大教授の研究


 ユキはあわわわ、といったふうに急いでルカの腕をつかんだ。まって、まってと言ってるようだが声になっていない。一方のルカは水色のリボンをたなびかせ、まっすぐに部屋の先を見つめている。

 すると部屋からくくっ、と笑いをこらえる声が聞こえてきて、やがて大きな笑い声が部屋からこだました。その声は思いのほか若々しく、そして嘲笑などではない快活な笑い声だった。

 千秋もおそるおそる部屋に入ろうとすると、おもむろにルカが「何笑ってるの?!」などとむっとした声をだしたので、千秋とユキは必死にルカの口を抑えた。ユキが急いで頭を下げるので千秋もそれに倣ったが、先の笑い声の主は「いやいや、失礼」と声をかけてきて、それで千秋たちは手をはなしそちらを向いた。


 壁一面の窓に照らされた部屋は、サッカーコートほどはあろうかという巨大な部屋で、覆い尽くすほどの大量の本がそこらじゅうに散らかっている。    

 その部屋の中央の小さな机で、声の主はこちらを見ていた。

 その男は金髪でオールバック、黒のスーツに片眼鏡といういかにも紳士、のような出で立ちで、見たところまだかなり若い。大教授というからてっきりふっさふさの髭を蓄えたおじいさんかと思っていたが、まだ30歳前後だろう。千秋の目から見ても相当なイケメンで、自分の世界で朝ドラに出ていたイケメン俳優を千秋は思い出した。


「君たちがハンナさんの手紙に書いてあった子たちだね。ようこそ、ここまで来るの大変だったろ?」

 大教授はそう言って席を立つと、机の前のカーペットに転がっている本をどかして、椅子を持ってきてそこに置いた。

「ごめんな、散らかっていて。さ、ここに座ってくれ」

 気さくな人柄なのだろう、優しい、大きな声で笑いかけてきた。ユキもそれで緊張が解けたのか、「ありがとうございます!」と言って千秋に目配せしてきた。座ろう、ということなのだろう。千秋は足元に転がる本を踏まないように気を付けながら、すこしほこりをかぶった椅子に腰をかけた。


「エレベーター乗っただろ?塔の時計より上は結界がかかっていてね、あのエレベーターも実は魔法の結界を通っていたからあんなに時間がかかるんだよ。べつにあんなの必要ないと私は思うんだけどね。だってそんなことしてまで守らなければならないほど弱かったら大教授になれないだろ?全くバカな話だよ」

 大教授は千秋たちの近くに自ら持ってきた椅子に座り直して、上機嫌に話し始めた。大教授というくらいだから威厳のあるかんじかと思っていたのだが、見たところ近所の若いおじさん、っていう感じだ。

「ああ、自己紹介が遅れたね。私はアーサー・ジョン。一応ここで大教授をやっているんだが、この間なったばかりでまだ末席だからね。べつにそんなかしこまらなくていいよ。それで、君たちことも聞いておこうか」

 そう言ってジョン大教授はペンを取り出した。メモ癖があるのだろうか、紙、紙とつぶやきながら机の引き出しをごそごそしている。

「えと、私はユキって言います。ハンナおばあちゃんの孫です。いまこの学園で魔法の勉強をしています。で、この子がルカです。いまうちに居候していて、最近この学園に通っています。さっきは無礼を働きすみませんでした」

 ユキが丁寧に説明したあと、頭を下げた。ルカは、ジョン大教授がいい人だとわかったからだろう、素直に頭を下げた。

「さっきはごめんなさい」

「いやいや、逆に新鮮で面白かったよ。あんな風に入ってくる人は今までいなかったからね」

 そう言ってジョン大教授は高らかに笑った。

「それで、その隣の男の子が、ハンナさんの言っていた子だね」

 ジョン大教授が千秋のほうを向いて言った。

「は、はい。東条千秋といいます」

「大教授はおばあちゃんのこと、なんで知っているんですか?」

 急にルカが横やりを入れてきた。相変わらずの思い切りの良さである。

「ああ、ハンナさんには昔一度お世話になったことがあってね。それ以来の縁なんだ・・・。あぁ、そうか、ユキくんはまだ小さかったから覚えていなかったのか。どうりで他人行儀だと思ったよ」

「え?!私一度お会いしたことあるんですか?!」

 ユキが突拍子もない声を上げる。

「うん、もうかれこれ10年以上前になるかな。しばらく僕と・・・、それから昔の友人が、ハンナさん、君のおばあさんにお世話になっていたんだ。だから君にも何度か会ったことがあるよ。覚えていないかい?」

「そうだったんですね・・・。ごめんなさい、全然覚えてなくて・・・」

「いやいや、まだ幼かったからね。仕方がないさ。・・・あの人も、君の今の姿を見たらきっと喜ぶだろうな」

 大教授が懐かしむような口調で言う。そして大教授は思い出を胸にしまうようにかぶりを振ると、さて本題だ、と切り出した。

「僕に話が来ているっていうことは、君は異世界から来た人ってことだね?」

 急に核心を突かれ、千秋は思わず声が詰まる。

「ああ、すまんすまん。あんまりそういう人と会う機会は多くないからね、つい先走ってしまった。まず先に私のことを話さないとだね」


「私はね、まあわけあって時空間研究が専門なんだ。だから魔術系の教授じゃない。もともと研究者が少ない分野だからね。だからこんな若くても大教授になっているんだ。時空間っていっても千秋くんの世界より研究が進んでいるかはわからないけれど、この世界では時空間研究と言えば、並行世界の研究が中心なんだ」

「並行世界?」

 千秋は聞いたが、千秋自身その存在を知らないわけではなかった。小説のテーマとしても時折出てくる話題で、千秋はあまり詳しくは知らないけれど、自分の世界とは違う、しかし似た世界がいくつもほかにあるという話だった気がする。


「並行世界は、ある世界はただ一つしか存在しないわけではなく、『あり得た様々な可能性』に従って分岐している、という考え方だね。例えば・・・、千秋くん、君の世界では魔法は存在するかい?」

「いえ、少なくとも僕たちは使えないです」

 そんな人がいたらとっくにニュースになっている。昔ならいざ知らず、いまやそんな人は即ツイッターに流されて拡散されるだろう。

「そうだろうね、魔法を使える世界っていうのはそんなに多くない。でもそれは全体から見れば、というだけで、魔法が存在する世界はいくらでもある。そういう風に、在り得た可能性っていうのは無限にひろがっている。そのそれぞれが、長い時の中でそれぞれの世界としての形を作っていくんだ。私たちの世界の研究では、そのそれぞれの世界がどのくらいあって、どういった仕組みになっているのかということをある程度細かくわかるところまで来た。まあこの世界が恵まれていたんだろうね。色々条件が揃っているから。僕はその研究を受け継いで、その次のステップに進みたいと思っている」

「次のステップ・・・、つまり、並行世界の仕組みを理解する以上のこと、っていうことですよね」

 ユキが神妙な面持ちで問い、ジョン大教授は大きく頷いた。ユキは地頭が良いのだろう、話の内容にちゃんとついていっている。一方のルカはすでに目をぐるぐる回している。早くも混乱しているようだ。


「その次のステップというのが、千秋くん、君に関係することなんだ」

 ふいに呼ばれて、千秋は

「へっ?」

 と変な声を出してしまった。

「君は並行世界から来た、とここでは仮定しよう。まあもっとも、ハンナさんの目が間違うことはまずないだろうから、ほぼそうなんだろうけどね。その仮定自体をここで立証することは、この世界の技術では可能だ。魔法以外にもこの世界には色々な、それこそ君の世界ではあり得ないことが出来るし、現に存在するからね。ただ、仮定が立証出来たところで、それを『実際にやる』っていうのは本当に難しいんだ。言ってること、わかるかな?」

「ええーと・・・、よく、わからないです」

 急に難しくなって、千秋は頭がついてこなくなってきていた。すると、神妙な顔で聞いていたユキが口を開いた。

「つまり、いまの研究では、千秋くんが来た世界があるってことはわかるけど、千秋くんがどうやってここに来たのかっていうことまではわからないってことですか?」

 千秋とルカは左端に座るユキを同時に見た。


「素晴らしい理解力だね。その通りだよ。なぜ千秋くんはこの世界に来たのか、どうやってこの世界に来たのか。そのことが今のこの世界の技術と知識ではわからない。だから、これから先に話すことは現時点での僕の仮説だ。そう思ってこれから話をしてほしい」

 なんだか話が大きくなってきた。仮にもユキが緊張でしゃべれなくなるくらいの偉い教授が、今からかなり腹を割った話をする、と言っているのだ。

「でも、そんなこと私たちに話していいの?」

 さっきまでぽーっとしていたルカが急に言った。どうやらユキの言うことはちゃんと理解できるらしい。本当にこうしてみるとルカはよっぽどユキを信頼しているんだなと千秋は思う。

「まあ、ここまでちゃんと話さないと信頼してもらえないだろうしね。それにこれから千秋くんに色々聞こうとしているんだから、それくらいは礼儀だよ」

 自分の権威を借りずにちゃんと礼儀を尽くしているあたりに、このアーサー・ジョンという男の真摯さが現れている。


「さ、これで時空間研究の現状はなんとなくわかったかな。じゃあ、これから今の状況を整理しようか」

 ジョン大教授は新しい紙を取り出し、千秋とルカが昨日ユキの家で考えたことを書いていった。ジョン教授は時に頷き、時に本当に驚いた様子でものすごいスピードでペンを走らせた。

「・・・つまり、ルカ君が、千秋君が主人公の小説を、そして千秋くんは、ルカ君が主人公の小説を書いているんだね。そして千秋くんは、君の世界で見た小説の内容が、こっちの世界に反映されているものをいくつか見つけた、と。ユキ君のおじさんの海軍の話を書いているのが、こっちの世界で小説になっている小石川、晴彦か。その人が典型的な例だね。・・・ふむ、いよいよ興味深いな」

 あっという間にルカと千秋の拙い説明をまとめてしまった。さすがの腕前である。

「こういうことってあるんでしょうか?たまにおばあちゃんが泊めてあげてる人たちでも、千秋くんみたいな小説がつながっている・・・みたいなケースってあんまり聞いたことないです」

 ユキが首をかしげて言った。

「うーん、そうだね、じゃあここで一回、私の意見を話すよ」

 そう言ってジョン大教授は顔をあげた。


「私が現時点でほぼ確信を持って言えるのは、さっき話した並行世界というのは完全にそれぞれが分離しているわけではなくて、何らかのつながりがある、っていうことだ。今までも何人か、違う世界から来たっていう人を見てきたけれど、そういう人たちもどこかで見たことのある景色があると言っていた。だから、どこか、何かでつながっているんだと私は考えている。問題はそのつながり方で、何をもってそれぞれの世界が関連しあっているのか、どうして無作為に世界を移動する者が現れるのか」

 ジョン大教授は息継ぎもせずいっぺんに話して、近くに置いていたコーヒーらしきものをがばっと飲んだ。ルカは再び混乱したのか空の一点をひたすらみつめ、ユキは「うーん・・・?」と唸っている。

「えと、つまり、・・・?」

 千秋はジョン大教授がコーヒーを飲みほしたのを見計らって聞いた。


「ああ、ごめんごめん、それでね、私の仮説というのは、その世界がつながる時に、『人の想像力』が関係しているんじゃないか、ってことなんだ」


「「想像力?」」

 千秋はルカとともに思わず問い返す。ここまでかなり納得できる内容ではあったが、ここに来て急に胡散臭くなった気がする。するとジョン大教授は千秋を見て言った。

「千秋くん、君はこの世界に飛んでくる前に何か変わったことはなかったか?」

「変わったこと・・・あ」

 そうだ。たしか・・・。

「ここに来る前、というか、目の前にルカが来る前に、すごい頭痛に襲われて・・・」

「えっ」

 ルカが声をあげた。

「わたしも、千秋が目の前に来る前にすごい頭痛がしたんだけど」

「やっぱりか」

 ジョン大教授はつぶやいた。

「どういうことですか?」

 ユキが尋ねると、ジョン大教授はごほん、と咳払いをして言った。

「違う世界から飛んできた、と言う人に必ず共通することが2つある。1つは、来る直前にひどい頭痛に襲われた、ということ。そしてもう1つは、自分の作った小説の景色と一緒だ、と口をそろえて言う、ということだ。今のところの千秋くんの話は、大方この話と一致する」

 そこまでジョン大教授が言うと、ふいにルカが声をあげた。

「ねえ、その、よくわからないけど、そもそもなんで違う世界から飛んでくる、なんてことがあるの?わたしはそもそもそれが信じられないんだけど」

 ルカはリボンを手で弄びながら言った。


 ルカの疑問は的を射ている。話が異世界間の移動なんて宙に浮いたような話なのに、その上『人の想像力』なんて言われても、ファンタジーにしか聞こえない。

「確かに、それを飛ばして話をしていたね。まあ話せば色々と長くなるから、たとえ話をしようか。ルカ君、花を見たことはあるかい?」

「あるわよそれくらい」

 むっとしてルカが言った。

「はは、すまない、バカにしてるわけじゃないんだ。花は、地上で見たら一つに見える。でも、地面にはいくつもの根っこが別れているだろ?そのそれぞれの根っこが、さっきから話しているそれぞれの並行世界だと思ってくれ」

 ジョン大教授は、「これは仮説だが」と念を押して続ける。

「そうすると、遠くに伸びる根っこもあれば、すごい近くで伸びる根っこもあるだろ?同じように、並行世界でも似ていたり、もともとくっ付いていたはずのものもあるんだ。そして時々重なったりすることもある。並行世界も、そんな感じで重なるときがある。そういう時に、ごくまれに違う世界に迷い込んでしまう人がいるんだ。こういうことはべつに珍しいことじゃないし、そういう人が歴史を変えたりもしている」

 そんなありふれた出来事だったのか。千秋は自分の常識が崩れていく気がして、なんだか不思議な気持ちになった。

「なるほどね、じゃあ千秋はたまたま重なった時にこっちに迷い込んじゃったわけね」

 ルカは納得したようにつぶやいた。

 しかし、ジョン大教授は首を振る。

「おそらく、千秋君がこっちに来たのは『たまたま』ではない」

「どういうことでしょうか?」

 ユキが不思議そうに問う。

「さっき、根っこと花の話をしたね。根っこには必ず花がある。集約するものがある。その花に当たる部分が、それぞれの世界の生き物の「想像力」だと、私は考えている。そもそも並行世界っていうのは、『こうかもしれない、ああなるかもしれない』っていう人々の仮想が現実になっているってことだからね」

 小難しいが、なんとなく千秋には理解出来てきた。

「つまり、その花の例で言えば、僕の世界で想像されたことが、花に集約されて、他の枝であるこっちの世界に流れ込んで現実になっている、ってことでしょうか」

「そうなるね。だからこっちの世界に来たら、千秋君は、千秋君の世界の想像力で書かれた小説の世界にいる、という感覚になると思う。私の仮説が正しければ、だけどね。そして、異世界間のつながりが想像力である以上、異世界間が重なったときに起きる現象も想像力が関わっている可能性が高い」

 確かに、現状異世界に物理的に行く方法が見つかっていない以上、根っこの部分でつないでいる想像力が原因なのではと考えるのが普通だ。

「じゃあ、千秋くんは何か想像力に関係することがあって、こっちの世界に移動する人に選ばれた、みたいな解釈でしょうか」

 ユキがいくぶん納得した顔で言う。

「そうだね、その方が今までの例を踏まえても納得がいくだろう」

 仕組みはなんとなくわかった。

 でも千秋には、まだわからないところもある。

「でも、たまに違う部分があるんです。例えばルカもユキも僕の小説に書きましたけど、おばあさんのことは何も書いてないんです。それにおじさんのことも。ここに来た時も全く知らない生き物とかいたし」

 千秋は最初の図書館の前のバザーで見た人間とエルフやらなんやらがごちゃまぜになっている景色を思い出した。すると、ジョン大教授は笑って言った。

「それはそうだろう。君たちの世界だって、いくつもの歴史が折り重なって君の生きている世界があるだろう。それと同じで、こっちの世界にも時代があって、様々な出来事が折り重なっている。例えばこの魔法だって、さっきの話に従えば、千秋君の世界の小説家が書いたものの一つだろう。でも長い年月をかけてそれはこの世界に広まった。そういった風に、小説のそれぞれがこの世界ではお互い作用し合って存在しているんだよ」

 つまり、この世界は自分の世界にある膨大な小説のそれぞれが、1つの世界にまとまっているってことなのだろうか。そう思うと確かに、今までのごちゃまぜな世界にも納得はいく。

 あり得ないということが起こっているという現実を前にすれば、ジョン大教授の説明も筋が通っていると言えなくもない。


 ユキと千秋が悶々と考え込むなか、ひとり、ルカだけが声を上げた。


「それで」

 ルカが唐突に切り出す。


「その世界がくっつくっていうのは、いつかは離れることがあるの?」

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