第2話
敵軍と自軍を隔てる場所をラインと呼んでいた。その近くでは多くの負傷者が運び込まれてくる。洞窟の中とそのテントを往復していた。
その帰り道、私は日ごろから気が付いてはいたが、そこで自分の不調にうずくまる。すぐに襲ってくるのは咳。収まることを知らない咳に混じって、血液が落ちた。あれ? 肺に穴が開いてしまったんだろうか。撃たれた自覚などない。衝撃もなかった。どう考えても今自分が咳込んで出てきた血液だろうことは、すぐに合点がいった。喀血だ。
状況から考えて結核だろうか、それとも肺がん? 自分の状況を考えながら、それでも咳は止まらない。舗装されていたアスファルトは、今はひび割れてしまっている。その上に左手をついて、どんどん重くなって倒れ込んでいく体を支えようとした。背中が酷く寒い。がちがちと歯が鳴るのが分かる。体に力が入らないのも分かった。
大丈夫かと、声が降ってきたような気がする。相手はわからないが、力の入らなくなってきた手でそれを押しのけた。結核だったらどうすんだ。近づいてくんな。こっちかあっちかわからんが、どちらにせよ近づいてほしくはなかった。
血が見えたのだろう。近づいてきた熱は一瞬離れて、戸惑うような間を少しだけ挟んで「大丈夫じゃねえじゃねえか!」と怒鳴りつけるように言うと、私の体を担いだ。それはもう軽々と。私は小さくもない。軽くもないはずだ。それを軽々と担ぎ上げるなんて、なんて奴だ。そう思っていたら、次に目が覚めたのは暗いテントの中のようだった。
自軍とは違う性能のいいテントの中は、雨も風もしのげるようだった。外は雨が降っているようで、空気がしっとりとしていた。ああ、こんな日は洞窟内が息苦しくなって、何人かが出てきてしまいケガ人が増えるんだ。早く帰らないと、ぼんやりとする頭で考えた。
とりあえず、顔の前がうっとうしい。手でそれを払いのけようと確認するとご丁寧に酸素マスクが当てられていた。自分の呼気でマスクの中に結露を作っていた。
「おいこら、取んなって」
横から抗議の声が降ってきた。だってうざいんだもん。外すでしょ。もったいない。左腕にも針が刺さっているのを確認する。もうちょっと、こんなにしないでよ。なんなのもう、久しぶりに見たわ、重病人かよ。点滴に失敗したんだろう、青いあざがいくつか見えた。日光に当たる時間が減って、洞窟やテントにこもっていたせいで日に焼けない白い肌が自慢だったのに、なんてことしてくれるんだ。
場違いな苛立ちは静かに頭の中を渦巻いた。
点滴を固定しているテープをはがそうとしていた右手を、熱い掌が拘束した。絞めるように、強く。熱い。やめてくれ。なんなんだ。
「あんた医療班だろ、あっち側の。」
男の声はすぐ近くで聞こえた。間近で男の顔を確認する。緑色の目が二つこちらを見ていた。メガネの奥でそれは、落ち着けと言葉を話しているらしかった。
「そんな良いもんじゃない。まねごとをしているだけだ」
私はそう答えた。出てきた声は掠れていて、ひどい声だった。
あちらでは医療と呼べるようなことはほとんどできない。死にゆくものを少しでも安らかに、少しでも癒えるように、寄り添っているといった方が近い。それを医療と呼べるのであれば、そうに違いないがなんとなく違和感があった。
「それでも、あんたはMEDICだろう」
私の首にぶら下がっているドッグタグを指でつつく。そんな表記を頼んだ覚えはないが、気を利かせた仲間がオーダーしてくれていたのかもしれない。
「俺もだ。なあ、だったらわかるよな。敵味方関係なく落っこちそうな奴は拾ってやりたくなるし、拾った奴は回復しないかと願って必死に処置を施すのも」
男は話しながら、別の赤十字マークを付けた男に合図をした。もう一人の男が近づいてくる。恐怖を感じた。目の前のメガネの男は怖くない。しかし、近づいてくる男が手にしているそれは何だ! 抵抗を始めるのを予測して男は私を抑えつけた。痛くはない。ただ動くことはできない。まじかよ。卑怯かよこの野郎。
「ちょっと、なにそれなにそれ! 変なもの入れてんじゃないよ! やだやだやだやだ!」
小さなシリンジは透明な液で満たされていた。それを丁寧に点滴のラインから静かに注入していく。気泡は一つも入っていないし、痛くもない。ああ、上手だなあ、こんなに大きな体を持っていて指だって太いのに、器用に動くんだなあ。熊かよ。
もう一人のメガネの男は幾分華奢に見えたが、私を拘束する力はそれなりにあるようだった。戦闘で使う技術じゃない、患者に怪我を負わせないためのスキルだ。多分、本物のMEDICなんだろう。
メガネの男は一息ついて、誰も呼ばない私の本名を呼んだ。「ねえ、ちょっとだけおとなしくしててよ。悪いことはしないし落ち着いたら帰してあげるから。あんたの時間を少しだけ俺に頂戴よ」手首を握ったまま、反対の手で髪を撫でられる。優しく子供を寝かしつけるように。そのまま、私の思考も意識もぼんやりとしていった。鎮静剤の類を点滴の横から注入されたんだろう。
「きれいな名前してくるくせに、なんて強情なのこの子」
メガネの男がため息をついて、手首の拘束をやめる。赤くなってしまった手首を撫でている。
「自軍が気になるんでしょうよ。わかるでしょ、セラギさんなら」
熊のような男は、ベッドの横の簡易的な丸椅子に腰かけた。足が長くて余っている。窮屈そうだ。「でもさっきのは助かった。ありがとねアイセ」そう言われて大男は恥ずかしそうに笑んだ。
「だって、軍の反対押し切って匿った敵軍の女MEDICを、あんたが渾身で拘束しているのは見えましたから、これはと思って急いでいました。よかった、間に合って。怪我はありませんか」
セラギはメガネを指で押し上げた。女とは思えないくらい、しっかりとした力で逃げようとされた。一体あちら側はどうなっているんだろう。どう考えても旧世代の装備や治療しかできていない、その印象はそのままなのかもしれない。国はこちら側に加担している。どちらかといえば、あちら側が抑圧されているのはこちら側から見ても明白だった。時には力で抑え込み、傍若無人な振舞いをしている自軍の動きにも辟易していたところだ。
しかし、自分たちはこちら側なのだ。その末端の兵士に過ぎない。軍自体をどうにかできる力は、ほぼないに等しいのだ。無理を言って反対を押し切り、患者を匿うくらいのことをしたっていいだろう。てめえらで治療もできない脳筋どもが、何回治療してやっていると思ってる。何回も何回も同じように傷を作って、命を粗末にしやがって。
「セラギさん」
遠慮がちなアイセの声が苛立つ思考を止める。冷静を装ってその声に応える。
「この子は俺が見とくんで、セラギさん外の空気吸ってきたらどうです? つきっきりだったでしょう?」
熊のような大男は、丸椅子をきしきしと言わせながら、こちらを上目遣いで見た。意識的に明るい声を出しているように聞こえる。そういえばこいつには兄がいたらしい。弟としてこうやって甘えたり、気を遣ってみたりしていたんだろう。まるくなった大きな背中に手を乗せて「おう、たのむわ」と言い残し、テントの隙間から夜へ出た。
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