第3話

振っていた小雨は止んだらしい。テントを出て、白衣のポケットから煙草を取り出す。軍支給のものだ。「一服」という概念がある喫煙具をあえて選択している。ここまでにしようと思えば自分の意志で中断できるのも、喫煙具タイプのメリットだと思う。同じような効能のタブレットやカプセルも支給されているが、それらは飲み込んで自分の意志で吐き出しても溶解しかけていたりしてコントロールするのが困難な場合があった。旧世代の煙草よりは薬品臭く、ヤニっぽさは軽いがそれに似せているのはわかる。少しの鎮静効果をもたらすそれは、戦闘時の恐怖心や痛覚を若干逃がすためのものらしい。自分の持つそれは一番薄く、どちらかといえば習慣的に摂取しているに過ぎなかった。

最初の一吸いを肺いっぱいに吸い込むと、ため息のように一気に吐き出す。その煙の向こうに見知った顔が見えた。

「おうモナ、お疲れ様」

相手は揃いの軍服を着こんでおり、闇夜になじんでいるが白い顔が浮かんでいるように見える。きれいに整った顔をしているが、前線に立ってトリッキーな動きを披露し、戦ってくるもんだから体のそこかしこに傷をよく作っている。こないだぶち込んだのは、こいつの腸だったように思えたが、思いのほか回復力は高いらしい。

「傷は治ったのか?」

そう言ってやると「まあね、動けるから大丈夫なんじゃない」と他人事のように言って、同じように煙草をふかした。

そうこうしていると、伝令役がバイクに乗ってテントの近くまで突っ込んできて、バイクから降りた。エンジンはすでに切られていて、余力を計算しここまで突っ込んできたらしい。

救護テントの近くにバイクで来るんじゃないと以前釘は刺したが「エンジン切って来るから許してくれ」と言われた。傷病者が起きてしまえば、また苦痛の波にうなされてしまう。それは自分にとって不利益でしかなかった。夜は、眠ってもらうのが一番なのだ。夢の中にまで痛みや苦しみは要らない。それでなくともうなされたり苦しんでいるのだ。不安材料は消してしまいたい。

バイクを降りた男も軍服を、かろうじて着ている。着崩してしまってラフすぎる。上官に見つかればお小言くらい頂くことになるかもしれないが、深夜寝静まったテントや野営地に上官たちの姿はない。みんな眠ってしまっている。夜間、こうやって闇に紛れて数人で集まってしまうのは、習慣のようなものだった。

学生時代にたむろしているのと、さして変わらない状況に腹の底に暖かい感覚が久しぶりによみがえった。

バイクから降りて男はつかつかと近づいてくる。顔を覆い隠しているのは任務の帰りなんだろう。彼は伝令と偵察を任されている。隠密に動くことが多いため、顔はほぼ常に隠している。

フェイスシールド越しに怒気を孕んだ声がする。

「お前、また厄介事招き入れたらしいな。こっち側全体を危険にさらしてどうすんの」

口調は静かだが、青い目には隠しもしない怒りが宿っている。いつの間にか、肩に力を抑えたこぶしが押し付けられている。衝撃はほとんどない。彼が筋力で抑えつけてそうしているのはわかる。

力に震えているのが、布地を通して伝わる。一つ煙草を吸い込んで吐き出した。それで、少し頭がクリアになるような気がする。そんなことはないのに。こぶしに手を添える。震えは名前を呼んで触れれば止んだ。

「スイ、俺を心配してくれてるのはわかってるよ。でも、放っておけなかった」

男は舌打ちをして、盛大なため息をこぼしてからシールドを外した。年齢以上に若く見える。彼も整った顔をしているが、傷だらけだ。

傷は癒える。しかし、跡を残してしまう。瘢痕化した部分が盛り上がって筋のようになり、その部分の皮膚は固くなって光を反射する。それが彼らの命がある証拠。死んでしまえば癒えることはない。

ふと、掌を見た。それを握って開いてを繰り返す。生きている。あの女も、生きている。

今日拾った女の話を簡単に説明した。誰も保護したこと自体を咎めているわけではない。ただ、強く芽生えてしまった仲間意識が自分を心配させてしまうんだと認識している。

大の男が雁首揃えて、自分が話すのを待っているようだ。いつの間にかフィルター近くまで燃焼してしまい消えていた煙草を灰皿代わりの一斗缶に放り込んでから、先ほど拾った手負いの獣のような女の話を始めた。




「お前が本気で拘束しないと動ける女ってどうなの、ゴリラなの」

「あれだろ? あの、痛くないのに動けなくなる、あれだろ?」

「……そのゴリラに食い殺されなくてよかったな、貧者」

口々に好き勝手言わせていたころ、テントからアイセが顔を出した。声量は抑えてはいるが鋭い声で俺を呼んでいるのが聞こえた。急いで吸いかけの煙草を仲間に渡して、テントに駆け出した。


「セラギさん、けいれんが!」

どうした、と問う前にアイセは状況を報告しだした。あの後静かに眠っていた女だったが、先ほどから短い痙攣を起こしているようだ。確かに一回の痙攣の時間は短い。しかし、それは波のように彼女を襲っているようだ。彼女の体に触れると体温が高い。熱性けいれんかもしれない。

「体温測って」

短く指示を出すと、アイセは颯爽と動く。素早く体温を測り、俺に伝えてくる。高熱だ。一体原因は何だ。こんなテントの中では精密検査もできない。相手は敵側の人間だ。自軍の兵士なら簡単に検査できたと、歯噛みする。彼女の体で何が起こっているのか、把握することも難しい現状に、拳を握りしめる。

きっと、隣に立っているアイセも同じことを考えているんだろう。痙攣がひとまず治まった彼女を見下ろしながら、悔しそうに目を伏せている。アイセには専門的な知識はない。ただ、戦場に身を置いて傷病者のケアと治療をしていれば、どこかで自分の兄と出会えると思っていると以前話してくれた。俺と一緒にテントで働けば、おのずと知識はついてくる。今はその辺のMEDICに劣らない動きをしてくれている。

悩んでいても仕方がない。彼女の腋や鼠経部に冷却材を差し込んで、体温を下げるよう試みる。解熱剤も血管から投与し、点滴バックも増やした。せっかく拾い上げた命だ。こんな見知らぬ場所で、死なせるのは御免だった。せめて、あちらに引き渡してからなら、その後死のうが生きようがそっちでもいい。しかし、ここで死なせたくないのが本音だった。


「ほら、そんなわけわかんないもん拾ってくるから」

バイクに乗っていたスイがテントに入って、俺たちの背後に立つ。テントの中は照明を落としてはいるが、都合上消すわけにもいかずやや明るくなっている。火を消したテント群の中で、ここだけが少し明るい。

スイがため息をついたのが分かった。「だからお前が落ち込んでしまうんだろう」と言外に言われているのがわかる。スイとは付き合いが一番長いから、わかりにくい言葉の裏も読めてしまう。

女にここでできる処置は、やりつくしてしまった。ベッドサイドの丸椅子に腰かける。大きくため息をついた。離したくない。こんなところで。

荒い呼吸の合間に、俺たちの押し殺した呼吸が聞こえる。テントの中は、空気がとがっていくのが分かった。

「ああもう、なんなのまじで」

沈黙を破ったのは、彼女だった。伏せられていた瞼はゆっくりと持ち上げられて、その双眸が見えた。明るい褐色の瞳は、自分を見下ろす複数の視線から逃げるように、俺を探した。目が合うと破顔し、安心したように手を伸ばしてきた。

「あんた、MEDICなんだろ? なんて顔してんだよ。辛気臭えな」

そう言って、頬を撫でた。荒い呼吸も高い体温もそのままに、彼女はこちらを気にしている。きっと、自分が苦しくてもこうやって今まで他人を看てきたのだろう。それが理解できてしまったから、胸が苦しくなってしまった。

ぐっとのどが詰まる。そうこうしていると、彼女は自力で体を起こした。

それを押しとどめたのは、背後から伸びてきたスイの武骨な腕だった。彼女の右肩を掴んで鎖骨の下あたりを右腕一本で抑え込んでいる。左腕は彼女の顔の横に突いている。安易ベッドが強く軋んだ音がして、我に返る。

「スイ!」

俺は叫ぶように友人の名前を呼んだ。殺されてしまうと思ったのだ。スイは視線を一瞬こちらに向けて、瞬きを一つ。大丈夫だって、と軽く言われた気がした。

「おい、ちょっと眠っててくれ。そんな体調で帰ろうとすんな、馬鹿が」

彼は一言多くそう言うと、彼女の首に指を添えた。軽く抑えるようにして、すっと手を放す。彼女がそれでおとなしくなって、一瞬してやっと卒倒させられたのだと、把握した。

ベッドから降りずに片膝をその上でついたまま、スイは女の髪や外れた酸素マスクの調整をしている。その行動は異様だった。その手つきは優しく、壊れ物を扱うかのようで、正直意外だった。

「何、殺すとでも思った?」

そう言って、そのままの体勢でスイはにやにやとしている。俺を、からかうようにそうしてから、優しい顔に戻る。その後ろから、俺の声に反応したんだろうモナがぬっとテントに入ってきた。手には刃渡りの長いナイフを一本。室内の抑えた照明を鈍く反射して、不気味だ。

「なんだ、セラギ無事じゃん。ゴリラに食われたかと思って来たのに、残念」

モナはつまらなそうにそういうと、腰の鞘にナイフを仕舞った。

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