第2話 (ベタな)出会い

 茹だる様な暑さに耐えた夏休みが終わり、未だに人類を苦しめている残暑と戦いつつ迎えた今日という何も無い日の放課後に、担任に呼び出されるとは一体全体どういった了見だ。と睨みを利かせてみても、数枚の紙束に目を通したまま溜め息を吐いた担任に凄む視線は届いていない。


「……で、どうして呼び出されたのかわかっているか? 葛城」


「いえ、まったく。あれですかね。俺の書いた感動的な文章のおかげですかね?」


「そういう場合は『おかげ』じゃなくて『せい』だ。それに何より、原因を自覚しているじゃないか。念のため確認しておくが、私がなんの教科担当かはわかっているよな?」


 パンツスーツを着た若い御仁は変なことを言う。


「それはまぁ、現代文の先生ですよね。一年生の時もクラス担任だったのに忘れるわけないじゃないですか? え、八重桜先生。若いのに記憶力のほうがちょっとアレですか? だとしたら大分ショックですけど」


 言うや否や、項垂れながら長い黒髪をさらりと揺らせた八重桜先生は、眉間を押さえながら、まるで怒りを吐き出すように溜め息を吐いていた。あれ、何か気に障ることでも言ったか? 一応、事実しか言っていないんだけど。


「そうだな、一年生の時からお前は問題児だった」


 おっと、それは教師として問題発言なんじゃないか。


「まぁ、いい。とりあえずは本題に戻ろう。この文章――これは私の出した夏休みの現代文の宿題、ってことでいいんだよな?」


「当然です」


「なら、私が出した宿題とはなんだった?」


「え~っと『個人が考える現代社会についての考察。追、問題があればその解決法まで書くこと』じゃなかったでしたっけ?」


「そう。その通りだ。それをわかっていながら……お前はどうしてこんな文章が書けるんだ? 誰が世界に宣戦布告をしろと言った! 現代の社会について考察しろって言ってるのに、世界の否定から入ったら何かがどうにもならんだろ!」


「……あ~」


 つまり、先生は自己陶酔の中の自己完結を文章にしろと言っていたのか。とはいえ、だとしても俺の回答は変わらなかったと思うが。


「でも、空白の白紙で出すよりはマシだったんじゃないですか?」


 そう問い掛けた瞬間に、先生は長い髪をバサリとたくし上げて、面倒そうに頭をガリガリと掻いていた。


「いや、これならむしろ書かないほうが良かっただろう。こうして文章でお前の不安定さを見せつけられた後では、こちらも対策を考えなければならなくなった」


 面倒くさそうに言う先生だが、むしろ面倒なのはこちらのほうだ。


 たかが夏休みの課題で、まさか職員室に呼び出されて、晒し者にされながら先生に溜め息を吐かせる生徒――と、今の俺を周りから見ればそんな感じか。道理で、他の先生の視線が痛いと思った。


「それで、どうするんですか? 書き直すんなら書き直しますし、もしくは校内清掃とかでも」


「葛城、お前友達は居るか?」


「……質問の意図がわかりませんね。まず友達の定義を教えてください。挨拶する程度なのか、休日に遊びに行く程度なのか、それとも――」


「いや、もういい。だいたいわかった。友達はいないんだな」


 失敬な話だ。毎日、挨拶を交わすクラスメイトくらい俺にも……いや、いないな。思い返せば誰も居ない。敢えて意識したことも無かったから当たり前といえば当たり前だが、だからってどうということも無い。


「まぁ、じゃあ俺に友達がいないとしましょう。それが問題ですか?」


「問題……ああ、大問題だよ、華の高校二年生。部活もやっていない。彼女もいない。どころか友達すらいない。いや、こんな文章を書く奴だ。むしろ納得もできるが……それにしたって、もう少しくらい馴染むことはできないのか?」


「馴染む馴染まないで語るのなら、誰の邪魔もしていない、嫌われてもいない、虐められてもいない俺は、むしろ馴染んでいると言えるのでは?」


「それは空気に馴染んでいると言いたいのか? まったくお前は……」


 諦めたように溜め息を吐く八重桜先生だが、溜め息を吐きたいのはこちらのほうだ。


 部活に入っていないのは別にいいだろう。高校の部活動参加は自由なんだから自由にさせてくれ。それに彼女がいないのはほっとけ。十七歳男子の平均的な性欲は持ち合わせていると思うが、それらを差し引いても女との駆け引きなんかに興味はない。友達は――そんなもん、一も二も無く必要ない。


「よし、ならお前に紹介したい奴がいる。ちょっと付いて来い」


 言うや否や立ち上がって職員室を出ていく先生の背中を見送るが、こちらを振り返る様子はない。このまま黙って帰ることも可能だろうが、それをすると後々が怖いからな……。面倒事は先に潰しておいたほうがいい。


「先生。先に言っておきますけど、その紹介したい奴と友達になれ、とか言うんなら無理ですからね」


「そんなことはわかっている。人に言われて友達を作れているのなら、お前が今もこうして一人でいるはずはない。私がするのはあくまでも紹介だ。その後、どうするのかは勝手にすればいい」


 ならば結末は決まっているようなものだ。となれば、わざわざこんな茶番に付き合うのもやはり面倒なので帰ることを提案したいところだが……八重桜先生の人殺しのように鋭い眼が怖いので、口を噤んでおくことにしよう。


 ここで、今更ながらうちの学校――水槽学園の説明をしておこう。


 都内にある有数の進学校、とかではなく。偏差値でいえば少し良いくらいの普通の学園である。名は体を表すかの如く四つの繋がった校舎が水槽のような長方形の四角を描いていること以外に、強いて特徴を上げるとすれば部活動の豊富さだろう。部の他に同好会、愛好会まで含めれば凡そ百以上のクラブがある。仮に部員が一人だけでも活動内容さえしっかりとしていればクラブとして認められる規定に問題があると言えるな。


 詰まる所、そんな中でも部に所属していない俺のような存在は意外と稀有だったりする。


 だからといって部への所属の有無が、友達云々とは関係ないと思うのだが。


「さ、着いたぞ」


 先生が立ち止まったのは校舎の入り口である下駄箱をスタート地点として考えるのならば、最も対極に位置する角の教室だった。ちなみに下駄箱のある長辺は生徒棟で、短辺はどちらも特別教科棟(美術室や音楽室、物理室など)で、残った長辺が部活棟である。


「ここは……第三化学室?」


 早速、先程の説明を覆さなければならないらしい。ここは部活動をする部室が並ぶ部活棟であり、化学室ならば特別教科棟に無ければおかしい。何よりも、化学室は第二までのはずだ。


「疑問は後にして、一先ずは紹介する。入るぞ」


 中の返答を待つことなくドアを開けた先生が中に這入ったのに続くと、そこには一目でわかるほどの薬品の瓶が並んだ奥で一人、白衣を着て赤黒い液体の入った試験管を振る少女が居た。


 いや――美少女が、居た。


 そして、こちらに鋭い視線を送ってきたかと思えば盛大に溜め息を吐いた。


「澪ちゃん、何度も言っているけれど、いきなりドアを開けるのは止めてもらえるかしら。それが無理なら一声かけて、返事を待ってから入ってきて」


「いや、ごめんごめん。つい癖でね」


 随分と親し気に話す二人だが、以前からの知り合いか何かか? いや、しかし――


「っ……!」


 考えていると、刺すような視線に射抜かれて驚いたときのウサギのように体を震わせてしまった。


「それで、彼は?」


「ああ、これが前に話した問題児の葛城春日かつらぎかすが。葛城、こっちは九条茉莉花くじょうまりか。お前と同じ二年だ」


 知っている。むしろ、同じ学年で知らない者はいないだろう。


 理系の申し子・九条茉莉花――学園に入って以来、数学を筆頭に物理学、化学など理系のテストでは全て満点を取っているという天才。その上、すれ違えば目を奪われるほどの美貌を持つ、黒髪ロングのお嬢様。男子からの人気は当然として、女子からも羨望と嫉妬の眼差しを受けるちょっとした有名人だ。


 とはいえ――


「あら、それが例の。一応、自己紹介をしておくわね。私は九条茉莉花。初めまして、クズくん」


「おい、かつらぎって聞いて勝手に葛のほうを思い浮かべてんじゃねぇよ。木ヘンの桂木かもしれないだろうが」


「いえ、別に苗字から言ったのではなく、あんな文章を書くような人はクズなのだろうなと思ったからなのだけれど」


 ――とはいえ。きつめな性格と言葉遣いのせいで人を寄り付かせない孤高の女帝と呼ばれている。まぁ、俺から言わせれば孤独な変人だが。


「というか、先生。あれを読ませたんですか? 個人の宿題を特定の人物に見せるのは問題だと思いますけど」


「ん? 確かに問題かもしれないが……お前は気にするのか?」


「いえ、別に。人に見られて恥ずかしい文章を書いたつもりは無いので」


「なら構わないな。それにお前はクズのほうの葛城だろう? 否定しないってことは、それなりに自覚があるってことだ。じゃあ、あとは若い二人に任せて私は職員室に戻るとするよ」


 この先生、本当に全部投げっぱなしで帰るつもりだ。


「それじゃあ、俺も――」


 後を追って化学室から出ようとすれば、体を半回転させた先生にわかりやすく通せんぼをされて足を止めた。


「え~っと、紹介された後のことは勝手にしろ、と言ったのは先生ですよね?」


「ああ、そう言った。だが、言葉足らずだったな。それは謝罪しよう。明日以降は、好きにしていい。だが、今日一日は茉莉花に付き合え」


 いや、もはや命令になっているじゃねぇか。どうせ、これにも拒否権は無いんだろう。


「……はぁ、わかりました。今日一日、だけですよ」


「それでいい。じゃあ、あとのことは任せた」


 景気よく腕を振り上げた先生は良い笑顔を見せて去っていった。


「嵐のような人ってのは、ああいうことなんだろうな。いや、ここは桜吹雪と言うべきか?」


 八重桜だけに。


 などと考えていると、背後から溜め息を吐く声が聞こえてきた。


「はぁ……あの作文を読んだ時から思っていたけれど、どうやらあなたは随分と言葉遊びが好きなようね。よくもまぁ、どうしてそんなにもくだらない連想が出来るのかしら」


「頭の回転が速い、と言ってもらおうか。それにくだらなくも無いぞ。言葉ってのは武器になる。語彙が豊富じゃないと、人の揚げ足も取れないからな」


「あら、とんだクズだこと」


「まぁな。自覚はしているよ。……それで、九条。お前は何をやっているんだ?」


「……この姿を見てわからないのなら、眼科に行くことをお勧めするわ」


 化学室で白衣を着て試験管を振っている――なら、実験だろう。


 今日一日は付き合うと言った手前、下校時間までは帰るわけにはいかない。そこらに置かれていた椅子に腰かけて、取り出した携帯の画面を見つつ、九条茉莉花を盗み見る。


 やはり、と言うべきか。その整った横顔を見るだけで惚れる男の気持ちがわからないでもない。なるほど、美少女というのはこういうことを言うのか、と無条件にも叩き付けられる感覚だ。例えるなら、これが札束だぞと言わんばかりに万札の束で頬を叩かれる感じだ。


 こちらの価値観まで殺しに来る美貌ってのは、およそ殺人的ではあるな。


「……なんだ?」


 こちらが見ていたように、九条もこちらをちらちらと気にしているようで目が合った。


「いえ、その……なんの実験をしているのか聞いて来ないのかと思って」


「いや、聞かねぇよ。そもそも興味がねぇし。どうでもいい」


 すると、途端にムッとした顔をして試験管を置いた。


「まぁ、別にいいけれど」


 そう言う割にはこちらに向けた視線を外そうとしない。ならば、九条が望んでいる選択とは別の物を選んでやろう。


「ああ、でも、気になることはあるな。八重桜先生と九条、随分と親しそうだったけど何かあるのか? 現代文の教科担当は八重桜先生だと思うが、それだけで下の名前を呼ぶほど親しくはならないだろ。この部の顧問とかか?」


「……その一、ここは部ではないわ。同好会でも愛好会でもない。この第三化学室は私専用の実験室として学校に用意してもらったものよ。だから、顧問ではない」


 さらっと凄いことを言ったな。


 まさか、学園側が一生徒のために部活棟の一角を差し出すとは。それだけの特別待遇を受ける理由から推測するに……。


「理事長の孫、とかか?」


「違うわね。でも、知らないのかしら? 九条家と言えば一部では名家と呼ばれているのよ」


 知るか。まるで俺が無知だと言わんばかりに笑うが、知名度の無さをこっちのせいにするんじゃねぇよ。


 ならば、なんだ? と顎に手を当てると、九条は立てていた人差し指に次いで中指を立てた。


「その二、この部屋を手に入れたのは私の実力。優秀だから、お願いしたらくれたの。その三、澪ちゃん――八重桜先生は親戚よ。だから仲が良いの」


 なるほど、親戚か。それなら納得できる。


 けれど、目下の疑問はそこではない。その一、その二、その三と説明されたが、その段階を踏む意味が全くと言っていいほど無かったのは俺の気のせいではないはずだ。


「九条、お前……まさか理系以外の教科全部、バカだろ?」


 問い掛けた瞬間に、立てていた指と同時に腕を引っ込めた。


「は、はぁ? そんなこと今は関係ないと思うけれど。わざわざあなたのようなクズに教えてあげたのだから、むしろ感謝しなさい」


「何に対しての、むしろ、だよ。それなら、アレだな。むしろ俺は理系には弱いが、それを隠すつもりは無い。自分の欠点は認めてしまったほうが楽だぞ? エアオッパイ――っと」


 つい口が滑って出てしまった。


「…………」


 口を噤んだ九条は、徐に視線を下ろすと自らの平坦な体を見下ろしてから、くるりと体を回してこちらに背を向けた。


「……まぁ、気にしていないけれど。そもそもキミのような蛆虫程度の、いやゾウリムシ程度の男に私の体のことを言われたところでどうということはないし、何よりも、キミのようなプラナリアの好みに合わなかったところで私の価値は落ちないし、それにキミのようなクズに体のことを言われる筋合いは――」


 蛆虫から始まって、最終的にはクズに落ち着いたか。


「いや、俺は別に好みとか無いから。そこら辺は勘違いしないように」


 止めどなく俺の罵倒を続けていた九条は、漸く落ち着いたのか大きく息を吐くと、静かにイスに腰を下ろして、取り乱したことを後悔するように髪を掻き上げながら項垂れた。


「……クズくん。キミは本当に何も聞いていないんだね」


「紹介したい人がいるとは聞いたが、それ以外に何かあるのか?」


 聞き捨てならないね。こちらとしては時間を消費する以外のデメリットが無いからわざわざ付き合っているというのに、その上でまだ面倒事があると?


「そう、本当に何も聞いていないのね。私が澪ちゃんにお願いされたのは、あなたが犯行しているこの世界の真実を伝えることよ。今日一日を掛けてね」


「……はっ、世界の真実? このくだらない世界のことか? どうしようもなく――救いようの無い世界のことならよく知っている。それともなんだ? こんな狭い化学実験室の中に、その世界の真実とやらがあるとでも?」


 自分でもわかるほどにねっとりとした嫌な言葉遣いに、九条は長い髪を耳に掛けながら自らを落ち着かせるように細く息を吐き出していた。


「いいえ、ここには無いわ。でも、澪ちゃんにも言われていたでしょう? あなたが私に付き合うのは、よ。つまり、私の役目は学校を出た後。とはいえ、クズのあなたが簡単に付いてくるとは思わないし……なんと言うべきなのかしらね……」


 ちょっとこの子、心の声がダダ漏れだな。そういうところが周りから一線引かれている理由なんじゃないか。もしくは惹かれている理由か。


「いや、頭を悩ませる必要は無い。どこで何をするのか――見せてくれるのか? 期待するつもりは無いが、九条や八重桜先生の言う世界の真実とやらがわかるのなら付き合おう。不本意だがな」


 何よりも、先生との約束でもある。あくまでも口約束ではあるが、少なくとも今日一日は付き合うと言ってしまったのは事実だし、それを見越した上での言葉選びであったのも確かだろう。ならば、ここで約束を反故にするのは後々のことを考えれば適切とは言えない。


 と、まぁそれらしい理由を並べてはみたが実際のところは単純に興味を引かれたからだ。


 およそ迷信や都市伝説ですら信じないような理系の申し子が、真面目な顔をして言い放った「世界の真実」に心底惹かれている。まさか、あの九条茉莉花の口から、そんな中二病的ワードが出てくるとは誰も思うまいよ。故に、ここは選択するか否かではなく心に従うことにした。


「……そう。それなら手間が省けるわね。じゃあ、学校が終わったら一度家に帰って動きやすい服に着替えて再集合ということで。場所は――そうね、メダカ公園でどうかしら?」


「メダカ? ……ああ、あの滑り台だけが置いてある小さな公園か。わかった。そこでいいぞ」


「では、そういうことで」


 とはいっても帰るわけにはいかないんだよな。


 とりあえずは、ここで下校時間になるまでよくわからない九条の実験を眺めているくらいしかやることが無い。


 そして、俺はこの時の選択を――心に従ったことを後悔することになる。


 それも遠くない未来に。いや、むしろ今日中にだ。正しく後悔先に立たず。塞翁が馬ってやつだ。


 未来ってやつは、予期せぬ方向からやってくる。

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