第九回


 闇の中で今日もあたしは内緒で夢幻ゆめの世界を彷徨さまよっている。世界を閉ざされたあたしの、唯一の世界との繋がり。だけど、その夢の世界は消えてしまった。どういう訳かは分からないけど、親や妹が使っていたパソコンの調子が悪くなったらしい。そんな事を言っている声が、あたしを閉ざす部屋の外から聞こえてきた。あたしは血の気が引いた。

 妹がパソコンがフリーズするとか言い出して、母も昼間にパソコンをいじっていたときも鈍かったと言い出した。変なウェブサイトに入らなかったか、妙なソフトやファイルを入れなかったかとか聞こえてくる。あたしは不快な緊張にさらされる。気が遠のきそうになって、吐き気もするあんな感覚だ。

 前のパソコンを出そう。まだ使えるでしょ?

 妹がそう言った。あたしは終わったと思った。いや、まだた。

 パソコンどこに置いたっけ?

 今度は母の声だ。まだだ。

 汚い段ボールの中じゃないのと妹が言って、母が段ボールを覗いてみる。無いよと母は言った。当然だ。その中に入っていたパソコンを、今あたしが使っている。あたしは急いでインターネットを切断して、閲覧履歴を削除する。万一に備えて、メモとして作ったファイルも一斉に削除し、そしてパソコンの電源を切った。あたしは静かに深呼吸する。外では母がパソコンをどこに置いたか考えている。まだだ。結局は今日、あの二人がパソコンを見つけられず、その日の夜中にパソコンを返しておけば、二人のウッカリで済む。まだ、なんとかなる。あたしはまだ、そんな蜘蛛の糸よりも細くて遥かに弱く、淡い希望を捨てていなかった。だけど。

 お姉ちゃんじゃないの?

 妹が余計なことを言った。

 まさか。

 だってあの引き籠もり、する事ないからパソコンで遊んでるんじゃないの?

 しばらくの沈黙ののち、どんどんと大きな足音があたしの部屋に向かってくる。あたしはパソコンを急いで枕の下に隠して寝ている振りをした。プラグの付いたコードもマウスももちろん隠した。ノックも無く扉が開いたと思ったら、母は部屋に入ってきてパソコンを探す。机、本棚、ベッドの下を見た。あたしは起きた振りをして、半分だけ目を開いて「なにか用?」と訊いた。

「あんた、なにか隠してるもんはないの?」

「ないけど……」

 一秒が何分にも思える。母は少し考えた様子で周囲を見回すと、部屋から出て行った。あたしは息を吐いて安堵する。また外から声がする。

 母があたしの部屋にパソコンは無かったと、妹に言った。だけど、妹は机の上や引き出しの中は確認したのか母に訊いてくる。寝具に隠しても危ない。窓と雨戸の間に入れて、カーテンで隠せばばれないだろうか。あたしは安全な隠し場所を考えようとしたけど、それより早く母が、なにも言わずに部屋に戻ってきた。そしてあたしの許可など当然とらずに本棚の奥を確認し、机の引き出しの中も確認する。妹があたしの部屋を覗いた。パソコンはあったかと、能天気に母に尋ねた。母は無いと答えると、あいつはベッドの下とかはとまで訊いてきた。母はベッドの下を覗いた。多少の埃があるだけでなにもない。汚いなと母はつぶやいた。あたしは役者のようにボンヤリとした演技をしつつ、心の中では早くこの地獄が終わって欲しいと切に願っていた。

 本棚と壁の間は?

 妹が言った。どうやらあたしがパソコンを使っていて、今は隠していると確信しているらしかった。母もその考えに追随して本棚と壁の間、机と壁の間を確認するが当然ながら無い。母は舌打ちする。

「なにか、探してるの?」と、あたしは母に尋ねた。

「前に使っていたパソコン知らない?」

 母があたしを愚蔑するような目を向けて、そう言った。

「知らない」とあたしが答えると、母はまた舌打ちした。

 あたしの部屋には机とベッド、あとは本棚くらいしかない。しかも学校で使っていたものくらいしか残っていないので、ノートパソコンほどの大きさがあるものを隠すところなんて殆どない。諦めて母が部屋から出ようとしたとき、妹が言った。

 布団の中は?

 あたしは息が止まった。母がこちらを見る。そして近づいてくる。

 退きなさい。

 その母の言葉をあたしは嫌だと拒んだ。母は力尽くであたしをベッドから引き摺り下ろして布団をどかす。次に枕をどかす。

 ほらあった。

 妹がそう小さく言った。母はなにも言わずにあたしを叩いた。お得意の発狂が始まったのだ。この嘘つき、親不孝者、クズ、ゴミ、役立たず、癌、ゴキブリ、出来損ない、死ね、いろんな罵声を浴びせながらあたしを殴り蹴りを続けた。妹は、終わったら早くパソコン持ってきてねとだけ言い残して、その場を去った。その後も母の発狂は続いた。あたしは何度も御免なさいを叫び続けたけど、母は止まらなかった。挙げ句にはあたしが仰向けで倒れると母は、あたしのお腹を強く踏みつけて、その後は顔を集中的に踏んだ。あたしは顔を両手で守ろうとする。母はあたしの両腕を掴むと、あたしの右目を強く踏んだ。あたしは思わず悲鳴を上げた。すると母はうるさいと言ってさらにあたしを踏み続けた。しばらく暴れ続けると、母は疲れたのか飽きたのか、パソコンを持って部屋から出て行った。そのときあたしは泣いていた。

 最初は涙で見づらくなっているのかと思った。だけど違った。右目が見えなくなっていた。厳密に言えば、分厚いすりガラス越しに物を見るような感じだ。あの女はあたしの視力まで奪った。その日の晩は疲れて眠るまで声を殺して、枕に顔を押し付けて泣き続けた。


 パソコンを奪われて数日、あたしの心には母に対する殺意が湧いていた。今までも居なくなれば、消えてしまえばと思っていたが、自分から手を下そうという気持ちはサラサラなかった。あんな女一匹のために、あたしの人生をこれ以上穢けがされたくなかった。だけど、あの女をいま殺してしまったほうが、あたしにとってはいのではないかとすら思えてくる。あたしは今年で十七歳だ。少年法の保護を受けることが出来る。それに未成年だから実名は報道されることはない。いや、ダメだ。いくら報道されないとは言っても、あたしを知っている誰かが、あたしのことをインターネットに曝す可能性がある。改名したりしてあたしが人殺しだとばれないとしても、あんな女一匹のために人殺しの汚名を被りたくない。だけど死んで欲しい。あの女には死んで欲しい。あの女だけじゃない。あたしのためにならない、父も妹にも死んでほしい。奴らは、あたしが生きていくのを妨げるだけの癌だ。誰か奴らを殺してくれないか。もし奴らを殺す人が現れたら、映画や小説にしか存在しないような、どんな残虐で残忍な殺人鬼であっても、あたしからすれば掛け替えのない恩人だ。自分でも侵されているのが分かるほど、あたしの心は闇と毒に染まっていった。


 うちに二台あるパソコンの両方は、母があたしに触れさせまいと常に自分の傍に置いている。昼間はあたしが部屋を出るだけでも怒るのでどこにあっても問題ないが、自分の管理が行き届かない夜中は、自分たちの寝室にある金庫の中に入れてある。外出するときもこの金庫の中にあるから手を出せない。ただ、ある夜だけは母がパソコンをリビングに放置したままになっていた。まだ完全に習慣になっていなかったから、うっかり忘れてたのだろう。あたしからすれば二度とないかも知れない好機だと思った。

 午前一時にパソコンを起動させてインターネットに接続する。ネット上に友達といえるのかどうか分からないが、それなりに交流している人が何人かいる。あたしは彼らに連絡を取ろうとメールを送るが、午前に一時である。すぐに返事を送ってくれる人なんていなかった。三十分くらい、ニュース・サイトを見ているときに返信が届いた。そのときは嬉しかったが、返信してきた人物の名前を見てあたしはガッカリした。あたしはその人物があまり好きではなかったのだ。

 どういう人物かというと、ハンドル・ネームを人気アニメの登場人物の名前をいじったものにしていて、プロフィール写真のアニメのキャラクターの画像を使っている。その上、現実でしつこく会おうと行って来るのだ。ある日、気に入っている店かなにかないかという質問に対して、あたしは登校途中にあった、行ったことのない人気のパン屋の名前を出したことがあった。いくつか店を出していたので、てっきり全国展開している店かなにかと思っていたが、あとで調べてみると自宅から半径二十キロ圏内にしか系列店がないと知った。つまり、大まかではあるが住所がばれてしまったのだ。その日以来、その相手は言葉巧みに、要約すれば写真を寄こせと何度も催促してきた。うんざりしたあたしは、画像検索をして出てきた女性の写真を引っ張ってきて、トリミング加工だけして相手に送ると、今度は会おうと何度も催促してきた。

 あたしは内心よりによって、最初の返信がこいつかと嫌気が差した。取り合えず返信の中身を見ると、やはり遠回しではあるが会いたいと書いている。まったくしつこい奴だ。

 いや、待てよ。むしろ都合がいいのかも知れない。

 あたしは家出したいという趣旨のメールを相手に送った。相手から家に居ても構わないと返ってきた。ついでにあたしは以前送った写真は他人の写真で、自分の写真は携帯電話もデジタルカメラもないので送れないと正直に相手に伝える。

 なぜ携帯電話も持っていない?

 携帯電話すら持たせてくれないような親だから、家出したいの。

 どうやって連絡を取っている?

 親に内緒でパソコンを使っている。メールはフリーメール。だから親にはばれてない。

相手はあたしの年齢を訊いてきた。相手にあたしの年齢は二十歳と伝えてあるので、この質問は実年齢を聞いているのだろう。これも正直に今年で十七歳だと答えた。

 すぐに家から出られるか?

 そう相手から返信が来た。

今すぐ出られる。こんなところには帰るつもりもない。

そう相手に伝えた。相手はいくつかの公園を待ち合わせ場所に提示した。その中からあたしは場所を知る、自宅から二キロほど離れた公園を指定する。一時間後に待ち合わせと申し合わせて、あたしは相手と連絡を絶った。

 あたしは中学時代に使っていた運動着を入れていたナップザックに数日分の着替えを入れて家から出た。外から玄関の鍵を閉めた。家の鍵は相手が待ち合わせの場所に来なかったときのことを想定して、念のために持っていくことにする。懐中電燈と街燈の明かりを頼りにあたしは数年ぶりに、待ち合わせの公園に向かった。到着すると、やはり深夜の公園だけあって人気ひとけもなく当然ながら真ッ暗である。凍てつく夜風にあたしの白い吐息が流れていく。

一時間ほどすると、公園から少し離れたところに自動車が一台止まった。あたしはメールの相手が来たのかと自動車のほうを見た。相手はヘッドライトを光らせてはいるが、こちらに来る気配がない。少し怖くなって目を背けたとき、車が公園の入り口まで走ってきて停車する。運転席には筋肉質の男が笑っていた。

 男は御免ごめんと言いながら、あたしのハンドル・ネームを出して身元を確認した。あたしも相手のハンドル・ネームを出すと、相手はそうだと答えた。助手席に乗るよう促されたので、あたしは素直に乗車した。男が言うには、あたしを自宅に連れて行くらしい。彼氏はいるのか、親や兄弟はどんな感じだなどといろいろ質問されたので、適当にではあるが答えてながら外を眺めていた。しばらくして小さな駅の前を通り過ぎた。そして三分と経たないうちに、その男の自宅という一軒家に着く。表札には木下と書かれていた。

 あたしが門をくぐって玄関の前に立つ。男は扉を開けるといなや、あたしを家の中に押し込んだ。あたしは上がりかまちの前に倒れて振り返ると、さっきの柔和な表情を一変させた男が立っていた。


 あたしは家の地下室に連れて行かれた。扉の鍵を開けて中に入ると、恐らくはあたしより年下の……あたしの妹ほどの年齢と思われる女の子がいた。アニメのキャラクターのような派手な恰好をしているが、彼女の表情は暗かった。木下という男は、その子のことをミントと呼んだ。そしてあたしにはココアという名前をつけた。男はあたしもミントも本名を名乗るのも年齢も、あたし達の個人的なことすべてを話すことを禁じた。もしも名乗ったりすれば殺すとまで脅してきたのだ。木下だけ部屋から出て行き、外から鍵をかけていった。あたしは部屋を見回した。淡いカラフルな色で彩られてはいるが、地下室だからか窓一つない。時計すら見当たらない。あたしはミントという子に、ここで何があって何をされたのかを訊いたけど、彼女は無言でなにも答えてはくれなかった。ただ、盗聴器かなにかがあるかも知れないから、自分のことは何も話さないでとは言われた。しばらくして彼女を見ると、彼女は眠っていた。

 朝になったのだろうか。木下が部屋にやって来て、袋詰めの食パンとお茶の入った二リットルのペットボトルを投げ入れた。これが一日分だよとミントが教えてくれた。いや、無計画に食べられないよう忠告したのかも知れない。あたし達は食パンの何枚かを半分こして、コップなんてないからお茶は回し飲みした。あたしは改めて、ここで何をさせられるのかをミントに尋ねた。ミントはもうすぐ分かるとだけ言った。

 さらに数時間が経つと、木下がビデオカメラと衣装とスケッチブックを持ってやって来た。その衣装をあたしに投げ渡して今すぐ着替えろと言ってくる。着替えるから出て行ってとあたしが頼むと、さっさと着替えろと木下は怒鳴った。渋々あたしはその場で着替えたのだが、なんというかミントが着ているような服と同じで、なにかのキャラクターの衣装のようだ。この男はあたし達にコスプレをさせて何がしたいのかを考えていると、スケッチブックから破いた紙を何枚かこちらに渡してきた。木下はすぐに覚えろと言う。あたしとミントが紙を見ると、台本というかなにかの企画のようなものが書かれていた。あたしは状況が理解できずに戸惑っていると、木下はその紙を分捕って、すぐに撮影を始めるとか言い出した。思わずミントになにをするのか尋ねると、ミントはすぐに慣れるとしか言ってくれなかった。

 心から馬鹿気た茶番だった。動画投稿サイトに上げられているような、下積み途中のお笑い芸人や、芸能人ぶった素人が作る、バラエティ番組のように下らない動画を撮らされるのだ。ある時は、自分たちが強制的にコスプレさせられているキャラクターの言動をさせられたり、なにかのランキング、詰まらない雑学、真偽が怪しい心理テスト、木下が妄想した思い出話、幼稚な科学実験や子供騙しの手品などさせられていた。無論、楽しんでいる感じを出さないと怒られて殴られたりするので、精一杯ウソの笑顔を作ったり、心にもない表情を作って乗り越えた。

 あたしとミントしか居ない時間に、木下はこんなことをして何が面白いのかと思わず呟くと、これをネットに上げてアクセス回数を基準にお金を貰うのだろうとミントが教えてくれた。あんな動画、いったい誰が見るのだろうか。あたしが言うとミントも、余程の馬鹿か変態かのどっちかだと小声で言った。何日か経つと、あたしとミントのほかにチョコという女の子が入ってきた。年齢はあたしより一つか二つ上といった感じだった。あたしがココアで、ほかの二人はミントとチョコ。あたし達にアイスクリームの味にありそうな、犬や猫といったペットにも付けないであろう名前にしたがるのは木下の趣味だろうか。それとも動画を見るであろう対象が好みそうな名前なのか。どちらにしても異常としか思えない。

 あたし達は木下の指示に従って、いろんな動画に出演させられたが、木下の機嫌が日に日に悪くなっていくのが分かった。あたし達のちょっとしたヘマでも激怒して、ゴミだの役立たずだの罵声を浴びせたりするのだ。ミントとチョコは、きっと動画のアクセス回数が良くないのだろうと推測した。そりゃそうだろう。完成した動画を観たことはないが、出演しているあたし達が下らないと軽蔑しているような動画である。面白いはずがない。寒い地下室には電気ヒーターが一台だけ。その傍で三人が集まって、チョコは横になって眠り、あたしとミントは体育座りをしているが、ミントは疲れたのかあたしの肩に凭れて眠っている。あたしもミントに凭れて眠りについた。


 初めてのキスは女の子とだった。正直、あたしは人工呼吸とかを除けば、いずれは嫌いになって別れる、だけどその時はそれなりに好きな男の人と、まあまあの空気に流されてする平凡なキスが、自分の初めてのキスになると思っていた。だけど、あたしにはそんな平凡すら許されなかった。撮影中に木下はなにを思ったのか、ビデオカメラの隣に出すスケッチブックに、キスをしろと命令を書いたのだ。あたし達三人は戸惑って互いの顔を見た。まごまごしていると木下があたしとミントを指差して指名した。あたしとミントは目を合わせる。ミントは顔では笑っていたが、近づかずともミントが怯えて表情が強張っているのが分かった。きっとミントも初めてなんだろう。あたしは、ミントの口にキスする寸前に少しだけ自分の顔の向きをずらして、ミントの口許の頬にキスした。すると、木下はカメラを止めるなり、なにも言わずにあたしのお腹を蹴った。あたしが倒れると、次に命令に逆らえば殺すと脅して撮影を再開させようとする。だけどあたしは、お腹が痛くて倒れたままだった。木下は激怒して何度も何度もあたしを蹴った。木下は感情的になっているが、頭のどこかは冷静なのだろう。どれだけ痣ができても服で見えない部分だけを集中的に蹴ってきた。ミントとチョコが心配してくれる中、あたしは無理をして動画に出演した。一通り終わって木下が部屋から出るのと同時に、あたしは力尽きて倒れた。二人は大丈夫かと何度も声をかけてくれた。ミントが背中をさすってすれた。チョコも――吐いてもいいよ、誰も怒らないから――と言ってくれた。


 木下は日が経つにつれて乱暴で感情的になっていって、奴が望む演出は過激になってきた。結局、あたしは家出してから出会った全員とキスを交わさせられた。あたしが木下の左腕に趣味の悪い黒いドラゴンの入れ墨があるのを知ったのは、そのときだった。

 木下は恐らく、母と同じ人種だ。

 こいつらは人を奴隷かオモチャとしか思っていない。そう考えると、あたしにもあんなけがれた血が流れているのか。あたしは母親にはなれないな。生まれた子供が可哀想だ。いや、隔世遺伝かなにかで母やあんなけだものみたいになるかも知れない。少子化だというけれど、それなら子を成さないほうが社会貢献だ。いや、こんなところに閉じ込められた挙げ句、あんな動画に出ていた女と結婚してくれる人がいるとも思えない。仮に居てもどうせ変な奴だ。明かりの消えた陰気な地下室にいるせいか、頭を巡る思いすら陰気になってくる。ミントもチョコも生きるのに疲れて、撮影以外ではろくに声も出さない。あたしも疲れた。いっそ死んでしまいたい。あたしの心を常に染めている感情だ。だけど、どこかで助かりたいとあたしの心は叫んでいた。だから考える。

 電気ヒーターを使って火災を起こすのはどうだろう?

 火事になったら、さすがのあいつも助けてくれるか?

 いや、あたし達三人だけが死ぬのがオチだ。木下にいい意味での人間的な要素は求められない。きっと、火災に気付いたら、火の始末より先にあたし達を殺して隠すと、火災を単なる小火かなにかだと駆け付けた消防隊員とかに言うんだろう。その姿が目に浮かぶ。


 地下室に時計がないから、いまが何時なのか全く分からない。扉の鍵が開いたかと思えば、木下が覗くようにこちらを見て、朝飯だと言って食パンの入った袋と水道水の入った二リットルのペットボトルを部屋に投げ入れた。これが、あたし達三人の一日分の食事だ。とても足りない。床を転がるペットボトルを見て、あたしは閃いた。

 木下が撮影を始めるのは、朝御飯を終えてから数時間経過したころだ。あたしは水が入ったペットボトルを握りしめて扉の隣に座っている。

 あたし達は、逃げるため……いや、生きるために策を講じた。木下が油断したときに、あたしがペットボトルで木下の頭を殴る。木下が倒れたり体勢を崩したら、ミントとチョコが一緒になって木下を取り押さえる。あたしもそこに加わって三人で木下が死ぬなり気絶するなりするまで頭や心臓を集中的に攻撃するといったものだ。一番危険な、最初の一撃をあたしがするのは、あたしが言い出したからだ。これで木下は死ぬかも知れない。だけど、このままだったらあたし達が殺される。だから三人で力を合わせて木下を倒そう。倒したら一緒に警察に言って助けを求めよう。そのあとはどうなるのかは考えてはいなかった。ほかの二人はどうか分からないけど、いや、多分この事件を早く忘れたくて今後は二度と会わないかも知れないけど、あたしはこの三人でこれから一緒に暮らしてもいいと思っていたし、木下を殺したことを理由に刑務所に入れられても仕方がないと思っていた。


 当然扉が開くと、木下が撮影するぞと入ってきた。木下が見ている中、ミントは木下に目を向けつつチョコにベッタリと抱き締めて、チョコも木下のほうを向きながらミントの頬にキスした。そして二人は頬笑みながら目を合わせると、そのまま音を立ててキスを交わす。予定にはない行動だ。きっと木下の注意を惹くために即興でやってくれたんだろう。あたしは静かに立ち上がる。失敗できない。チョコが木下を誘惑するように、ミントとキス交わしながら流し眼で木下を見ている。二人に釘付けになっている木下の背中が、あたしの目の前にある。あたしはペットボトルを体全体を使って振り下ろすように、まさに渾身の力をもって木下の後頭部を殴った。ガタイのいい木下も、さすがに体勢を崩して倒れた。その拍子にビデオカメラとスケッチブックを落とした。あたしも、ミントもチョコもすぐに木下に飛び掛かった。こいつを倒して三人で逃げるんだ。だけど。

 木下はすぐに立ち上がって、振り向きながらあたしを殴った。あたしは壁に叩きつけられて動きがそのまま崩れ落ちた。ミントもチョコも応戦してくれたけど、あっさり返り討ちになった。息の上がった木下が、あたしを見下ろす。充血した、殺意と憎悪に満ち満ちた目でこちらを睨みつける。母と同じ目だと、あたしは思った。木下は無言のまま何度も何度も何度も何度もあたしを蹴り続けた。頭も肩も胸も腹も腕も脚も、どこにも容赦することはなかった。髪を掴まれて引っ張られると、あたしはミント達の前に引きずり倒された。うつ伏せだったあたしは急いで立ち上がろうとするが、蹴られて仰向けに倒れるのと同時に木下がかざす足が見えた。一瞬、母に右目を潰されたあのときを思い出す。

 あのときと同じだ。

 心が囁いた。あたしは死んだ。生まれ変わるたびに、あたしは殺されるんだ。

 あのときは、作られた幻とはいえ外の世界を自由に駆けていた。

 今は、いつかは外の空気を自由に吸えると信じていた。

 だけど殺されるんだ。

 バイバイ、あたし。


 あたしは家出をしたときの姿で夜の街を歩いている。どうやってここに来たのか、まるで覚えていない。真ッ暗な悪夢から目覚めたような気分だ。暗くて寒くて怖くて恐ろしかったのは覚えている。だけど、どこで何があったのかは覚えていない。これからどうしよう。これからどこへ行こう。なんの当てもない。母や妹、父がいる家には死んでも帰りたくない。だけど死にたくない。酷い寝不足のようと言うべきか、頭がさっぱり回らない。泥酔し切って朦朧としている人を見たことがある。ああいう人達の頭は、こんな感じなのかな。見つけたときは、いい大人が情けないと思ったけど、今はほんのちょっぴり同情しちゃう。

 ところで、なんで家出したんだろう。お母さんや妹、お父さんが嫌いだから。うん、そうだ。そしてどこへ行ったんだろう。よく思い出せない。

 ふと、制服を着た男の人が見えた。建物に入っていく。どこかで見たような。以前はあんまり会いたくなかった人。だけど、ちょっと前はすごく会いたかった人。誰だっけ。建物には『交番』と書かれている。そうだ。お巡りさんだ。

 お巡りさん。お巡りさん。

 警察。警察!

 そうだ。あたしは木下という男に囚われて酷い目に遭ったんだ。早く、早く助けて欲しい。それにあたしだけじゃない。ミントもチョコも木下に酷い目に遭った。早くしないとあの二人だって危ない。

 あたしは交番の扉に向かって駆けた。交番は引き戸だった。あたしは開けようとしたけど、鍵が掛かっているのかビクともしない。中には警察官が三人、なにか事務作業みたいなことをしている。あたしは戸を叩きながら開けてって何度も叫んだ。

 開けて下さい。助けて下さい。お願いします。

 だけど誰も見向きもしてくれない。

 お願い、開けて。助けて、早く。お願いだから。

 何度声をかけても、どれだけ戸を叩いても気付いてくれない。あたしは泣きながら何度も何度も開けて、助けてと戸を叩き続けた。だけどやっぱり、気付いてはくれない。

 あたしはその場で泣き崩れた。なんでって、どうしてって、泣いた。

 ふと……後ろから、おいって誰かの声が聞こえた。あたしが振り返ってみると、二十歳くらいの男の人が立っていた。

そして男の人は、あたしに向かって言った。無駄だって。

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