第三回


 弁当屋のアルバイトが終わったときには、外はすでに暗かった。教授は今日も余った弁当を貰って家路につくと、暇そうにしているオバケが後を付いてくる。いい加減に犯人捜しにでもしたらどうだと教授は言ったが、オバケは応答しない。

「それが嫌なら、犯人捜しは諦めて成仏したらどうだ」

 やはり返事がないので、立ち止まって萩のほうを見る。教授から少し距離をとっていた萩が「なにあの人、一人ぼっちのくせに見えない友達らしき誰かとお喋りしてる。こわーい」と笑ってからかってくる。鬱陶しい。

「誰も見てないだろ。それで……話を戻すけど、さっさと捜しに行けばどうだ」

 そう言うと「疲れた。飽きた。代わりに捜して」と子供みたいに返してくる。

「どうやって?」

「知らない。あれだ。テレビとかに出て、強盗犯に殺された従兄が夢枕に立って、腕にドラゴンの入れ墨をした筋肉ムキムキの男が犯人だって言って泣いているんです。だから、そんな人物に心当たりのある人は……みたいな事をすれば――」

「病院に送られるだろうな」と真面目に返すと、「だろうな」と萩は笑った。

 ふと、萩が誰もいないほうを向いて「どなた?」と言った。そのまま何かを話し出したので「お前のほうが不気味だぞ」と言ってやると、萩が今度はこっちを向いて「ここにオバケがいる」と手前を指差した。だが、誰もいない。

「よく見てみろ」と言うので、教授は指差すほうを凝視してみる。うっすらと浮かぶように中年の男が現れた。

「だれ?」

 思わず訊いた。

「兄貴に殺された太田おおたさんだそうだ」と萩は言った。

 男も「どうも、太田忠広ただひろです」と挨拶してきたので、教授も戸惑いながらもどうもと会釈する。

「死んで半年近くにもなりますが、誰とも会話が出来ずに困っていたんですよ」と太田は笑った。太田が言うには、半年前に兄に階段から落とされて死んだそうなのだが、太田の死体はどこかに隠されたために、家族は太田が死んだとは思わずに失踪したことになっているそうだ。

「それで、兄貴に復讐したいんだって」と萩だ。

 萩といい太田といい、自分を殺した殺人鬼に復讐したいのは分かるが他人を巻き込まないで欲しいと、教授は溜め息を吐いた。

「どうか安らかにお眠り下さい」と、太田に向かって両手を合わせて一礼する。

「ところで、貴方はどうしてこんなところに?」

 太田が萩に尋ねた。萩は自分が強盗に殺害されたこと、犯人が左腕に入れていた黒いドラゴンの入れ墨を頼りに犯人捜しをしていることを告げると、「心当たり、ありますよ」と太田が言った。萩が目の色を変えて太田の胸倉を掴むと、どこの誰だ、名前は、住所は、どんな奴だと質問攻めにする。

「なんでもいいから、知っていることは全部吐け!」

「いや、でも人違いかも知れませんよ?」

「構わん! 八つ当たりが出来れば十分だ!」

 ダメだろうと、教授は呆れた。

「まあ、あとのことはお二人で話して下さい」と言い残して教授がその場を去ろうとすると、「おい、お前は協力しないのか」と萩が言ってきた。

「しない」と歩きながら答える。

「太田さんが気の毒に思わないのか!」

「だからって僕に出来ることはない。それじゃあ」

「こっちのほうが何も出来ないんだぞ! 生きてる奴が協力しろ!」

「人殺しに関わって、こっちまでそちらの仲間になるのは嫌だ。それじゃあ」

「帰ったところで詰まらない小説書くだけじゃないか!」

「はいはい。そうね」と、萩たちに背を向けたまま手を振った。

 なんて嫌な奴だと萩が毒づいた。黙って二人を見ていた太田が――あの人、小説を書いているんですか?――と尋ねてきたので、教授が作家志望であること伝えると、作品の批評をしても構わないと太田は言ってきた。

「批評って、プロのかた? マニアさん?」

「私自身は小説家ではないんですが、菰野こもの出版という出版社で編集の仕事をしていました」

「小説とか?」

「ええ。ライトノベルをしていた事もありますし、純文学もやっていました」

 使えると思った。

「教授! この人、一流の小説家の編集やってたんだって! 批評してくれるって!」

 萩が教授に向かって叫ぶと、彼の足が止まった。

「大手の出版社勤務だったんだって! 貴重な機会だぞ! この小父おっさんが担当した小説は映画化しまくたんだって! たくさんの無名作家を人気作家にしたんだって!」

 太田はそこまで凄くはないと否定したが、あんな奴を騙したところで問題ないと、萩が誇張して何度も叫んだ。

「こんな機会、二度とないぞ! 早くしないと成仏しちゃうぞ!」

 ぼんやりと立っていた教授が振り向いて、ゆっくりと戻ってきた。

「今の話、本当だろうな」

「もちろん、もちろん」と萩は笑顔を見せる。

 困惑する太田も精一杯の作り笑いを浮かべた。


 教授宅に太田を連れて帰る。三人で机を囲って太田忠広を殺害した、兄について話を聞いた。

「小さい頃から嫌な奴だったんです」と、太田は開口一番そう言った。

 兄の名前は太田春郎はるおといって、弟の忠広とは双子だそうだ。兄は幼少期からヤンチャといえば柔らかな表現だが、かなりの乱暴者だったそうだ。だから弟の忠広はしょっちゅうイジメられていて、殴られて鼻血が出たり痣ができる、虫や蛙を怖がるのを知っていて投げつけられる、オモチャを奪われて壊されるといったことは日常的にあったらしい。この頃は親も子供の喧嘩や悪戯と思って甘く見ており、小学校に入っても一向に治まる気配はなかったそうだ。小学三年生のころ、階段の踊り場で喧嘩をした同級生を蹴り落としたことがあり、それで相手が腕だか脚だか忘れたが、どこかを骨折したらしく、さすがに問題になって両親が相手の親に謝罪しに行き、春郎もこっ酷く叱られたそうなのだが、春郎は反省するどころか骨折させた同級生を強く逆恨みして、小学校を卒業するまでイジメ続けていたそうだ。

「教員とかは気付かなかったんですか?」と教授は尋ねた。

「気付いてましたよ。三年生から六年生に担当した二人とも。ですが、二人とも知らんぷりです。よくある事ですね。その同級生は兄が怖くて、自分の親には言えなかったそうですね。そのせいか、中学校は別の学校に行ったらしく、中学で会いませんでしたから」と太田は答えた。

「貴方は、なにもしなかったんですか?」と萩だ。

「一応、何度か教員にそれとなく言いましたよ。それに別の同級生が、兄のイジメを報告するのも何度か見たことがあります。ですが、お咎めなしです。私も親に言おうか迷いましたが、仮に言えばまず間違いなく逆恨みされて酷い目に遭ったでしょうね」

 小学生時代の兄はほかにも、自分の都合が悪い状況になると弟である忠広の名前を出してその場を潜り抜けていたらしく、恐らくは年上だと思われる知らない少年から突然名前を訊かれて答えるなり殴られたことがあり、兄が駄菓子屋で万引きして捕まったときにも忠広の名前を名乗ったものだから、学校で犯罪者扱いされたこともあったそうだ。

「漫画でしか見ないようなクズですね」と、さすがの萩も呆れた。

 兄の春郎は中学まではガキ大将といった立場で、邪悪な独裁者のように振る舞っていたそうなのだが、高校になって状況が一変した。成績は良くなかったので不良が多い三流高校に入ったそうなのだが、そこでイジメる側からイジメられる側に転落する。忠広とは幼少のころから険悪の仲だったために、高校でなにがあったのかは聞いていないが、ある日……傷まみれで帰ってきたことがあった。血と泥で学生服は汚れて、しかも破れてる箇所もあった。どうせ自分を過信して、危ない連中に喧嘩でも吹っ掛けたんだろう。弟の忠広は正直、兄に天罰が下ったとか自業自得だと思っていた。そして兄の春郎は入学から一年どころか半年を待たずに高校を退学する。一年ほどは家から出ずに引き籠もっていたそうなのだが、それ以降は昼夜を問わず気が向いたら外出するようになる。小遣いの前借りは以前からあったそうなのだが、この頃からは親や忠広の財布から金を盗むようになった。一応は、アルバイトだが職を転々とするようになるが、どの職も問題を起こしたり飽きたと言ってはすぐにやめたそうだ。春郎は親の勧め……というか、親が小遣いで釣る形で単位制高校を卒業していたため、今度は仕送りを理由にして無名の大学にも入るのだが、ろくに勉強もせずに遊び呆けては、結局は大学を中退して実家に戻ってきたそうだ。その後も実家に住みつき職を転々としていたそうだ。

 太田兄弟の仲は、小さい頃から今に至るまで非常に険悪で、仲良く顔を合わせてお喋りするなんてことは一切なかった。だから、忠広は兄を結婚式にも呼ばなかったし、当時は婚約者であった妻を両親に紹介するときも、春郎のいる実家ではなく、当時忠広が住んでいたアパートに両親を招いて行ったほどだ。忠広たちの祖母は、忠広の結婚二年目の年に他界したのだが、祖母の葬儀のときも妻を連れて行かなかった。兄と妻を会わせたくなかったのだ。兄の春郎は祝儀や香典に強い興味を持ったが、儀式そのものには不干渉だったために、祖母の葬儀のときに会うことは無かった。だが、忠広の予想通り……葬儀が終わるころにやって来て、香典を半ば盗んで帰って行った。

 忠広は子供と両親を会わせるときも、実家に家族を連れて行くことはせず、両親を自宅に招いていた。太田の両親は、他人からすれば面白味がないほど普通に孫と接していたのだが、あの兄と子供が会うと考えるだけで、忠広は恐ろしかった。忠広自身が幼い頃にイジメられた記憶があるからだろうが、あの兄なら些細なことで癇癪を起こして、手加減せずに子供を殴ったり蹴ったりするのは目に見えていた。だから、忠広の妻も子供も、忠広に兄がいるのは知っているが、話に悪い奴と聞くだけで会ったことは無かったし、当然ながら顔も知らなかった。

 数年前から、兄の金遣いが荒くなってきたので、その理由を尋ねたのだが春郎は答えなかった。最初は宝籤でも当たったのかとも思ったそうなのだが、世の中そんなに都合がいい訳もないので調べてみると、親の財産を食い潰していることが分かった。親のこの事を告げると、呆れているのか諦めているのか、暗い表情をするだけで特に反応はなかったそうだ。このままだと本当に好き勝手に振る舞うので、忠広は兄を問いただす。そのときに兄と話した部屋は実家の二階だった。春郎はこの事を親に言ったのかと怒鳴ったので、すでに伝えてあることと、今後の親の財産管理は自分がする旨を告げて、親の銀行通帳などを探しに階段を下りているときに殺されたそうだ。死後、忠広が気付いたときには実家の階段の下にいたそうなのだが、すでに死体はどこかに運ばれており、今はどこにあるのか分からないそうだ。

「教授を、推理小説の探偵みたいにして、兄貴を捕まえられないかな」などと萩が言うが、人殺しと直接関わりたくないと教授は拒否する。

「そもそも、どうやって関わりを持たせるかという話にもなりますね」と忠広だ。

「死体の場所さえ分かれば、手紙かなにかで家族だの警察だのに、そこを探せって伝えれば終わりなのに」と萩が零すと、教授らが萩に注目する。

「それですよ」

 忠広の言葉に、萩がなにがと戸惑った。


 翌日、教授は懸賞に応募するつもりでいる小説を、太田忠広に読んでもらっている。忠広は死んでいるので物を掴むことが出来ず、作品はパソコン画面に表示させて、太田の指示で教授が次のページを表示させる。

「どんな感じですか?」と教授。

「うん。……まだ未完成ですよね?」

「はい。一応、この章は校正したつもりなんですけど……」

「んー。……次のページをお願いします」

「はい」

 一章目を読み終える。

「どうでしたか?」

「なかなか面白いですよ。構成も掴みもいい。続きが読みたくなる話です」

 忠広の言葉に、強張っていた教授から安堵の笑みが零れた。

「ですが――」で、教授の心が再び張り詰める。

「総合すると中級者の作品といった感じですね。まだプロとは言えない。文章も素直に書けばいいところを妙に技巧を凝らそうとしたり、漢字の表記が無駄に難しかったりしています。それにぎこちない描写もあります」

「そ、そうですか?」

「ええ。素質は感じますが、これだけ読んだ感想としては道半ばと言ったところでしょう。最後までこの調子だとすれば、どの懸賞に応募するのかは存じませんが、よくて一次審査を突破する程度で、それ以降は難しいでしょうね」と忠広は結んだ。

 そうですかと、教授はガッカリしてパソコンの電源を切る。

「どのくらい書いたんですか?」

「六万字ちょっとです」

「……そうですか」

 忠広は立ち上がる。

もう行くんですかと、二人から離れていた萩が尋ねた。

 ええと太田は答えて、教授に「また準備が出来たら幾らでも読みますので、そのときは声をかけて下さい」と言った。

「じゃあ、教授。作戦通りに宜しく」と萩が言うと、顔を逸らしながらも分かったと、こちらに向かって手を挙げた。

 萩と忠広は、兄の春郎が住んでいる実家に向かう。萩たちが実家に着いた頃には不在だった兄は、日が暮れて少ししてから帰宅した。

「どこに行ってたんですかね?」

「さあ?」と忠広と萩が兄の面前で普通に話すが、春郎は当然ながら気付かない。

 そのまま春郎は居間でテレビを観ながら酒を飲んだり、食事をしたりとめぼしい行動を一切しない。特記するようなことは何もないままに、その日を終えた。

 翌日、郵便箱に封筒が入っていた。宛先は太田春郎である。それだけなら何も不思議ではないが、差出人が太田忠広と書かれていた。兄は思わず封筒を落として退しりぞいた。動揺しつつも頭を冷やして考える。忠広が死ぬ前に送ったのであれば、なにも不思議ではない。だが、殺したのは半年も前だ。ありるか? いや、あれだ。なんだ? そうだ。郵便局の怠慢だ。きっとそうだ。

 消印を確認する。この町の消印。日付は昨日だった。春郎は目玉が飛び出るほどに目を見開いて、口も大きく開けている。死者からの手紙という不可解な現象を、現実的な発生理由を考える。字は忠広の字ではなく印刷された活字である。最初に思い付いたのが悪戯だったが、こんな悪戯をする理由が分からない。忠広の子供か? いや、全く交流のない伯父にいきなりこんな手紙を出すとは思えないし、わざわざ印刷してまで出すだろうか。封筒なので手紙は中にある。深呼吸した春郎は、中身を取り出して目を通す。

『すぐ傍にいるぞ。弟より』

 そうとだけ書いてあった。春郎は妙な声を上げて腰を抜かした。首を回して周囲を見るが誰もいない。いや、実際には萩と忠広がその様子を見ているのだが、春郎は気付かない。

「忠広! 居るのか! 居るなら返事をしろ!」

 兄がそう叫ぶので、居るぞと忠広は答えるが、春郎には聞こえていない。

「いや、そんな筈はない。確認したんだ。死んだんだ。ありえない」

 春郎が小声で呟いた。これは悪戯だと何度も自分に言い聞かせて立ち上がる。両手で頬を数度叩いて、手紙を封筒に戻すとそのまま破ってゴミ箱に捨てた。

 次の日も封筒が届いた。今度も宛先は春郎だが、差出人が書いていない。春郎は警戒しつつ手紙を読んでみる。

『どうして弟に気付かないのですか。ずっと傍にいるのに』

 さらに翌日の手紙。

『オレの手紙を読んだときに、気持ち悪い声を出して腰を抜かしましたね。ところで、少し残念なことがあります。オレの名前を呼んだときにすぐ傍で返事をしてやったのに、どうして気付いてくれなかったんですか』

 この手紙を読んだ途端、春郎は憤ったのか手紙をその場で何度も破って、すぐにゴミ箱に捨てた。その日の夜に忠広を春郎の傍に付かせた状態で、教授宅で萩と教授が作戦会議をする。

「太田の兄貴が、手紙を無視するようになったらどうするか」と萩だ。

「手紙を無視するようになったら、弟の亡霊にビビって自首作戦が失敗に終わる」と続ける。

 ならば警察に手紙を送ればいいと教授が意見する。そのほうが早いしとも付け足した。

「行方不明者の悪戯と思われないだろうか」と萩が反論した。

「監禁されていると書けば?」

「監禁されてるのに、なんで手紙が出せるんだ?」

「ああ……。太田さんの実家周辺で手紙を散撒いたとしても、実家に太田さんが居なければ無駄か」

「せめて死体の場所が分かればなあ」と萩が天を仰いだ。

「酷評された中級素人作家さんには、なにかいい案はないの」と続ける。

「心霊現象を起こせれば、太田さんのお兄さんも怖がって自首するんだろうけどね」

そう言うと、萩が「それが出来れば、お前みたいな中級素人作家さまなんかに頼らずに済むんだよ」などと憎まれ口を叩いたので、思わず「済んで欲しかったよ」と教授は苦笑する。

 案を練りつつ、翌日に送る手紙を準備する。教授がパソコンで書いたものをプリンターで印刷するだけだった。このときに教授の指紋が付かないように注意する。

「電話を掛けるのはどうだ?」と萩だ。

「不審な電話に出ないかも知れない。それより、太田さんの家族に手紙を出すのはどうかな?」

「太田さんが死んでいるのを知らない連中に送ったら、太田さんが生きていると思われるからやめたほうがいい」

「殺されたと書けばいい」

「なんで死んだ奴が手紙を書けるんだよ」

「ああ、そうか。お前といい太田さんと普通に話をしてるから、ありそうに思えてきた」

 教授が少し考え込む。

「ああ。やっぱり死体がないと、うまくいかない」

萩のぼやきを聞いて閃く。

「いや、待てよ。死体は動かしましたってお兄さんに伝えれば、様子を見に行くんじゃないか?」

「あ! そうか」

 今度は萩が閃いた。


 それから数日は、春郎の許に手紙は来なかった。春郎も死んだ弟からの手紙を忘れつつある頃に、差出人不明の封筒が届く。ふと、嫌なことを思い出したが、それでも春郎は封を開いて手紙を読んでみる。

『伝え損ねておりましたが、オレの死体を移動させました。あんなところに居たくありませんし、きちんと成仏するためにも供養されたいのです。もちろん、そのために移動させたので、近々誰かに発見されると思います。発見した方には大変申し訳のないことではありますが、せめて最後に妻と子には別れを告げたいので仕方のないことですね』

 兄の顔が蒼くなる。靴箱の上に手紙を置くと、そのまま台所の床にあった蓋を開けて縁の下を覗いた。兄に続いて忠広も覗いてみる。二人の傍にいた萩がどうですかと声をかけると、今度は青ざめた忠広が萩を見た。

「ありました」

「どんな感じで?」

 萩の問いに忠広は首を横に振って、絶対に見ないほうがいいとだけ言った。萩からしたら、そう言われたら見たくなるのだが、見るのが死体だと分かっているだけに、やはり気持ち悪いという思いのほうが強かった。

 兄が蓋を閉じて、やはり悪戯かと舌打ちする。萩はその場に忠広を遺して、急いで教授の許に向かった。

 そしてさらに数日後の朝、春郎が外出する直前にインターホンが鳴った。あまりにもしつこく鳴らしてくるので、頭に来た春郎がなんだお前らとインターホン越しに怒鳴ると、相手は国税査察官……いわゆるマルサらしい。脱税の容疑があるから家宅捜索させろと言ってくる。そんな事をされてしまえば、弟の死体があるのがばれてしまう。春郎は怒鳴り散らして拒否するが、それが査察官の不信感を駆り立てる。令状もあると言い、玄関を開けないのなら無理やりにでもこじ開けて入ってくるとまで言ってくる。

 春郎は動揺して台所に逃げた。必死にどうするかを考える。査察官を言葉巧みに騙して帰ってもらえるほど頭がいいと自惚れるほど馬鹿ではない。なら逃げるか。どこへ逃げる。逃げる当てがない。すぐに持ち出せる金なんて高が知れている。一生逃げ切るどころか一週間も逃げる自信もない。いろいろ考えを巡らせていると、玄関から鍵が開く音がした。いかん、入られる。春郎の思考は止まって体だけが動いた。

「な、なに勝手に入ってるんだ! 不法侵入だぞ!」と言って査察官の胸倉を掴もうとするのだが、すぐに体格のいい二人の査察官に取り押さえられる。そして「これ、ご確認を」と令状を見せられた。

「なんだ、その紙切れは!」

 その後も放せだのふざけるなだの言って喚いた。査察官は慣れているのか、特に表情を変える様子もなく、金は台所の下にあるはずだと話している。

 もう終わりだと春郎は絶望した。すぐに台所から驚く声が聞こえてきた。全身から体の抜け切った春郎は、駆け付けた警察官に大人しく連行されていった。

 警察が調べた結果、台所の下に隠されていた遺体は太田忠広のものであると判明した。歯形ですぐに確認が取れたそうだ。ただ、捜査官が困惑したのは、春郎の脱税を密告した手紙の差出人が、発見された犠牲者である太田忠広であることだ。手紙の消印は実家の町と同じで、指紋や遺伝子など差出人の手掛かりになりそうなものは遺されていなかった。手紙には、兄の春郎が膨大な金額を脱税して台所の下に隠している事とその脱税経緯、それを知った自分に対して春郎が殺意を抱いているために姿を隠していることが書かれていた。査察官が警察に問い合わせて、忠広が失踪していることが分かったために、すぐさま行動を起こしたのだ。

「どうして、こうなったのか分かりません」

 取り調べを受けた春郎の言葉だ。春郎いわく、親の財産の使い方で弟と揉めて、驚かせるというか威嚇のつもりで階段で弟を軽く押したら、そのまま落ちて死んだという。そして怖くなったので、弟の死体を縁の下に隠していると、その弟から手紙が届いた。それがんだと思えば今回の一件である。

 ならば殺意は無かったのか。刑事のその言葉には、はっきりと「はい」と答えた。

 今回の事件解決の手掛かりになった手紙の差出人が太田忠広なのは偽名として使ったと言えば説明がつく。だが、それでも警察が解せないのは、犯人と犠牲者しか知り得ない情報を、誰がどうやって知り得たのか。泥棒に入ってたまたま遺体を見つけた人物の仕業だろうか。しかし、そんな奴がこんな事をするだろうか。それとも本当に死んだ太田忠広の幽霊が行ったのだろうかと色々と噂になり、その噂は時間を置いて巷にも流れることになる。

 無論、この手紙を太田の代わりに出したのは教授である。あのとき「お巡りじゃなくて、税務署とかに送ったらどうだ」と萩は提案したのだ。

 なぜ税務署なのか教授が尋ねると、自分が殺されて縁の下に死体を隠されているなんて手紙を書いても誰が信じるのかと言い返したので、確かにと同調する。早く捜査機関に動いてもらうなら別に警察じゃなくてもいいとまで萩は言って、さらには忠広が行方不明扱いになっている事実をも巻き込んで、「失踪しているのは脱税の事実を知って、兄貴から殺されないために逃げているからだとでもしろ」だとしたのだ。

 その案はすぐに忠広に伝えられて、そのほうがいいかも知れないと忠広もその案に乗った。そして脱税の密告先に都合がいいところを探し選んで、例の手紙を送ったのだ。

「一番災難だったのは、マルサの連中だろうな」

 教授の自宅で、萩は言った。

「殺された太田さんだと思うよ」と教授が返す。

「でも、えぐい死体を見るはめになったんだぞ。一生トラウマだ」

「まあ、そうなるかも知れないね」

 そんな話をしていると、忠広がやって来た。

 兄貴の様子を萩が尋ねると、「殺意は否定しています」とだけ忠広は答えた。

「これから、どうするんですか」

 今度は教授が尋ねた。

「黒いドラゴンの奴の情報は貰いますよ」と萩が続く。

 忠広は一息吐く。

「もちろん、約束ですから心当たりは教えます。ですが一旦、家族の許に帰らせて戴きたい。明日は私の葬儀らしいので、最後に家族と会っておきたいのです。それと一つお願いがあるのですが、宜しいですか」

 萩たちは忠広の話を聞く。

 忠広の葬儀の翌朝に、彼の家族の許に封筒が届いた。妻の直美なおみがそれを開けてみる。二葉の手紙が入っていた。一通は息子の友治ともなりに、もう一葉は直美にだ。

『友治へ。分かっているとは思いますが、お父さんは訳があって遠い遠いどこかへ行くことになりました。もう会えなくなると考えると悲しくて辛いです。ですが、あなたはお母さんに似てしっかり者だと思いますので心配ではありますが、不安はありません。いろんな気持ちが頭の中でグルグル廻って、正直……なんて書けばいいのか、なんて伝えたらいいのかお父さんには分かりません。ですが、一言だけ伝えるとすれば、せめて元気で幸せに生きて下さい。お父さんは遠くから、あなたを見守っています。それでは、さようなら』

 妻・直美への手紙。

『直美へ。こんな事になってしまって、どうお詫びしていいのか分かりません。これから友治のことを宜しく頼みます。こんな私に寄り添ってくれて本当にありがとう御座いました。私は幸せ者です。私が貴方を想う気持ちは、貴方と初めて出会ったときから片時も変わったことはありません。今だから白状しますが一目惚れでした。平凡な言葉ではありますが、今まで貴方と過ごした時間は、私の人生において最高に幸福な時間でありました。ですが、その時間が終わってしまうと考えると悲しくて辛くて苦しくて堪りません。貴方の心の中に私がいて、貴方が私を想って下さっている限りは、私の心は常に貴方の傍にいると信じています。貴方を遺して居なくなってしまう自分が、こんなことを言うのは何様かと思われるかも知れませんが、どうか幸福な人生を過ごして下さい。これが最後なのに、自分の気持ちをどう伝えてよいのか分かりません。書きたいことは山ほどあるのに、どう書いていいのか分かりません。なので簡単に書きます。愛しています。それでは、ご自愛のほどを。さようなら』

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