ルカの小説

 相も変わらず一面緑一色だった田んぼはいつの間にか黄金色に代わり、自転車に向かって吹いてくる風は午前中だというのに少し肌寒くなっていた。千秋は遠くに長い間旅行した経験なんてなかったから、いつもの風景が当たり前じゃなくなるのは不思議な感覚だ。ペダルを漕ぐとひゅう、と風が耳に当たり、よく耳を澄ませると鈴虫の鳴き声がかすかに聞こえてくる。


 この世界に戻ってきて、1週間が経とうとしていた。


 千秋はその間、何もしなかった。

 何もしなかった、というのは嘘になる。

 正確には、「もとの世界に戻るための何もしなかった」。

 では何をしていたのかというと、小説を書いていたのだ。ちょうど図書委員の仕事はなかったので、小説に専念することができた。


千秋が書いていたのは、ルカが主人公の小説である。

図書館から帰ってきたあと、しばらくはもとの世界に戻る方法を考えはした。おそらく図書館にいけば、何か起こるのもしれない。それにジョン大教授が言っていたように、世界がつながっている期限は3週間なのだ。まだ1週間あるから、手段はわからないにせよ、何らかの方法で再び戻ることはできるのかもしれない。


 でも。


 戻って何を出来るのだろう。戻って、あと1週間しかない時間をどうするのだろう。ルカにとって、今の千秋は足かせでしかない。ルカはみんな幸せになってほしいからこそ苦しんでいるのだ。

 そして、千秋がいなくなれば、少なくともルカにとっては気を回す対象が減る。自分がいない方が、ルカは自由になれるし、会っても再び迷惑になるだけだろう。ルカは誰も好きにならない、と言ってはいたが、ニールと話すうちにその考えは変わるかもしれない。その時に自分が戻ってきたって、ルカが再び悩みの日々に戻ってしまうだけだ。

 今までの経験から、小説で自分が書いたことは大なり小なり向こうの世界に影響があることはわかっている。

 もう一度会おうとするより、今はルカのためにも、二人が結ばれる小説を書くべきだろう。あまり詳しく書きすぎると迷惑だろうから、当たり障りのないように。



 小説はまだ全部は書き終わっていない。ルカの告白シーンを書くのが、あまり気乗りがしなかったのだ。

 そこで、完成前にはなるが朔に見てもらうことにした。朔は今までの一部始終を知らないし、客観的にアドバイスをくれると思ったからだ。ルカの告白シーンに連なる物語それ自体はほとんど書き終えているので、それなりに読めるものにはなっているはずだ。



 千秋は原稿用紙の束を鞄にいれて、朔との集合場所の学校へと向かっている。向こうの世界と大して変わらない、夏の暑さを払うような風の中で、田んぼの間の狭い道を久しぶりに地に足着けて走りながら、千秋は自分に言い聞かせる。


これでよかったんだ。


学校に行けば、きっと七瀬さんがいるだろう。今日は一緒の当番の日である。2週間いなかった間に、だいぶ七瀬さんとは話せる間柄になっていたらしく、昨日の夜七瀬さんから「明日はよろしくね!」とかわいらしいスタンプが送られてきていた。いなかった間に何があったのか、ルカの小説を詳しく読んでいなかったのでよくわからないが、おそらく千秋が見た一番最後の原稿にあった告白シーンが近いのだろう。もしかしたら今日かもしれない。でもなぜか、千秋はそれをあまり楽しみに感じなかった。


 これでよかったはずだ。


 ここまで書き上げた小説は、自分としてはそれなりにうまくかけたつもりだ。ルカの気持ちがわからないから、少し単調なキャラクターになってしまったのが少し残念だが、それはしょうがないだろう。

 結局、単純に人を好きになって、単純に物事を考えられるほうがいいのだ。

 小説でも、売れる本っていうのはえてして単純なキャラクターが多い。だからこそ売れるんだろう。朔も、きっと納得してくれる。



 風がびゅうっ、と強く吹いて、目にごみが入る。目をごしごしと強くこすると、視界が少しぼやけていた。

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