第9話 「お父さんは望日が居なくなったらどうする?」

「うへえ……」


「体があついよぉ……」


 望日と緋乃は長湯しすぎたことにより逆上せてしまったようで、床に大の字になってだらしなく寝転がっている。


一方の俺はと言えば、夕食をごちそうになりながら、村長に例のあのおぞましい生物について質問していた。


「……きっとそれは、《雪人(シャマン)》じゃろう」


 村長は迷いなく、《雪人》と言った。その表情はどこか陰りが見え、ただならぬ雰囲気を醸している。もちろんここでこの話を終わらせても良かったが、俺はあの生物の正体が知りたかった――だから、恐る恐る村長に訊いた。


「あの……それって……どんな生き物なんですか?」


「《雪人》とは、読んで字の如く、雪の中に居る人という意味じゃ。それ以上のことはよくわかっとらん」


――何しろ、それを見たものは、生きては帰ってこれぬと言われとるもんでなあ。


――どうやら、あなた様は幸運だったようじゃな。


そう言われた瞬間、俺は背筋が凍った。


「まあ、《雪人》はこの村に昔から伝わる神様みたいなもんでの。村を離れ遠出するものは《雪人》にお会いした時のために、皆、清めの塩と神酒を持って行くのが習わしなんじゃ」


 そう言って、塩の入った袋と神酒を俺に手渡してくれた。


「この《ガランサス》を抜けると言うなら、持って置いて損はないじゃろう」


 村長の恩に感佩する俺、村長の娘を救出したとは言え、見ず知らずの人間にこうまで優しくしてくれる彼に何かお礼がしたくなった。


「何か、俺に出来ることはありますか?」


 そう申し出たが、彼は物憂げな様子で首を横に振る。


「娘を救い出してくれただけで十分じゃ。わしらの方があなた方に精いっぱいのお礼をしたいんじゃ。だから、気を遣わないで頂きたい」


――部屋は向こうの部屋を自由に使ってくれ構わん。今日はもうゆっくりお休み下され。


そう言って村長が立ち上がろうとした時、膝が机にぶつかった。机はガタリと揺れ、机の上に置いてあった神酒が望日の寝ているところに滴り落ちた。


「ひゃん!」


 望日にはまさに寝耳に水といったところで、ぴょんと垂直になって飛び起きた。


「おおっと……申し訳ない……」


 そう詫びた村長は「またあしたの朝に」と言って、奥の部屋へと帰って行った。


「望日、ご飯を食べたら今日は休ませてもらおう」


「緋乃も、今日は色々ありがとうな。お休みまた明日だ」


 《ライレイン》に行くはずだったのに、気が付けば《ガランサス》に到着する壮大な旅になってしまった。雪山で歩き続けていたこともあり、俺はすっかり疲労困憊の状態だ。


「ちょっと向こうの部屋を見てくるから」


 そう言って俺は寝る支度をするために望日と分かれた。閑散とした部屋には望日と緋乃の二人が残される。


「望日、あのね……」


先ほどから逆上せていた緋乃がようやく落ち着いたようで、望日に話しかける。それは、何気ない会話のようだったが、俺の居ない時を狙った計画的なものだった。


「…………」


 望日は緋乃の話を聞いてしばらくの間黙りこんでいたが、やがて緋乃に向けて回答する。


「いいよ」


 望日はそれ以上何も言わなかった。




 村長の居る部屋へと戻った緋乃は、仄暗い部屋の中で静かに祖父に話しかける。


「緋乃、駄目だった……」


 それはひとり言のようで、また、神への懺悔のようでどこか憐憫の情を抱かせるような哀愁を帯びた声だった。


「良いんだ、緋乃……お前は良く頑張った」


 そう優しく諭すようにして祖父は孫娘を慰め、労う。


「でもっ! 明日……もう一回……」


 それでも、緋乃はまだ後悔している。自分の責務を果たせなかったことを、自分に与えられた役目を全うできなかったことを。


「もう緋乃だけが背負う必要はない……緋乃も彼らと一緒に……」


 そうやって言葉を紡ごうとした生王紅丹重だったが、間髪を入れず緋乃が言った。


「そんなの絶対に嫌!」


 その後、二人が話をすることはなかった。





 同時刻、俺と望日は緋乃と分かれ、部屋で話をしていた。


「お父さんは望日が居なくなったらどうする?」


 それは、唐突な質問だった。


「そりゃあ、まあ、困るなあ。現に《ガランサス》に着いた時も、必死になって居なくなった望日を探したし……」


――どうしてそんなことを訊くんだ。


 その一言さえ、言えていたら良かったのかもしれない。


 または、この時、望日の様子がいつもと違うということに気が付けば良かった。


――だが、俺は気が付かなかった。


「そっか。困るか……」


 望日がそう言ってこの話は終わった。俺は灯りを消し、すぐに眠りに就いた。


まあ、明日のことはまた明日話せるだろう――そう楽観的に考えて。






 夜更けに何やら部屋でごそごそと何かが動いている。灯りを点けて確認すると、


「あ、お父さん。起こしちゃった?」


 俺は眠い目をこすりながら望日の方を見ると、望日が部屋を出ようとするところだった。


「こんな夜にどこに……」


「トイレに行くだけだよ」


 ふーん、と言って俺は再び布団の中に入って目を瞑った。疲れ切っていたこともあり、その夜は普段よりも熟睡することが出来た。


だから、それ以降のことは覚えていないし、分からなかった。





――望日はその夜、失踪した。



朝、目が覚めると隣に望日の姿がないことに気が付く。


「望日はまたトイレか……」


 そう思っていた俺だった。だが、一向に望日は帰ってこない。


――これは、ただ事ではない。


そう直感した俺は望日の捜索を開始したが、近くに望日がいた痕跡が全くと言っていいほど存在しない。


俺は急いで戸外に出て、望日の名を呼ぶ。


「望日! 望日!」


一体どこに行ったんだよ……


俺はその時、昨日の夜に望日が突然話した内容を思い出す。俺は昨日の質問はこういうことだったのではないか、そう考えてしまう。いったんそう思うとどんどん悪い方に考えてしまうのが人間の性で、俺は考えれば考えるほど、なぜ昨日もっと真面目に彼女の話を聞いてやらなかったのかと自責する。


――お父さんは望日が居なくなったらどうする?


 望日がどんな顔でその言葉を言っていたのか思い出せない。だけど、望日が今ここに居ないことは事実で、その現実が俺に強く重く突き刺さる。


――まだ近くにいるかもしれない。


 そんな希望を抱いてみるが、降り積もった雪の上には俺以外に足跡はなく、少なくとも朝の時点で既に望日は居なくなっていたということが分かった。


 それでもまだ望日がこの村の中にいるということを信じた俺は、とにかく周辺の家々に望日が来ていないかどうか訊いてみようと思い、図々しくもその門扉を跨いで戸口を覗いた。


「朝早くにすみません。そちらに十歳くらいの少女が来ていないでしょうか……」


 俺はそこで唖然とする。


そして、この村に来た時の違和感を思い出した。


 なぜこの村はこうまでも閑散としているのか。村人が生還したというのに祖父以外誰も姿を見せず、平然としているのか。まるで、空き家が散在しているだけのように、他に人が住んでいる気配や雰囲気が全くと言っていいほどない。その時はただの無関心、対岸の火事の姿勢を貫いているものだとばかり思っていた。


――だが、このトキロロ村の大半の住人は死に瀕していた。


「あぅ……うぅ……」


 俺が戸を開いた時、その家の住人とばっちり目が合った。その目は救いを求めた目を、そして希望を渇望する目をしている。


その肌はこの村に降り頻る雪のように真っ白で、病的なまでに真っ白で、俺は一目見ただけでこれは正常な人間ではないということを悟った。


「す、すみませんでした……」


 俺はすぐさま戸をぴったりと閉め、自分の軽挙妄動を呪った。


「うぁ……緋乃……ひ……の……」


ぴったりと閉めた戸の向こう側から呻き声と混じって聞こえてきたその言葉は、生王緋乃の名前だった。


 不意に俺は後ろからグイッと肩を掴まれ、体が一瞬にして硬直する。


「知ってしまいましたな」


生王 紅丹重は、俺に静かにそう言って続けた。


「知らなければ良かったのに……」


 冷たい悪寒を含んだ空気が四方から粘っこく、重たく、体に圧し掛かってくる。



 空は相変わらず、継ぎ目一つなく灰色の雪雲に覆われている。俺の目には、この村もすっかりその灰色に染まっているように見えた。



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