの」


 僕の体の上で星原がそうささやくのが僕の耳に届いた。柔らかな感触と体温が制服ごしに僕に伝わり、星原の甘い匂いが鼻腔に届いて、彼女が自分の間近にいることをどうしようもなく僕は意識してしまう。


「例えば、どんなことを?」


 僕は緊張で震えそうになる声を隠して、星原に尋ねた。


「そう。例えば、月ノ下くんが綾瀬さんからテニスを教えてもらっていたときに、胸元を凝視していたというのは、本当なのか、とかね」

「え」

「あと、綾瀬さんがサーブを披露した時にスカートがめくれるのを嬉しそうに見ていたのは本当なのか、とか」


 僕は恐る恐る、星原の顔をうかがった。僕の目の前にいつものように微笑を浮かべた星原の顔があった。ただしその目は決して笑っていない。


 あと、こんなに低いトーンの声出せたんですね、星原さん。


 僕の中で理性がエマージェンシーコールを鳴らし、本能が今すぐここから逃げろと絶叫していた。


「悪い。星原ちょっと急用を思い出したんだ。今日はもう帰るよ」


 そういって僕は星原を押しのけて帰ろうとしたが、星原の右手は僕の左手に絡みついて離れようとはせず、また左手は爪が刺さらんばかりに僕の腕に食い込んでいる。


 星原の猫なで声が僕の耳に届いた。


「あらあら、何を言うの? 月ノ下くん。確か今日は何の予定もないってメールで言っていたじゃない。ゆっくりしていきなさいよ」


 獲物を狙う肉食獣のように星原の目が爛々と輝いている。


 僕の脳裏に、球技大会で星原と綾瀬が試合前のあいさつをした後、綾瀬が星原に挑発的な雰囲気で二言三言、何か言っていたあの光景が浮かんだ。


 綾瀬……。お前があの時言っていたのはこれだったのか。やはりお前は僕の天敵だ。


「それで、綾瀬さんがあなたにサーブを教えるのに体が密着しそうになった時、鼻の下を伸ばしていたというのは本当なのかしら」

「えっと、それはだな。星原。あの時は球技大会の前日だったし、バタバタして良く覚えていないというか」

「へえ? ついさっきまで、テニスを教えてもらった時の様子を説明していたじゃない。覚えていないというのはおかしいんじゃない?」

「いや、あのな。星原」

「それから、月ノ下くんは私と綾瀬さんだったら、どっちの方が可愛いと思う?」

「ほ、星原に決まっているだろう、うん」

「そう。でも、もっと大きい声で三回ぐらい復唱してもらおうかしら。ああ、もちろん録音させてもらうから。準備するからちょっと待ってね」

「……本当に勘弁してください」


 その後、僕は星原に必死に懇願し、今度ケーキを好きなだけおごることを条件にこの話題には触れないことを約束してもらい、ようやく解放された。


 唐突に星原と情緒的な雰囲気になりかけて、ついほんの少し期待してしまったが、どうやら僕が星原にちゃんと気持ちを伝える日はもう少し先になりそうだ。


 苦笑いをしながら僕は心の中で嘆息したのだった。

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