図書館の小説家
田舎の夕方というのは、昼の時間帯に比べて人が多い。理由は近所にコンビニとかがないために、夕飯の買い出しでおばちゃんたちがこぞって小さな零細商店の集まるちっこい商店街に出向くからだ。そのうえ夕暮れになるとコオロギやキリギリスたちが活発に活動をはじめ、おまけにここぞとばかりにセミが鳴き始めるから、特に騒がしい。
千秋は学校を出て、一人田んぼの間の一本道をカゴをかたかた鳴らしながら走っていた。
時間はもう17時を過ぎていた。本をたくさん運んだせいか、自転車をこぐのが少し億劫に感じられた。いくら夏だといっても、17時を過ぎるとだんだん日が傾き始める。オレンジ色の夕日が田んぼの水面に照らされてきらきらと光り、それに呼応するかのように緑色の稲穂はさらさらと首を揺らしている。
田んぼに挟まれた一本道を抜けると、コンクリートで舗装された国道にぶつかる。千秋は田んぼを抜けた自転車の勢いを緩めて、国道沿いに自転車を走らせた。国道は坂になっていて、正直上るのが相当しんどい。なんとか踏ん張って坂を上りきると分かれ道があり、千秋はハンドルを切ってさらに丘のほうに向かって自転車を進めた。
このころになると、丘に茂っている木々にうっすらと影をかける、大きな建物が見えてくる。
この田舎の村には、その田舎っぷりと人口規模には似合わない巨大な図書館が存在する。
戦後復興の一環として設けられたとか、大学の立地計画の跡地に作っただとか、この村からでた有名政治家が高度経済成長の時代に地元に誘致しただとか、まことしやかな噂がたてられているが、実情は定かではない。ただ確かなことは、この丘と丘の間に挟まれた窪みの土地に建てられた図書館は、蔵書数、建物の規模ともに日本でもトップクラスの建物であるということ、そしてこの地域の人たちが、寄付金を集めて存続させているほど大切にしている、ということだ。
広場の噴水の近くにある自転車置き場に自転車を停め、千秋は図書館の入り口に歩いていった。
この図書館は世にも珍しいレンガ造りの建物で、おまけに入口の扉はこれから戦いに行く戦士の詰め所であると言わんばかりの鉄の扉である。高さ2m、本物の鉄で出来ているその扉には不思議な文様が描かれている。こういう夕暮れ時に見るとちょっと怖いのだが、ここしか入口がないのだからしょうがない。
「うんっ・・・」
公共施設にしてはあまりに重すぎる鉄扉をなんとか開けると、赤いカーペットが十字に敷かれ、天井にはステンドグラスを張った広間に出る。決して教会に来たわけじゃなく、ここはれっきとした図書館である。両側面にはアーチがあり、そこから先は図書スペースである。
正面には小さな露店ほどの受付があり、そこでは一人の女性がパソコンに向かって何かカタカタと打っている。黒髪を後ろで結い、眼鏡をかけているその女性は、司書さん特有の緑色のエプロンをしながら本を右から左に動かしたりカゴに乗せたりぱたぱたと本の整理に勤しんでいる。
「佐倉さん、すみません遅くなっちゃって、本、返しに来ました」
声をかけると、その女性は振り返って微笑みながら、優しい声音で、
「あら、千秋くん、今日は遅かったわね。何かあったの?」
と聞いてきた。
この女性は、佐倉春香、という。その名前を記したネームプレートに書かれたきれいな文字が示しているがごとく、知的で大人な雰囲気をまとったこの図書館の司書さんである。
都内の超有名国立大学を卒業した経歴を持ちながら、ずっとこの図書館で働いているのだそうだ。歳は20代後半。以前朔と一緒に来た時に、人にあまり遠慮しない朔がちゃっかり聞いたらしい。その美貌と、深窓の令嬢がごとき物腰の柔らかさが評判を呼び、彼女目当てに図書館に来る人も少なくないのだそうだ。
千秋は、中学生のころから毎週のように図書館に来て本を書いたり勉強したりしていた。単純に学校の図書館が小さすぎたためだったが、いつの間にか顔を覚えられていたらしい。
「千秋君っていつもここに来るわね、本好きなんだね」
と本の貸出の際に話しかけられて以来、貸出返却の際にたまに話すようになった。
昔は中学生ながらに「憧れのお姉さん」みたいな印象を持っていたけど、ある日一緒に来た朔が(こいつ問題起こしてばっかりだな)
「佐倉さんって、好きな人とかいないんですか?」
と不躾に聞いたら、佐倉さんはいつもの大人な雰囲気はどこへやら、
「え・・・えと・・・・・・、好きな人は・・・いる、・・・のだけど・・・・・・」
と言って、寂しげな、でもほんのり赤らめた顔で言葉を濁しているのを見て、なんだか姉に恋人が出来てしまったような、そんな寂しい気分になってしまったことがある。
とは言うものの、今は特定の相手はいないのか、今はほぼ毎日この図書館にいて本の整理や点検をしている。
「いや、この間話した図書館の本の整理をしてきたんです。でも全然終わらないですよ、あれ。正直夏休み中に終わるかどうか」
「あら、そんなこと言ったら私なんてこの図書館全部整理しなきゃいけないのよ?それに比べたら全然楽じゃない」
「そりゃあそうですけど・・・」
千秋がそう言うと、佐倉さんは弟のケーキをこっそり食べたようないたずら顔をしてころころと笑った。こういう落ち着きの中に見せるいたずらっぽい笑みに、世の男たちは虜にされているのだろう。
「それより」
佐倉さんは突然、ずい、と顔を近くによせて聞いてきた。
「千秋君?小説の期限夏休み明けって約束、忘れてないわよね?」
目を細めてちょっと疑うような目つきで、じいーっと見つめられる。いくら姉のように思っていたって、こんな近くで見つめられたら嫌が応にもどきどきしてしまう。
「わ、忘れてないです」
思わず目をそらしてしまった。
「あ、もしかしてまだ全然進んでないでしょ?私はもうほとんど書き終わっているんだからね?」
「あっ明日朔と2人で作戦会議しますんで!ちゃんと夏休み中には終わらせます!!」
「ふーん・・・?」
「ホントです!」
しばらく佐倉さんはじとーっと見つめてきたが、「ま、千秋くんならなんだかんだで終わらせてきそうだからいいわ」と言ってくすくす笑い出した。じゃあ最初から聞いてこなくていいのに。
「それで、今日はこのまま帰るの?一応18時まで開いているけれど」
いじりつかれたのか、佐倉さんはぺたん、と椅子に座ると、さっき手渡した本を機械にあてている。
「はい、続きを書こうと思って。朔と明日話す前に一応ちょっとでも進めなきゃいけないし」
「そう。じゃあ館内放送流したらちゃんと帰るのよ?」
「はーい」
千秋は鞄を持ち直し、図書スペースに向かう。
「あ、佐倉さん」
佐倉さんに聞こうと思っていたことを忘れていた。思わず呼びかけると、佐倉さんは律儀に持ち上げた本をよろよろと下ろして、もう一度千秋のほうを向き直った。
「うん?どうしたの?」
「あの、なんかすごい一度見たことあるなー、みたいな、そんなかんじになるのってなんていうんでしたっけ?」
自分でもうまく言葉にできないが、学校の図書館でふいに襲われた感覚、あれほどじゃないけど、「なんか見たことある」っていう経験は何度かある。その名前を前にテレビかなんかで聞いた気がしたのだが、千秋は思い出せずにいた。
「それ、『デジャヴ』じゃない?景色とか見て『あれ?一度見たことあるなあ」ってなるやつでしょ?既視感ってやつ」
「あ、そうそう、それです」
そういえばそんな名前だった。
「あれってなんか原因とかあるんですかね?」
図書館でのあの感覚は、既視感というとなんとなく合ってる気がする。本好きで色々知ってる佐倉さんなら何か知っているかもしれない。
「うーん、今のところはっきりしたことはわからないらしいわよ?小説とかだとけっこう出てくるんだけどね。右目と左目の知覚速度の差、みたいな夢のない話もあるけど、前世の記憶とか、集合的無意識が原因みたいな説も大真面目に出されたりしてるわ」
「集合的無意識?」
「うん、簡単に言うと・・・そうね、たとえば植物の花って地上では一つしか見えないけど、その地中で支えている根っこはたくさんに分かれているでしょ?それと同じで、人の記憶ももともとデータベースに記憶されていて、それを引き出している、みたいな感じかな」
「へえ~、ホントにそんなことあるんですか?」
かなりファンタジーっぽい話だ。
「まあ存在自体確かめようもないからわからないけどね。でも、もしその記憶の箱が私たちだけじゃなくて、動物とか、もっと言えば宇宙人とか未来人とか、いろんなものとつながっているかもしれないなんて話を聞くと、ちょっと気になっちゃうわよね」
確かに。自分の意識が色んなものとつながっているっていうのは、怖いけど何かロマンがある。小説家がこぞって使いたがるのもなんとなくわかる気がした。
「それにしても佐倉さん、物知りですね、そんなことまで知ってるなんて」
「あ、いやいや、昔色々と調べていたことがあって・・・別にそんな物知りじゃないわよ」
こうやって自分の知識をひけらかさないところがこの人のいいところだな、と千秋は関心しながら、にこにこ笑う佐倉さんを見ていた。
「それにしてもどうして急にデジャヴのことなんて聞いてきたの?」
「あーいや、今度小説の題材にでも使おうかなって思って。そろそろネタ切れしてきたので」
「そっか。それじゃまた何か知りたいことあったら聞きにおいで」
「ありがとうございます、それじゃ」
「はーい」
そう言って、千秋は今度こそ受付の横のアーチをくぐった。
図書スペースは、受付の両側のアーチをくぐった先にある。この大図書館は普通の図書館とは違い、フロアで分かれているわけではない。螺旋状に張り巡らせた木の梁で天井を支え、本は2mはあろうかと思われる巨大な棚に収納されている。左右のアーチは受付の壁の裏側でつながっており、左右の両側の本棚は全部で500にもおよぶ。利用者は本棚の上のほうの本を取るのが大変なのが難点だが、それだけたくさんの本が収納されているという証拠でもある。
千秋は右側のアーチをくぐり、赤いカーペットに沿って本棚の脇を歩いた。本棚の間には階段があり、左にカーブしていく階段を登っていく。さすが蔵書数が某有名大学を抜いたと村の広報ポスターが喧伝しているだけある。その前にスーパーを立てるとか色々あるんじゃないかとか思うけれど、千秋自身その恩恵に授かっているのだから言いっこなしである。
カーペットの上をしばらく歩くと、ようやく小さな広間に出る。ここはちょうど入口の受付を見下ろす位置にある。つまり、この図書館は同心円状に本棚を配置して、受付のある1階と読書スペースのある2階で構成されているのだ。
千秋は読書スペースにある机の一つに鞄を置いた。この机はレトロを意識しているのか、濃いブラウンに塗られた細いアンティーク調の長机である。この図書館そのものが中世風な内装だからこれを選んだのかもしれないが、あまり利用者が使っていないので所々ホコリがついている。
この時間帯に図書館にいるのは地元の人間でもそう多くない。とりわけ夏休みでお盆前ということもあって、このスペースには千秋一人しかいなかった。
(今日は一人か)
このスペースは図書館全体を照らす光を取り入れる窓がすぐ近くにあることもあって、ステンドグラスの光を通して何色かの光が差し込んでくる。
佐倉さんと話しているうちにいつの間にか結構時間が経ってしまっていたのだろう、外は日が落ち始めて、すっかり夕暮れにさしかかっていた。
(まあ1時間くらいだったらちょっとは進むかな)
千秋は隣の机に置いた鞄を開くと、その中から原稿用紙とノートを取り出した。
東条千秋は、小説家である。
と言っても、小説で食べているわけでもなく、それどころかデビューさえしていないので、正式には「小説家になりたい人」である。
千秋は昔から小説が好きだった。
小説を書き始めたのは中学1年生の時、学校の読書感想文で地区の優秀賞を受賞したことがきっかけだった。それ自体は小説ではなく単なる本の感想文だったが、学校の先生や周りの友人にほめられたことがきっかけで、物語を読むだけでなく書くことにも興味を持つようになった。初めに書いた小説は今はもう内容は覚えていないが、確か魔法使いが恐竜を倒すような話だった気がする。
千秋は、誰にも見つからないようにこっそり小説を書くようになった。だが中学2年生のある日、遊びに来ていた朔がたまたま机にしまっていた小説を見つけてしまった。千秋はばかにされると思って半泣き状態だったが、朔は
「これ千秋が書いたのか?すげーな!」
と言ってほめてくれた。千秋が朔を今でも親友だと思っているのは、この経験によるところが大きい。
高校生になってからも、朔にたまに見てもらいながら執筆活動を続けていた。そんなある日、朔と一緒に図書館に来た千秋は、2階の読書スペースで一心不乱に手を動かしている佐倉さんを見かけた。なにやってるんだろ、と思った千秋は、何の気なしに佐倉さんの手元をのぞき込んでしまった。すると、佐倉さんは一瞬はっとしたような表情でこっちをその大きな目で振り向き、
「なんだ・・・千秋くんか・・・・・・、どうしたの?」
と、なぜか落ち込んだ様子で早口で聞いてきた。
「あ・・・、えと、ごめんなさい・・・・・・」
まだそれほど佐倉さんと仲良くなかった千秋は予想外の反応に動転してしまった。すると後ろにいた朔が
「あれ?佐倉さんも小説書いてるんですか?」
と聞いた。千秋は「も」なんて言ったら自分が小説書いていることがばれるのではないかと思い動揺したが、佐倉さんは
「ふふっ、そうなの。お休みの時間に書いてるんだ。これ他の人に言っちゃだめよ?」
とさっきまでの動揺はうそのように花のような笑顔で微笑んだ。
千秋は、そんな佐倉さんをうらやましいと感じずにはいられなかった。自分は朔以外には小説を書いていることも言えていない。それなのに、この人はなんて嬉しそうに小説を書くんだろう・・・。
すると、それを察したのか朔は唐突に言いだした。
「佐倉さん、実は千秋も小説書いてるんですよ。一緒に書いてあげてくれませんか?」
「わっ、朔!お前なに言って・・・」
「ええっ!千秋くん小説書いてるの?!」
真っ先に食いついたのは佐倉さんだった。
それ以来、高校2年生の今に至るまで、千秋は朔に小説を見てもらいながら、定期的に佐倉さんと小説の交換をしているのである。
今度の佐倉さんとの小説の交換日は、夏休み最終日の8月29日。今日が8月の1日だから、実質あと3週間しかない。正直それまでに書き終わるか微妙なので、そろそろ本格的に書かなければならない時期なのだ。
千秋はノートを開いて、今回の小説の構想を記したページを開き、その横に途中まで書いておいた原稿用紙数枚を置いた。
(どこまで書いたっけ・・・、てか字汚いな、あとで清書しなきゃ)
千秋は昨日までに書いた原稿用紙を並べて、その下の方の原稿を見直した。
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