第六回


 萩が殺害されて四ヶ月が経った頃。絶望の孤独を感じてからも、萩は自分を殺した犯人を捜し続けていた。梅雨が終わった頃から、通行人の多くが半袖の服を着るようになっていた。萩は例の住居に入って住人の左腕に黒いドラゴンの入れ墨がないか確認するといった無謀な虱潰し作戦のほかにも、人通りの多い場所に行っては通行人を眺めていた。そして筋肉質の男がいれば左腕を確認するといった行動を繰り返す。

 ある日の深夜、いつものように虱潰し作戦が失敗に終わったために繁華街に出た。繁華街といっても規模は大きくないのだが人通りもそれなりにあるので、萩は交番の前に突ッ立っては、通行人を眺めていた。時たま酔っ払いや不審者が通ることはあっても、犯人らしき人物は現れることはなく、退屈だと呟いて交番の中を覗いてみる。壁に掛けられた時計は二時二十分を指していた。これ以上いても時間の無駄だとその場を去ろうとしたときに、サラリーマン風の男が交番に駆け込んできた。どうやら連れが酔っ払いに絡まれて喧嘩になっているそうだ。警察官二人が、その男と一緒に現場へ向かうので、野次馬根性を刺激された萩も付いて行くと、二人のスーツ姿の男が足取りも覚束ない様子で向かい合っていた。

 馬鹿かお前かと怒鳴った酔っ払いの一人が、この後もなにかを言い続けたのだが、呂律が回らずなにを言っているのかよく分からなかった。それを相手に嘲笑われて、なんだと貴様と激高する。

「その不細工なつらをもっと汚くしてやる」と言って、相手に殴り掛かった。

 相手の男も逃げたり怯む素振りを見せないどころか、むしろ立ち向かっていったところで、警察官の一人が両者の間に割り込んで制止する。二人の酔っ払いの敵意が警察官に向けられた。

「誰だ、貴様!」と立ち向かおうとした男が怒鳴ると、挑み掛かった男も「邪魔だ! 消えろ!」と警察官を押した。だが、警察官の「はいはい。お巡りさんですよ」との言葉に、酔っ払いたちは冷静になったのか戸惑いつつも大人しく黙り込んだ。

 すぐに立ち向かった男が、自分はこの酔っ払いに殴られたのだと警察官に訴えながら挑み掛かった男を指差すと、相手の男もなんだとと叫んで、立ち向かった男の胸倉を掴んだ。間にいた警察官は慣れた様子で二人をなだめながら引き離す。一人の酔っ払いに一人の警察官がついて事情を尋ねる。両者を引き離した警察官は立ち向かった男を、もう一人の警察官は挑み掛かった男から話を聞いているとき、後者の警察官が遠くに未成年らしき女性がいることに気付いて、あッと言った。萩が警察官の視線を追うと、狂気的な母によって高校浪人になったあの少女がいた。試験勉強の気分転換に外出していたその少女は、騒ぎを聞きつけて様子を見に来たのだが、警察官と目が合うと同時にその場から立ち去る。警察官は少女が気にはなったが、目の前の酔っ払いの対処をする。喧嘩していた酔っ払いは、それぞれ自分に非はなく相手が悪いと主張してくる。警察官を連れてきたあの男は、どうしていいのか分からず、ただ突ッ立ているだけだった。萩は飽きたのか、少女が去ったのとは逆の方向へと去って行った。


 暑くなるとプールや海水浴などで水遊びをする機会が増える。萩はこの時期になると複数のプールなどを廻っては犯人らしき人物を探すが、これも成果を上げることはなかった。このプール巡りのほかにも、自分が犠牲になった強盗殺人事件の捜査本部にも何度か顔を出したり、虱潰し作戦や通行人の調査も当然ながら行っているため、実家か祖父母宅で行われたであろうお盆に参加する暇なんて無かった。

 ある日の夜、ふと忍び込んだ家には自室に引き籠もる少女がいた。年齢は中学生から高校生といったところだ。彼女はずっと自室にいるらしく、萩が見たときには布団に潜り込んでいた。彼女を見つけたときの萩からすれば、体格はもちろん男か女かも分からなかったので近づいてみると、その女の子は中学の国語の教科書を読んでいた。萩はその子の顔を見る。以前、酔っ払い二人が喧嘩しているときに一瞬だけ見掛けた少女ではあったが、萩は目の前にいるその子が、あのときの少女だとは知らない。遠くて顔が見えなかったこともあるが、仮に見ていたとしても一々……顔を覚えるほど印象に残っていなかったのだ。

 居間から彼女の母と妹の笑い声がした。彼女は浮かない顔をして教科書を読み続ける。萩は彼女が辛い状況にあることを知らなかったので、なんで本棚にろくな漫画も小説もない、娯楽らしい娯楽のない部屋にいるのか分からなかったが、せいぜい親子喧嘩か兄弟喧嘩でもして自室に籠城しているのだろうと考えた。

 玄関から物音がした。父が無言で帰宅したのだ。父は居間にいる家族と会話をするどころか、様子を見るといった仕種を一切見せずに自室に向かう。そこで萩は彼女の父親の左腕に例の入れ墨が無いことを確認すると、すぐに別の家へと向かった。

 その数時間後……つまり翌日の未明に街中で彼女を見つけた。その日以降も何度か見かけた。もしかしたら以前にも何度か見かけていたかも知れないが、仮に遭遇していても顔も知らずそもそも関心が無かったので見落としていた。彼女の家に侵入したとき、どの家の子かは覚えてはいなかったが、顔はなんとなく覚えていたので、初めて外で見つけたときは不良娘だったのかとしか思わなかった。だが、何度も見つけるうちに朧気だった彼女の姿が記憶に定着する。それでも関心が無かったので、彼女に意識を向けることはなかった。だから、何度も遭遇しているのにも拘わらず、常に単独行動、いつも同じようなヨレヨレの服を着ている、髪は自分で切っているために髪型が雑になっているなど、冷静に見れば奇妙な点のどれにも気が付くことはなかった。


 秋に入ると困ったことになった。通行人の多くが長袖の服を着るようになったのだ。こうなってしまえば、仮に筋肉質の男が現れたとしても左腕に例の入れ墨があるのか確認できない。逐一追いかけて左腕を確認するまで付き纏うなんて効率が悪く時間の無駄である。虱潰し作戦のほうがマシとすら思える。殺害されるときに犯人の顔が見られなかったのが悔やまれる。萩を殺害した犯人は、筋肉質とはいっても相撲取りやプロの格闘家のように丸太を思わせるような腕をしている訳ではなく、平均的な日本人男性よりは太いといった程度のものである。だから長袖なんか着られてしまえば、そもそも容疑者なのかどうかすら判断しづらくなる。それでも容疑をかけられるような人物もいるのだが、だからとて時間を割いてまで確認しようという気には成らなかった。

 久し振りに捜査本部に行ってみる。嫌疑を掛けられている人物が何人かいたので、住所が分かればそいつらの所へ行ってやろうと思ったのだが、遺伝子検査で疑いが晴れたとの報告に出くわしたので行くのをやめた。警察に自分が知っている黒いドラゴンの入れ墨のことを知らせることが出来ればと歯痒い気持ちになりながらも、萩は捜査本部から出て行った。

 夏はプール巡りが忙しくて忘れていたが、萩はふと霊能者を探していたことがあったのを思い出す。以前は失敗したが、人通りの多いところで大声を上げまくれば、不審に思った人がこちらを見るかも知れない。オバケである自分に気付くということは、そいつは霊能者だ。以前に失敗したのと同様のことをすぐに試してはみるのだが、どこへ行っても、どれだけ騒いでも一向に反応がない。街中での霊能者捜しに失敗してトボトボと歩いていると、偶然に神の声が聞こえると宣伝する占いの店なのか新興宗教の施設なのかよく分からない店を見つけた。神の声が聞こえるのならオバケの存在にも気付くだろうと入ってみる。萩は冷やかす気でいっぱいだった。淡い紫色の光に包まれた暗い部屋には、髑髏や変なお札が飾られていたり、机には意味不明な模様がえがかれた紙が敷かれている。いつぞやの不気味な女性部員のいたオカルト研究部の部屋を思い出すが、こちらのほうが凝っていた。部屋には明らかに薄幸そうな、深い紫色のブカブカとした服を着た、不気味に波打った長髪の男が座っていた。その胸元まである長い髪のせいで顔がよく見えない。男は占星術と書かれた胡散臭い書物を読んでいる。男の向かいには椅子があったので、萩はそこに腰を下ろした。そして右腕を机に置いて言う。

「おい、根暗! お前、神の声が聞こえるんだろ? なら、オレを殺した犯人の居場所を教えろ! あと名前とか生年月日とか身分を特定するやつと一緒に!」

 男に反応はない。

「神様とやらの声が聞こえるのに、オバケの声は聞こえないのか。祟るぞ、貴様!」

 そう言って萩が机を叩いた直後、大きな掛け時計の鐘が鳴った。あまりにもタイミングが合っていたのでビクッと驚いた。と、男は突然立ち上がって背伸びをする。

「あー。やっと終わったあ。あーあ、今日も陰気くさい連中ばっかりだったな。聞いているだけで、こっちまで不幸になってくる」と男は波打った髪を掴むと、かつらだったそれを外した。紫色の光のせいでよく分からなかったが、短髪をした男の頭は、たぶん明るく澄んだ黄色か同様の金髪のようだった。鬘の毛で分からなかったが、両耳にはいくつもの輪っかのピアスもある。

 男は店の入り口の扉の鍵をかけて奥へと歩いて行った。

 あまりのことで、さすがの萩もきょとんとした。しかし面白がってその男に付いていくと、奥には男と同年代ほどの腹の膨らんだ女がいて、男にどうだったと話しかけてきた。男は疲れたと返すと、今日の仕事の話だと言って苛立ちを見せた。

「び、微妙です」

「微妙じゃ分からないから、売り上げで言いなさい」

 男は黙り込んだ。女が来客の数を尋ねると、男は三人だったと答える。それを聞いた女が、それでどうやって食べていくんだと怒鳴ったあと、日曜の朝から三人しか来ていないとはどういう事だとか、なにが占いなら儲かるだとか、あと三ヶ月で子供が産まれるのにとか、これなら今まで通り大人しく引き籠もってだらけていているほうがマシだとか、挙げ句には結婚するんじゃなかったとかまくり立ててきたので、男は怯えた様子で頷いたり謝ったりしていた。それでも「し、新興宗教のキョ……教主になれば、お布施だとか本だとかでボロ儲けが……」などと弱々しく頼りない反論をするのだが、その言葉が火に油を注いで女の言葉がさらに荒くなっていった。それでも男はインターネットを使って宣伝しているだとか、宗教法人は税金が掛からないらしいと言うのだが、女は真面目に仕事をするって言うから大事な貯金を崩したらこんな馬鹿家たことに使いやがってとか、結婚して一ヶ月も経っていないのに後悔しているだとか、両親の言った通り結婚しなければかっただとか、男の言葉を信じて家族と絶縁宣言してまで結婚したから親にも兄弟にも頼れないし情けなくて友達にも相談できないと騒ぎ立てるので、それを近くで見ていた萩は頬笑みながら、時には囃すように両手を叩いて楽しんだ。

 最後に男が女に向かって土下座をしたところは傑作だった。

 この夫婦の今後が気になったが、いつまでもこんな馬鹿夫婦を見て楽しんでいる訳にもいかない。こんな連中なんかよりも自分を殺した犯人を捜さなければならないのだ。

 別の日の夜、繁華街を歩いているときに、路地裏からオレは神だと叫ぶ声がした。普段なら無視するのだが、この日の犯人捜しも一向に成果はなく、正直いうと退屈していたのもあって、萩の悪い癖である野次馬根性に従ってそっちに行ってみる。暗くゴミ袋が積まれたところの脇には、不健康に痩せ細った男が座っていた。その男の前には注射器が落ちている。萩はそっとその男に近づいてみる。男は小刻みに震えて、含み笑いが漏れているような音がした。

「オレは神だ。オレは神だ。オレは神だ。オレは神だ」

 俯いたまま延々と唱えるように言っている。注射器が落ちているのに萩は気付いた。どうせ危ない薬でも決めたのだろうと、予想通りの状態に拍子が抜けた。つまらないと、その場を去ろうとしたときに男が顔を上げてこちらを見た。目が合ったと思ったら、目の下に大きな隈をつけた男の視線がゆっくりと下がる。萩の脚の辺りに視線が来たとき、ただでさえ顔色の悪い男の顔が一層白くなった。男が慌てて立ち上がったかと思えば路地裏の奥に逃げるのだが、薬のせいか足許がふらついてすぐに転んだ。そして怯えながら萩を見た。

「ままま、待ってくれ! 赦してくれ! オレじゃない! オレじゃないんだ!」などと男が言ってきたので、萩は黙って……そして面白がって男を睨んだ。

「オレが見つけたときには、お前はもう倒れていたんだ! 生きてるのは知ってたけど、薬を決めたあとだったから警察を呼ぶわけにもいかなかったから! けど、放っておいただけで死ぬなんて思わなかったんだ! 赦して! 赦して! お願い赦して! 成仏して!」

 男は首と脚を甲羅に収めた亀のように丸くなって、頭の上で合掌している。

よく分からないが察するに、こいつは倒れている奴を見つけて、そいつが生きているのを知ってはいたが無視をした。そしてオレをそいつの幽霊かなにかだと勘違いしているのだろうと萩は漠然と考えた。頼りないし、本来であれば関わりたくもないが、意思疎通が出来るのなら貴重な人材だとも考える。

「おい、お前。そいつは別人だ。顔を上げろ」

 萩はそう言ったが、男は震えたまま体勢を変える様子がない。

「顔を上げないと祟るぞ」と脅しても、男に変化はなかった。

 少し苛立ちながら男に近づいて、身を屈めると男が小声で「赦して、赦してくれ、ハジメ。この通り。オレはお前が死んだなんて知らなかったんだ」と言っているのが聞こえた。

「オレはハジメじゃない」と萩は言ったのだが、やはり男に変化はない。

「ハジメじゃないって言ってるだろ!」

 思わず怒鳴った。だが、男は怯えたまま赦しを乞うている。そして気付けば詫びている相手の名前がハジメからアキラに変わっていた。呆れた。恐らくだが、霊感が少しあるだけの人間がたまたま自分の気配を感じて、しかも危ない薬のせいで亡霊になった知人の幻でも見ているのだろうと萩は思った。途中で相手の名前が変わったのは、きっといろんな意味で頭がおかしくなっているからだ。自分の声も聞こえていない様子では、薬が抜けてまともな状態になったとしても、意思疎通なんて不可能なように思える。消化不良のような苛立ちと白けを覚えながら萩はその場を去った。


 別の日の深夜二時ごろ、あの少女が一人で公園を散歩していた。手には懐中電燈を握り締めている。大きく息をいて何気なく空を眺めてみた。星もなく真ッ暗だ。小さいとはいえ、徒歩で行ける距離に繁華街があれば、そうなるのだろうと彼女は考える。星は無いが月は見える。欠けているせいか光は弱々しく、近くに分厚い雲もあるから、そのうち隠れてしまうだろう。視線を下ろすと一瞬ベンチでなにかが光った。懐中電燈の光を向けてみると猫がいた。野良猫だろうか。いや、その割には汚れていない。少しは汚れているのかとも思ったが、よく見ると灰色と黒の色をしたその猫は、人に慣れているのか彼女を見ると警戒するどころか、甘えるような鳴き声を出して近づいてきた。少女は戸惑った。彼女は猫も犬も飼ったことが無いばかりか、触れ合った経験すらない。噛まれたり引っ掻かれたりしたらどうしようかと心配したが、猫は彼女の足許まで来ると止まって、少女を見上げた。懐中電燈の光を顔に受けるたび、猫の瞳は妖しく光る。少女は警戒しながら猫に手を伸ばした。なにかで犬や猫の顎を撫でているのを見たことがあったので、同じように撫でてみる。猫は大人しく彼女の手を受け入れた。少女は猫が首輪をしているのに気付いた。青色をした首輪が細くて目立たなかったことと、猫の毛が少し長くて見え辛かったために気付かなかったのだ。

「君には家族がいるの?」と少女は訊いた。もちろん猫は答えない。

「家出? 羨ましい」

 そう言って彼女は頬笑んだ。

「あたし、家出したいんだけど、行くあてが無いんだ。大学に行く勉強すらさせてくれないんだよ」と続けた。

 少女は家出した猫なら連れて帰りたいとも思ったのだが、自分の部屋で猫なんて飼えないし、そもそも飼い方が分からない。餌だけやればいいなんて事はないだろう。

 よしよしよしと何度か撫でていると、そういえば猫の肉球は柔らかいという話を思い出す。実際には触ったことがないので触ろうとすると、猫はそれを嫌がった。噛み付かれたり引っ掻かれたりはしなかったが、猫は少女から目を逸らすと、そのままゆっくり歩き出した。少女は振られたと小さく笑った。

 腕時計を見る。まだ三時になるまで時間はあったが、彼女は帰ることにした。帰宅すると久し振りにお風呂に入って、そのあとは洗濯をする。洗濯物は自分の部屋に干す。髪が乾くのを待ちつつ、いつものように諳んじられるほどに読んだ教科書を布団に潜って読み始めた。数時間後には父が起きだして、いつも通りに妹が、最後に母が起きだす。少女は暗い世界でじっと、外の世界が再び暗くなるのを待った。


 十二月、木下きのしたいさおは苛立っていた。昼間にぶつぶつと文句を吐きながらパチンコ店から出てきた。朝からこのパチンコ店に入り浸っていたのだが、一向に勝てなかったのだ。財布に入っていた最後の札が消えたものだから、馬鹿野郎と叫んでパチンコ台を何度も叩いた。それで店員に注意されたのでん殴ろうと思ったのだが、周囲の客が白い目でこちらを見てきたので怒りを呑み込んだのだ。

 仕方がないので酒でも飲みに行こうと思ったのだが、すぐにパチンコのせいで金がないことを思い出す。煙草を吹かしながらトボトボと家に帰った。そしてテレビ・ゲームをしたり地下室にあるトレーニング・マシンで体を鍛えて時間を潰す。風呂場のシャワーで汗を流して、出ると当然ながら体を拭いた。鍛えられた左腕には、萩を殺害した犯人に刻まれていたあの黒いドラゴンがいた。

 この男は現在無職である。元は私立高校の教員であったが、つい最近退職した。十二月の初旬に、勲は校長室に呼ばれる。本来なら校内は全面禁煙にも拘わらず、校長室には煙草のニオイで満ちていた。咥えていた煙草を手に取った校長は開口一番に、呼ばれた理由くらいは分かるよねと訊いてきたので、勲は分からないと返した。すると校長は威嚇するように机を強く叩いた。そして左腕にあるものはなにかと怒鳴ると、続けて見せてみろと言われたので、勲は舌打ちして左腕の入れ墨を見せた。

「なんだ、それは」と、校長は分かり切ったことを尋ねた。

「見ての通りです」と勲が答えると、「なんだねと訊かれたら、答えろクズが!」とまた怒鳴ってきた。しぶしぶ入れ墨ですと答えたら、それだよと校長は唾を吐き捨てるように言って、手に持っていた煙草を吸った。

 勲が勤めていた高校は、進学科と普通科の二つに分かれている。進学科は偏差値が平均より高い生徒が在籍していて、普通科は平均的かやや低い生徒が在籍している。その進学科に在籍していた男子生徒が名門大学に推薦入学することになったのだが、勲は普通科に在籍していた、男子生徒の妹に対して、兄の推薦を流されたくなければと脅してもてあそんだのだ。その後、女子生徒は勲にされたことを泣きながら両親に話したことが切っ掛けで、この件を校長が知ることとなった。だが、学校側が問題視したのはその件ではなく、犯行の過程で発覚した勲の入れ墨が問題となったのだ。勲は普段、長袖の服を着たり包帯を巻いたりして入れ墨を隠していた。それでも怪我でもないのに包帯を巻いていると噂にはなる。噂程度では相手にされなかったが、実際に入れ墨が彫られているとなると話は別だった。女子生徒に対して行った件は学校側が保護者に対して、それを兄が知ったらどう思うかとか、今後の兄弟関係はどうなるかとか、そもそも(実際は貰っていないが)女子生徒は金を貰ったのだろうとか、(これも事実に合わないが》そちらから誘ってきたのだろうとか、この(嘘を含めた)事実が公になったら女子生徒の未来はどうなるのか、それ以前に証拠もなくこのようなことを言うのは、勲の名誉を著しく毀損する悪辣な行為であるなどと言って、闇に葬ったそうだ。だから、この件は噂として教職員の間で話題にはなったものの、詳しい事情は勲と校長と一部の教員、そして被害者とその両親しか知らない。だからこの件について正式に咎められる事はなかった。

 校長が言う。

「困るんだよねー。神聖にして高潔で崇高な聖職者たる我々の中に、その……なんだ? 任侠映画の怖いというか、裏社会の危ない人というか、とにかく……教育者たる立場上、そういう連中を象徴するようなものを入れた輩を放置するわけにはいかんのだよ。あまりにも不適切だ」と、ネチネチ言って煙草の煙を吐く。挙げ句には「清廉潔白の集まりだとは言っても、君のように腐り切った汚泥を入れられたら、いくら清く正しく美しい我々でも腐臭が付いてしまうからね」とまでサラッと言って退けて、まだ続ける。

「それに、君がやったお遊び、気持ちは分かるけど着任一年目の教員がするようなことじゃないよ」

 ほかの教員も似たような事をしているし、それにせっかく見つけた好みの女子生徒で遊ぶのなら、そのために利用できる兄が使えるうちに使うのは当然だと勲は考える。だから言い返す。

「オレは悪くありません。あのクソガキが誘惑してきたのです。それを無視したら、あんな虚言を吐いてきたんです!」と平気で嘘をついた。

「それに、ほかの教員だってしています。現に――」

「ほかの連中はもっと巧く処理している!」と校長は怒鳴った。

「極端な話、問題にならなければ殺そうが弄ぼうが何をしようが構わんのだ! それにも拘わらずなんだ貴様は! 今回は握り潰せたが、万一こんな詰まらないことが公になったらどうするんだ! ゴキブリめが! 下らない言い訳をほざくのなら、この件を公にするぞ!」

 最後の言葉がハッタリなのは十分わかっていたが、そう足許を見られると何も言い返せない。その代わりに拳で返してやろうかと思ったのだが、それこそ自滅の道だと、このときも怒りを呑み込んだ。萩を殺害し、しかもその事件はテレビや新聞などで報道されていた。DNAも指紋も警察に把握されているのも、インターネット上の記事に書かれていたので知っている。それに勲が起こした事件はそれだけではなかった。警察を呼ばれる訳にはいかなかった。だからこらえたのだ。

 勲は給料日の翌日に、一身上の都合という理由で退職したが、事実上の解雇である。ほかの教員たちも勲に入れ墨があることと、それが発覚した原因を噂で知っていたので、惨めに学校を去る勲を馬鹿な奴だと嘲笑した。そんな同僚たちに殺意を抱いた勲だったが、退職そのものについては関心を示さなかった。利用できそうな、自分好みの女子生徒が少なかったこともあるが、教員の特権である生徒イジメにも飽きが来ていた。だから、朝の出勤時間を気にせずに眠れて、面倒な仕事が無くなるといった程度にしか認識していなかった。収入についても失業手当てを貰ったり、生活保護費を貰えば生活するには困らない。本来なら貰えない立場であっても、適当に理由をつけて騒ぎ立てれば渡してくる場合が多いというのを経験上知っていたのだ。それに、それ以外の収入源はいくつかあった。気が向いたら再び就職先を探すとして、今は気が向くままに道楽に浸っていたのだ。

 シャワーを終えた勲は、今度は自室にあったパソコンを起動させる。勲は以前からSNSをやっていた。他人とネット上での交流を楽しんだり、自慢気に近状報告をするためではなく、単に好みの女性を捕まえるための網として利用していた。プロフィール写真は、人気アニメに登場する二枚目のキャラクターの絵を流用し、ハンドルネームも人気アニメに登場するキャラクターの名前をモジッたものだとファンなら分かるものを使っている。勲はアニメなどに興味はなく、ただキャラクターの人気に便乗して使っているに過ぎなかった。なので、このキャラクターが登場する作品の内容なんて知らないし、そもそも作品の名前自体覚えていない。どこで覚えたのか、女性人気を獲得しようと巧い具合に話題を選び、言葉を選び、写真をネットのどこからか拾ってくる。ほかの女性に人気のあるブログなどから話題や文章を引っ張ってくるのも当たり前のようにしていた。権利者が訴えれば勝てそうなものだが、誰も訴えて来なかったので気にせずにその不正行為を続けていた。閲覧数は自慢できるほどにはなかったが、それでも数少ない訪問者と言葉巧みに仲良くなり、顔写真を送信してもらって、気に入れば出会って暴力的な交流をしていた。警察に言えば写真や動画に記録された交流過程をネットにさらすと言えば、相手はなにも出来なかった。仮に出会えなかったとしても、常識があれば撮影すらしないはずの写真を送信してもらっては楽しんでいた。

 萩を殺害した年が終える大晦日。勲は酒を飲みながら動画サイトで卑猥な映像を観て楽しんでいた。年が明ければ、萩の一回忌まであと一ヶ月である。

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