第6話

湖を経由して、出た先は洞窟だった。丸腰で、軍服の下だけを穿いている。息は長く持つ方。だから、多分何とかなると思っていた。何とかなったが、湖の向こう側がラインの向こう側に続いているとは思わなかった。

「誰だ!」

張り詰めた声が洞窟の奥から聞こえた。洞窟の奥には人工的な明かりが見えた。それは青白く、その光が動いて人がいるのを俺に見せた。

水面から出たときに、水音がしたんだろう。それに男が反応した。声の位ではそんなに歳は食っていないはず。声の鋭さや反応の速さで、きっと俺と同じくらいの男だろうと考えた。

見張りに飽きて、仲間にちょっと抜けると言い残して、深夜に湖に潜ったのだ。当然、丸腰だ。しかし、ここはライン内だ。武器や物資はそうとう不足しているはず。一発の弾丸も無駄にできない状況だと認識している。

暗闇の向こうにいる男が、まともな奴だったら。

洞窟の男が湖の方へ歩いてくるのが見える。警戒してか、灯りは持っていない。灯りを持って動くと、自分の居場所が相手に知らせてしまうからだ。こいつは頭が切れるんじゃないか?

長身痩躯と言える男は、ゆっくりと歩みを進めた。周囲の機材や家具に身を隠しながら、こちらの動向を探っているのが空気でわかる。

この張り詰めた空気は、嫌いじゃない。

音を立てないように男の背後をとる。ゆっくりと近づいて、男の自由を奪った。足を払い、円卓に腹から突っ込ませる。片腕を背中でねじ伏せて、もう片方の腕で相手の口を塞いだ。叫ばれては困る。

男は衝撃に息を詰まらせながらも、声は上げずに視線を向けようとする。しかし、死角に入った俺を見ることはできない。潜入作戦だったら、間違いなく喉笛を掻き切っているだろうが、今回は間違いなくこちらの不注意だ。理由もなく人を殺すほど落ちぶれてもいないし、狂ってもいない、と自覚している。

「別に何をしようってわけじゃないんだ。つまんなくなって泳いでたら、ここに出ちゃっただけ」

男の耳元で囁くように話す。ほとんど声帯を通さないで、吐息だけで伝えると男は抗議するように、体をよじらせる。

解放しろ、そう読み取って「大声出すなよ、縊り殺すから」と伝え、うなずいたのを確認してから男から手を離した。男は軽く数回咳き込んだが、すぐに息を整えた。乱れた髪や服を整えると、ため息をついた。

「なんなんだあんた、俺までびしょ濡れじゃないか」

と、心底迷惑そうな顔をした。


深夜の湖に「退屈だったから」と軍を抜けて、湖に素潜りしてきた男に鮮やかに拘束された。きっと、獲物があったら瞬殺されていたんだろう。痛みもなく、一瞬で。そう思ったら、全身に恐怖が走る。冗談じゃない。なんでまた。深夜だぞ。敵地だぞ。戦力の差が大きいとはいえ、敵のテリトリーに侵入して悪びれもなく男は濡れた軍服を絞っている。

「あんた、名前なんていうの?」

なんていいながら、旧式のオイルストーブの前で暖を取っている。その上に薬缶を乗せ湯が沸くのを二人で待っていた。状況がわからなくて困惑している俺が異常なのか、敵地でのんきにくつろぐこの男が異常なのか、わからなかった。

「なあ、名前教えてよ」

退屈なのか、男はしきりに名前を教えろと要求してくる。後ろで縛っていた長めの髪を解いて、軽く絞ったり、髪を指に巻いてみたりと、本当に退屈そうだ。

俺はため息をついて、その横に陣取った。並んで胡坐をかく。

「ロク」

「俺は、レン。どっかの花の名前なんだって」

名前を告げても、彼は俺から視線を外さない。名前の由来を教えろと、せがまれているんだと思いいたると、しょうがないと話してやる。

「……どこかの国の言葉で、夜って意味らしい」

誰にもそんな説明をしたことがない。必要がなかった。俺の名前はロク。それだけでよかった。その意味を知りたがる奴なんて、今まで誰もいなかった。

「へえ、なにそれ、かっこいい」

男、レンはそう言って楽しそうにしている。こいつはあくまで、本当に暇なんだろうと考えた。暇で湖に飛び込んで、敵地とはいえ人間に出会ったのだ。退屈しのぎにはちょうどいいような、俺がいた。

「あんた、ラインの向こう側の人間だろう。それも兵士なんじゃないのか」

俺は核心をついた。戯れている時間すらこちらは惜しいのだ。一人仲間がいなくなってしまい、それをラインの向こう側の兵士に保護された疑いがある現状で、公にできないうえ反乱が起きそうな集落を抑え込んでいる状況だ。そんなこと、きっとこの男は考えてもいないことなんだろうけど。

「まあね。そう、あっち側の兵士」

レンは悪びれることもなく、そう言い放った。薬缶から湯が気泡をはじく弱い音が聞こえ始めた。

あちら側は、ライン内を制圧しようと考えていると、レンは話し出した。制圧といっても、こちらは勢力という勢力もないんだから、ラインの解放をして捕虜という形で保護しようとしている、ということだった。だったら、早くそうしてくれ。そう思った。物資も人も何もかもが少なくなってしまった集落で、俺たちは身を寄せ合うように暮らしているだけだ。一日一日、死なないように何とか生きている。

その現状を、レンに話していた。自然と口から流れていた。男の雰囲気が穏やかだから、きっと流されてしまったのは俺の方だ。きっと相手が悪ければ、何かの違いがあれば、一瞬で命を持っていかれてしまう。張り詰めた糸のような空気を目の前のこの男が、じわじわと音もなく緩めてしまっているんだろう。

俺も相当参っているのかもしれない。周囲の仲間が躍起になって探す友人の情報は、一向に増えないし動ける現状ではないと来た。いくら考えても、損害しか出ない。集落の作戦参謀と自負しているが、実際はこんなものだ。弱音を吐いても仕方がない。そう思っても、思考は堂々巡りをしていた。

何度目かのため息をこぼすころには、ストーブの上の薬缶が沸き立っていた。それを急須替わりのティーポットに注ぎ、野草の茶を作る。いつか、白とノクに教わったお茶の入れ方。野草を煎って作るから、それを栽培するのはルースやブラトだ。そうやって支えあって生きてきた。

マグカップに茶を注いで、レンに手渡す。「気をつけろ」そう言って渡したのに「熱い」とカップを地面に置いた。息を吹きかけて冷ましている。兵士というだけあって引き締まった体をしているが、動きは猫のようにしなやかで柔軟性があるな。退屈しのぎに湖を泳ぐために、半裸で武器も置いてきてしまうなんてどれだけ無防備なんだ。それとも素手で丸腰であっても、敵と遭遇したら生きて帰る自信があるからだろうか。

場違いにそんなことを考えていたらレンがそういえばと何でもないことのように、ふたたび口を開いた。「ビアンコ」

「気の強い女を一人、こっちで保護しているよ。たしか、そういう名前の入ったタグをつけていたと思う」

レンは自分の胸元のタグを指先で弄びながら、そう言った。

曰く、女は酷い肺炎で保護したときは結構やばかったし、そんな状態で逃げようとするから友人たちが手を焼いていたらしい。話だけ聞いてたらどんなゴリラかと思ったら、普通の女なんだもん、びっくりするよ。そうやって笑いながら、彼は背中を見せた。左の肩甲骨のど真ん中を縫い合わせた真新しい縫い跡が見えた。乾きだした彼の皮膚の上には、新旧入り乱れた傷がたくさんあった。その一番新しい傷が、それらしい。

「仲間を追いかけてたらヘマしちゃって何発か食らっちゃったんだけどこっちのMEDICが運悪く不在でさ。夜中の救護テントに入ったら、その女が寝てたの。タグには名前が彫ってあったから、それを読んでたんだ。知らない顔で珍しくて。そしたら、その人起きちゃって、叫ばれると思ったら、てきぱき処置してくれたんだよね、びっくりしちゃった」

男は楽しそうに話している。なんだ、無事だったのか。我知らず、安堵して手が震えだす。カップを地面に置いて、体の力を抜いた。どんな悲惨な目にあっているか、心配していたのだ。最小の被害から、最悪の事態まで想定していた。元気に他人の手当てをしているのなら、そう思って安心した。

「安心した?」

レンは、俺の掌に触れていた。震えていた掌は、震えるのをやめた。「ああ、安心した」そう答えた声は、震えていた。

ため息をついたレンは、カップに恐る恐る口をつけるとちびりと茶を飲んだ。

「その後寝込んじゃったんだけどねえ。帰ってきたセラギにそう言ったら、一緒に怒られちゃった」

そう言って、少し苦い顔をした。茶が苦かったのか、状況がまずかったのか、よくわからない。セラギという者が向こう側の救護班なんだろう。医師なのかナースかはわからないが、医療を心得た者なのは確かだ。

「なあ、あんた。ここの偉い人?」

硬い声が掛けられて、心臓が跳ねた。視線を合わせると、今までにないくらい真摯な赤い双眸がそこにあった。「えらくはないが」と濁すが、男はお構いなしに話し出す。

「あの人、手術するって言ってた。だから、しばらく帰せないよ」

彼は話してくれるが、彼のフィルターを通って話された言葉は緊張感を失くしてしまっていて、何でもないことのように聞こえて耳を通り抜けてしまった。意味が分からない、そう言うと彼は思案して、一つ提案をした。


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