第24話「ハートをキャッチしてもらいます」
十章 傾盆大雨! 龍神様とお父さん!
「あなたは時速100kmのスピードで走っている路面電車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には五人の労働者がいて、このまま直進すれば間違いなく五人とも亡くなります。横道にそれれば一人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?」
これはハーバード大学の政治哲学の教授、マイケル・サンデルが「正義(Justice)」という授業の中で行った発問の一つである。授業では一人の労働者に突っ込むという意見が多数派で、一人死ぬのと五人死ぬのとでは前者の方が被害が少なくて済む。
だから、そちらの選択の方が良いだろうという意見が多かった。
もちろんこの問題に答えなどない。どちらか一方の選択が絶対的に正しいということではないのだ。論点は犠牲になる命を選べるのかどうか、という点にある。実際この問題では己の意見を論拠とともに自由に主張することが可能だ。
なぜならそれは、この問題があくまで想像上のものだから。この選択によって、実際に人が死ぬことはないし、実際にその責任を問われることもない。
だがしかし、実際に人はそのような状況に直面した場合、どう行動するのだろうか。
それはもちろん個々人によって異なる。
――その通りである。
たとえば、十五歳の少年、跡川朱冴の場合は……
「あかざ……ちゃん」
また、俺を呼ぶ声だ。俺はこの声の主を知っている。
「に……ゃん……」
声はさらに大きくなり、俺に優しく語りかけてくる。
「お……に……ゃ……ん」
だけど、やっぱりその聞き覚えのある声がだれのものなのか俺は思い出すことができなかった。もう喉元まで出かかっているってのに。
ただただ、隔靴掻痒の感が俺を支配していた。俺をずっと呼ぶのは誰なんだ……
でも、俺の過去の記憶に触れることができれば……
この《ライレイン》に行けば……
――全て分かる気がする。
全てきれいさっぱり水泡に帰すことになってしまって忘れてしまっていたもの。
向き合うことなく無かったことにしてしまったもの。
雨が俺の記憶とともに洗い流してしまったもの。
――それらに会いに行こう。
「お父さん! なにいつまでも寝てるの!」
目を覚ますと望日が俺の目の前でふくれっ面をしていた。未来から来たミイラがまっすぐこちらを向いている。俺は何も言わず、そのほっぺたを引き延ばしてみる。
「いたっ! お父さん! 寝ぼけるのもいいかげんにしてっての!」
――パチン!
俺の頬に痛みが走る。俺は娘に思い切りビンタされる。
「ッ……望日か……」
俺たちは《ライレイン》に行くために、柳神川を遡っている。
「望日か……じゃないっての! お父さん起きるのおそーい!」
娘に朝から怒られる俺、その隣では緋乃が朝ごはんの支度をせっせと済ませていた。
「朱冴さん、起きたんですね。今まで気持ちよさそうに寝てたから、起こさなかったんです。さあ、食べてください」
あのダムでの一件以来、王生緋乃改め、跡川緋乃はどこか俺によそよそしくなったような気がする。未来ではこの緋乃が俺の妻になるって言うんだから、世の中何が起こるか分からないものだなと思う。
「緋乃、ありがとう……」
「お礼なんて要りません。なぜなら、緋乃は朱冴さんの妻なのですから……」
俺はその緋乃の言葉を聞いた瞬間、口から味噌汁をウォータージェットのように豪快に噴射する。
「お父さん、何やってんの! きたないっての!」
「朱冴さん、冗談です。じょうだん」
恥ずかしがり屋に見えていた緋乃だったが、慣れたら平気でこんなことも言ってのける人間だったようだ。おかげで俺は振り回されっぱなしだ。
「緋乃が言ったら、冗談に聞こえない!」
「緋乃はまあ……別に王生じゃなくて、跡川でもいいけど」
――ってか跡川の方が……
「ストップ! ストップ!」
暴走する緋乃を必死に制止しようとする俺。まったく、この二人がいたら退屈しないぜ。
「ところで、お父さん。太陽を見る代わりに世界を救うって約束、覚えてる?」
「そんな約束した覚えがないけどな……」
たしかにそんなことも言っていた気がする。ここのところ色々ありすぎて太陽を見るどころではなかったが、改めてこの旅の到達点を認識する。
「まあ、覚えてても、覚えてなくてもやってもらうつもりなんだけど」
望日は一呼吸おいて言った。
「お父さんには、龍神の心臓を手に入れてもらいます」
「無理だ」
俺は即答する。なんだそのトンでもない話は。
「ハートをキャッチしてもらいます」
「可愛く言っても、無理なものは無理だ」
言い換えたって、ミッションの難易度は変わらない。龍神の心臓? そんなのゲームの世界でも無理だっての。
――ってか、龍神なんてのが《ライレイン》にはいるのだろうか。そんなのおとぎ話とかでしか聞いたことがない……
「たしかに、《ライレイン》には龍神がいるってのを聞いたことがある……」
緋乃の住んでいた《ガランサス》でも龍神伝説があったようだ。俺の住む《アマガハラ》ではそんな噂、聞いたことがなかったけど。
「この柳神川だって、龍神様に続く川だからそんな名前がついてるんだよ!」
なるほど、言われて見ればそれっぽく思えてくる。不思議な話もあるものだ。
「まあ、それはそれとして、その龍神様の心臓って手に入れたら何かあるのか?」
俺が不意に浮かんできた質問を望日にぶつけると、望日は間髪入れずに言った。
「その心臓こそが、望日の未来を救うんだよ! ついでに、お父さんの世界もね!」
話を聞くに、どうやらこの慢性的な雨は龍神様が降らせていたらしい。じゃあ、その龍神様
ってのを倒せば全部解決、万々歳って感じなようだ。
「そんなに簡単に龍神様の心臓は手に入るのか……」
「まあ、簡単じゃないけど。どうせできなかったら滅んじゃうわけだし、無理でもやるしかないって感じ」
望日は深刻そうな顔は一切無しに軽口で言っていたが、その言葉は俺にのしかかっていた。
望日の言うことが全て正しいのなら、世界を救うことができるかどうかは俺たちの行動次第ってことになる。
俺はやっと太陽を見るということがいかに難しいことであったかを知る。なんとなくその場のノリで望日についてきてしまったが、いざ話を聞くと逃げたくなっている自分がいることに気が付いた。今までみたいにつまらないけど平穏な人生、雨の中でそっと暮らす日陰者のような生活でも良いのではないか、そんな考えがよぎる。
そう思案していた俺だったが、あの時と同じで、望日がまた爆弾発言をする。
まるで、このタイミングを狙っていたかのように。
俺がここで足を止め迷ってしまうことを、最初から知っていたかのように。
「お父さん。驚かないで聞いてね……」
「これから、会いに行くのは……」
「跡川 朱菜(あとかわ しゅな)、お父さんの妹だよ……」
俺はその瞬間に、今まで喉元につっかえていたものが次々とつながってゆくのを感じた。今まで感じていたもどかしさが解消され、途端に全てを理解する。
「そういえば、望日。出かけるってどこに?」
そう質問した俺に向けて、望日は自分のシャツをつまんで見せた。
「このシャツの持ち主の場所に……ね」
あの時に望日が着ていたシャツは紛れもない俺の妹のものだったのだ。あの時から望日は知っていた――当然と言えば当然である。でも俺はあの時はまったく気にしていなかった。
そして、《ガランサス》で見た夢、あれも妹の声だった。
「朱冴……ん……あか……ゃん」
「朱冴お兄ちゃん、朱冴お兄ちゃん」
今ならはっきりと分かる。俺の名を呼ぶのは朱菜(しゅな)だ。
さっき聞こえた声ももちろん……
――俺の妹、跡川朱菜の声だ。
「どうして今まで忘れていたんだ……」
「それは、お父さんの記憶力が悪いからって言いたいけど、実際はトラウマってやつで脳が勝手になかったことにしようとしてたんだって!」
――未来のお父さんが言ってた。
望日はあっけらかんとそう言った。俺が迷ったときに妹のことをばらすってのも、未来の俺の諫言だったのだろうか。
おかげで俺はもう引き返すことを全く考えていない。
「朱菜が生きているなら、行くしかないだろ」
「過去のお父さんにこのことを言うか迷っていたんだけど、未来のお父さんが言ってくれって言ってたし……」
――ごめんね。
望日はそう言って俺にぺこりと頭を下げる。
俺にはこのごめんねが望日にとってどれだけの思いで言っているかなんて全く考えていなかった。俺は朱菜という妹と再会できることにすっかり喜びを感じていた。両親を失った今、唯一とも言える肉親と会えるのだ。気分が高揚し、これからの旅路に希望を抱くばかりだった。
――だから、気が付けなかった。
「未来と過去のお父さん、どっちも望日は好きだから……」
その声は俺に届くことなく、降りしきる雨に儚く消されてしまっていた。
「太陽を見て、妹に会って、世界を救う」
いいことだらけだ!
俺は太陽を見ることに全力で、全身全霊で向かいたい。
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