第5話 部室、そしてテニスコートにて
次の日の朝、昇降口で僕は綾瀬さんを待っていた。
「やあ」と僕が声をかけると「あれ」と綾瀬さんは手を口元にあてて驚くしぐさをしてみせた。
「待ち合わせは今日の放課後だよ? ずいぶん気が早いのね」
「その事だけどさ。二人で何をするのかという話なんだけど……」
「何でもいいよ? 君の行きたいところに付き合うから」
綾瀬さんは艶っぽく流し目を送ってくる。
「そう、何でもいいのか。それじゃあ、テニスを僕に教えてくれないかな?」
「は?」
綾瀬さんはきょとんとして、僕を見た。
予想外の言葉に驚きとまどったようだが、何でもいいと言った手前あえて反対することもないと思ったのか、こほんと咳払いをして彼女は頷いた。
「それは別にかまわないけれど。それじゃあ、待ち合わせ場所はテニスコートがある体育館横でいい?」
「ああ、よろしく。時間は最初聞いた通り、十七時半で」
僕も軽く頷いて、周りの目が集中しないうちにその場を離れた。
* * *
そして、僕は終業のホームルームが終わった後で、一応いつものように星原の勉強会に参加した後、抜けようとして星原にとがめられて現在この状況に至っているのだった。
星原は冷たい目線を僕に向けている。
「月ノ下くん。本当に綾瀬さんが、あなたに気があると思う?」
「……思っていないよ。でもとっさに断る理由も見つからなかったんだ。それに、別にどこかに出かけたり、デートとかするってわけじゃない」
「へえ?」
「まあ、折角だからテニスを教わろうと思ってね」
「ああ、そう。男の子ってテニスウェア着ている女子とか見たかったりするのかしら」
星原の表情が怖くて見られない。目を合わせられない。
「そういうわけじゃなくて。別に、綾瀬さんの事を個人的に何か想っているというわけでは決してなくて。純粋にテニスをコーチしてもらおうと思っているだけだから」
僕の声は若干震え声になっていたかもしれない。
「ああ、そう。彼女に月ノ下くんのラケットを握ってもらって、激しくストロークを打ち合いたいというわけね?」
何となく言い回しに含むものがある気がする。
「まあ、月ノ下くんの決めたことだし、私が口を出すことではないけれど……」
「……?」
「代わりに手とか足が出てしまいそうだわ。何故かわからないけど」
うつむいた星原の手に力が入って、ノートがぐしゃりと折れていた。
「そ、そうか! それじゃあ、そろそろ待ち合わせの時間だし、行くことにするよ」
誤解を解いておくつもりだったが無理そうだ。僕は逃げるように部屋を飛び出した。
扉を閉めた後で、部屋の中でノートを床にたたきつける音が聞こえた。
それから僕は急いで体育館横に向かったが、まだ綾瀬さんは来ていなかった。
「時間は……もう三十分になるな」
「お待たせ!」
声がしたので振り返るとそこには綾瀬さんが立っていた。ドレスタイプというのか、スカートが短いワンピースみたいな形をした青いテニスウェアを着込んでいる。
美しい脚線美がスカートの下から露わになっており、胸元もピタッと体に吸い付くように体の線を強調するデザインだ。
「いや、僕も来たばかりだ」
「そう? それじゃあ、始めようか」
そう言って彼女は微笑んで見せた。
僕はとりあえず更衣室でジャージに着替えて、授業で使う生徒共用のラケットを持って金網に囲まれたテニスコートに入る。すでに綾瀬さんは自分専用のラケットとテニスボールが入った籠を準備して待っていた。
「それで、何から教えたらいいのかな?」
「はっきり言って初心者だからね。授業でもテニス選択してなかったし。でも綾瀬さんテニスものすごく上手いって聞いたからさ。折角上手い人が目の前にいるんだから、できる範囲ででも教えてもらえればと思ったんだ」
「そう。初心者だったらボレーくらいから始めた方が良いかもしれないけど」
「できればサーブがやってみたいかな」
「うーん。数時間で教えられるかどうかわからないけれど、やってみようか? まあ、サーブと言ってもフラットとかスライスとかあるけど」
「いちばん基本的な奴は?」
「フラットっていうやつね。グリップ……、ラケットの握り方にも三種類くらいあるわ」
「綾瀬さんと同じ奴を教えてくれない?」
「私のはコンチネンタルグリップという握り方ね。それじゃあ早速」
綾瀬さんは僕の手を取ってラケットの握り方、構え方を教え始めた。綾瀬さんの指が僕の手に触れる。薄手のテニスウェアをまとったほどよく成熟した体が僕の目の前にあった。
いや、決して下心があってこういうことをお願いしたわけではないのだが……。
綾瀬さんは一瞬僕をちらりと見たが、特に気にすることもなくそのまま僕の背後から手首と膝を触りながらコーチを続けた。密着とはいかないまでも至近距離に女子の体があるわけで、やっぱり何だか意識してしまう。
「体を右に向けてラケットも右側に面が向くことになるわ。それで右足を後ろに引いて、体重は後ろ足、つまり右足に思いっきりかけてね」
「う、うん。わかった」
「次はトスよ。左手にボールを持って、肩より上くらいの所で一メートルぐらいほうり上げるの。まあ高さは人によるけど打ちやすい高さということね」
「ふむふむ」
「それから狙っている方向に向かって真っすぐにラケットを振るの。このとき手首を外側にひねったほうがいいわ。ああ、あとサーブの時は背骨をそらし気味にするけど、あくまでも上半身の力は抜いてちょうだい」
「よし、一連の流れは理解した。やってみるよ」
僕は綾瀬さんのコーチに基づいて試しにサーブを打ってみたのだが……。言うのは簡単でもやるのは難しい。ラケットに当てられずに空振りしたり、ラケットに当てることはできてもネットの向こう側まで届かなかったりとしばらく僕の(悪い意味で)人並み外れた運動神経を存分に発揮して、綾瀬さんにため息をつかせることになった。
「まあ、今日初めてテニスをやるんだしねえ。こんなものだよね」
「綾瀬さん。一つお手本見せてよ」
「そうだね、それじゃあ、いい? 良く見ていて」
僕がサーブ位置からどくと、綾瀬さんはトスを出して体を弓のようにそらしながら飛び上がり、全身の力がボールにこもるような力強いサーブを打って見せた。
「どう? 参考になった?」
すいません、打つ瞬間スカートが派手にまくれあがってそっちの方が気になってました、とは言えず僕は「ああ、ありがとう」と頷いた。
何回か挑戦するうちに、ようやく僕のサーブもまともに飛ぶようになった。……それでも二回に一回くらいの話だが。
「ありがとう、綾瀬さん」
「別にさんはいらないわ。同級生でしょう?」
「あ、ああ。それじゃあ綾瀬……。えっと、おかげで少しはまともにサーブを打てるようになったよ」
「……今のところほとんどフォルトだけどね」
「え? 向こうのラインの内側に入ればいいんじゃないの!?」
僕の言葉に綾瀬は吹き出した。
「あはははは! バレーボールとは違うんだよ? いい? ネットの向こうのあの対角線側の二分割された四角の中に入れなきゃいけないの」
「ええっ! 何だそれ!? 一気に難度が上がったぞ!」
「何も上がってないわよ。最初からルールを勘違いしていただけじゃない。まあラリーが始まってからは、相手のコートの中に落ちればポイントになるけどね」
綾瀬はおかしくてたまらないと言いたげにニヤニヤ笑いだした。
「月ノ下くんって、天然ねえ」
僕はただただ赤面するばかりだ。
「自分の勘違いが恥ずかしいよ、本当」
「ところで。月ノ下くんは、星原さんと勉強会するって言っていたけどもしかして、いつもやっているわけ?」
「え、いつもと言うか、週二回ぐらいのペースで」
「へえ。でも付き合ってはいないんだ?」
これ以上突っ込まれたくなかったので、僕は逆に質問してみる。
「綾瀬は、星原と同じ中学だったんだよね? 星原ってどうだったんだ?」
尋ねられた綾瀬は一瞬戸惑って、頭を軽く搔きながら考えるような仕草をしてみせた。
「そうね。……正直言えば、何考えているのか解らない子だったわ」
「解らない?」
「ええ。中学の時に進路希望で、うちのクラスで調理師専門学校に行くって子が一人いてね。それでその子の話をきっかけに将来何になるのかって言う話題で盛り上がっていたの。できれば絵を描くのが好きだからデザイナーになりたいとか旅行が好きだから旅行会社が良いとか、ね。で、私の場合はテニスの選手ね。それで、星原さんにも誰かが話題を振ったんだけど、困ったような顔をして『特にない』っていうの。私が『具体的な目標はないにしても何か好きなものとか趣味とかはないの?』と聞いても、『読書と映画鑑賞ぐらい』だとか当たり障りのない答えしか返ってこなかったわ」
「……」
「いつも教室の片隅で本を読んでいるかクラスメイトの話に控えめに相槌打つくらいで、変わった子っていうか何か暗くて胡散臭い趣味でもやっているのかと思っていたわ。でも、その割に一部の男子からは妙に人気があってね。まあ、あの雰囲気だから話しかけづらいのか結局あまり男子とつき合ったりはしなかったみたいだけど。正直言えば……」
綾瀬は何か言いかけて、目をそらしてからつぶやいた。
「苦手だったわ」
大方「嫌いだった」と言おうとして、言葉を選んだんだろうな。なるほど、そういう印象のある星原に自分の得意分野であるはずのテニスで負けたからなお嫌な印象があるんだろう。
だけど、僕にはその質問をされた時の星原の気持ちがよく分かる気がした。星原の本音は「自分の趣味は小説を書くことで、将来は小説家になりたい」ということになるのだろうけれど、それを口にするには勇気がいる。
きっと中学生の星原は人生のどこかで正直に自分の目標を口にした人間が嘲笑されたり、趣味を語ったために面白半分でさらし者にされる、そんな場面を目にしてきたのだろう。星原にとっては「小説家になること」は目標であり同時に自分にとって大切な聖域のようなもので軽々しく口にできなかったのだ。もしも誰かに馬鹿にされてしまったらどうしようもなく傷ついて小説を書こうなんて二度と思えなくなるかもしれない、そう危惧していたんじゃないだろうか。
ただ、今の星原はすこし考え方が変わって、自分のしたいことを相手によっては普通に語るかもしれないが。
もっとも、こんな考え方は自分を主張するのが当たり前と考える、綾瀬のようなタイプの人間には理解できないだろうな。「自分のやりたいことがあるならなぜ胸を張って言わないのか」と反駁されそうだ。
よく何でも我を通すような自己主張の強い人間が年を取って人当たりが柔らかくなったりすると「あの人は角が取れて丸くなった」なんて言ったりする。だけど角のある人間が丸くなるまでの間、そういう人間と遭遇してしまった周りの人間は心の形がぼこぼこにへこんで自分を素直に表現できなくなってしまう。僕もその一人だ。
綾瀬は肩をすくめて僕に尋ねる。
「実際、月ノ下くんは、あの子といて楽しかったりするわけ?」
「確かに、星原は誰にでも自分の本音を話したりするようなやつじゃない」
僕と同じでね、と心の中で付け加えた。
「だけど親しくなっていろいろ話してみれば、思慮深いところもあるし面白くて楽しいやつなんだ」
僕と違ってね、と心の中で付け加えた。
「ふうん」
綾瀬は何ともいえない、人が自分とはかけ離れた趣味の話を聞かされた時に浮かべるような無関心と退屈が入り混じったような顔をしていた。
その一方で僕はふと気が付いた。星原は僕には小説家になるという夢を明かし、自分の考えた物語を話してくれている。他の人間には見せていない一面を僕には見せてくれているという事実を綾瀬の話を聞いて実感した。自惚れかも知れないが、星原は僕の事を信用してくれているのだ。
「風変わりな変な子にしか見えないけどね」
「風変わり、か。…………あ、ところでさ。いくつか質問があるんだけど」
「何?」
「綾瀬のサーブ打つ時のフォームなんだけどさ、右足はどれくらい引いているんだ? 三十センチくらいか?」
「え? どうかな。気にしてなかったけど」
「あと、トスってどれぐらいの高さまで上げているんだ?」
「? そのへんは人によって打ちやすさがあるから、これぐらいというのは決まっていないと思うわ」
「いや、でもさ。綾瀬のサーブ、すごく綺麗で格好いいからお手本にしたいんだ。ちょっと真似してみたくてさ」
綾瀬はまんざらでもなさそうに、ふふんと笑ってラケットを握った。
「そう言われたら仕方がないわね。じゃあ、ちょっと待ってね」
そう言ってもう一度さっきのように鋭いサーブを披露して見せた。
「なるほど、後ろの足を引くのは二歩分くらいかな?」
「そんなには引かないわ。一歩分、四十センチぐらいよ。トスは二メートルより少し高いぐらいまであげて、最高到達点から落ちるか落ちないかぐらいのあたりで打つ感じかしらね。自分でやってみて分かったけど」
「それで、腕の角度なんだけど斜め六十度ぐらいかな」
「そこまで細かくは意識していないけど……。ここからだとあの金網の部員募集の看板の左端の方向に打つ感じかしらね」
「ふむふむ」
その後も僕は色々具体的な質問をした。
ジャンプするときはどれくらいの高さか。
その時の蹴り足はどちらの足か。
ラケットをボールに当てるとき手首はどの程度ひねるのか。
「なるほど。ポイントをまとめると、右足を一歩分下げて、地面から二メートルぐらいの高さまでトスを上げる。どちらかと言えば左足に力を入れて、五十から六十センチ程度ジャンプして、ボールの真後ろからあてるように手首を調整しつつ、あの部員募集の看板の端を狙うような感じで打つと。こんな感じか?」
「うん、そうね。そういう感じだわ。」
綾瀬は考え込みながら、僕の言うことを確認するかのように首肯して答えた。
「ありがとう。ためになったよ。……明日は球技大会だろ? これ以上つきあわせても悪いからそろそろ終わりにしようか」
「そうね。私もこんな風にマンツーマンで人に教えるのって、久しぶりだったから何だか面白かったわ」
「お礼と言ってはなんだけど。飲み物ぐらいおごるよ」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
その後、僕は更衣室でジャージから制服に着替えると、綾瀬に自販機で買ってきたスポーツ飲料を渡して学校の校門で別れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます