第二回


 昼前になって、予定の時間より少し遅れた坊主が佐倉宅に訪れた。――申し訳ない。急用が入りまして――と、頭の禿げた五十代ほどの坊主が軽く詫びつつ「このあとも用事が御座いますので」とすぐに法事を始めた。教授も親戚たちと一緒に坊主の念仏を聞いているときにふと、萩が居なくなっているのに気付いた。坊主が来るまでは、確かに居たはずである。そのまま萩は、坊主が念仏を唱えている間は姿を見せなかった。教授は内心、このまま成仏してくれれば有り難いと思っていたのだが、坊主と入れ違いになる形で萩がまた出てきた。そのときの第一声が「ハゲ帰った?」である。どうして居なくなったのか尋ねると、まだ成仏したくないからだそうだ。どうやら、怪談話やオカルト映画にあるように、念仏を聞くとオバケは成仏してしまうようなので、坊主を真似て合掌して南無阿弥陀仏と数度唱えてみたが、呆れた萩に馬鹿かお前はと返されただけだった。念のために隠れただけなのか、修行した僧侶の念仏しか効果がないのか分からないが、正直……教授は酷く残念な気持ちになった。

 萩は犯人捜しを教授に手伝わせるためか、帰路についた教授に付いて行った。電車に揺られてバスに乗っている間、ずっとオバケが傍に付いている。見える人からすれば、友人かなにかと一緒に行動しているようにしか見えないだろうが、教授からすれば不気味で仕方がなかった。

 家に着く。入った途端にただいまーと萩が能天気に言った。当然のことだが、奴が教授の家に来たのは今日が初めてだ。

 教授の家は、かつて萩が住んでいたようなワンルームのアパートの一室だ。その部屋の奥には机と椅子、ベッド、テレビ、低い机、簡素な箪笥に大き目の本棚があり、特に本棚には昭和に活躍した文豪たちの諸作品が並べられている。パソコンが置かれている机には、明治から大正・昭和初期に活躍した文豪の作品が印刷されたコピー用紙の束がある。

「なにこれ?」と萩がその用紙を見た。

 夏目漱石の『夢十夜』と、その下には太宰治の『走れメロス』がある。その下にも何作かあるが埋もれて題名も作者の名前も分からない。

「おお、懐かしい。“メロスは激怒した”ってやつだ。許さぬぞ、暴君セリヌンティウスめが!」と萩は言った。

「セリヌンティウスはい人」

 教授が冷たく言って椅子に座った。

「そうだっけ?」

「身代わりに捕まったのがセリヌンティウス」

「あ、そう。じゃあ、王様の名前はなんだ?」

「忘れた。この作品で、王様の名前なんて正直どうでもいい」

 萩がほかの様子も見る。テレビを載せている台も箪笥も、なんら面白味がない。本棚に目をやると、最近の小説家の作品や漫画の単行本も無いわけではないが、多くが誰でも名前くらいなら聞いたことがある小説家たちの小説である。

「ここには夏目も太宰もないんだな」

「著作権の切れているやつは、インターネットから引っ張ってきて、それを印刷しているからね」

「ここにあるのは、みんな《著作権が》生きているのか」

「ああ。買ったあとに切れたのもあるけど。まあ、ネットで拾った作品でも、ページ数が多いと印刷しないけど」

 そうかと、萩はなんとなく本棚の下部を見る。印刷した作品が積まれていて、一番上に置かれた作品が永井荷風の『雨瀟瀟あめしょうしょう』だった。

「永井カフウの、雨……なんだ?」

「永井荷風の雨瀟瀟あめしょうしょう。この人、知らない? 違う作品だけど太宰治の『女生徒』にも出てくる」と教授は言った。

「名前しか知らん。それより『女生徒』ってなんだよ」

「女生徒の一日を描いた作品」

「面白いの? それ」

「思春期の少女の心理描写が素晴らしいって評価されてるんだ」

「男が書いたのに?」

「ああ。太宰治のファンの女性の日記を参考にしたらしいけど。まあ、『走れメロス』も基はどこかの伝説だしね」

「太宰なんてメロスと『人間失格』くらいしか知らないな」と萩は笑った。

「読んだことあるの? 『人間失格』」

「ない。太宰が『人間失格』を書きましたってくらい」

「あれも内容は興味深いんだけど、中身が暗くてドンヨリしてるんだよね」

 そう言って教授はパソコンの電源を入れた。

「恥の多い人生を……なんとか、だっけ? 始まりから真ッ暗だ」

 萩の言葉に、「そうですね」と心の籠もらない返事をする。

「我が輩は猫である……とは大違いだ」と萩は笑った。

「それ、夏目」

「知ってる。この猫、最後どうなるんだ?」

「死ぬ」と言って、教授はパソコンのキーボードを何度か叩いた。

「そうだろうけど、話の最後で――」

「本当に死ぬんだよ」

 マジでと萩は教授を見た。

「あんな能天気な始まりかたなのに。なんで死んだ? 三味線か!」

「溺死するんだよ」

「なんて事だ。猫は水が苦手らしいのに。さぞかし未練タラタラな死に様だったろうに。オレと一緒じゃないか。ああッ……」

 そう言って萩は教授から目を背けた。

「読む?」

「長い?」

「かなり長い」

「じゃあ要らない」

 なにやってんのと、萩がパソコン画面を覗いた。文章ファイルにはなにかの小説が書かれている。

「なにこれ?」と萩は訊いた。

「懸賞小説を書いてるんだよ」と教授。

「お前、作家にでもなるのか?」

「当たれば普通の会社員より大金持ちだし、いい副業になる」

 ファイル名には『森川太夏:ヒーローに成りたくて』と記載されている。

森川もりかわ……タナツ?」

「ヒロナツって読むんだ」と教授。

「ああ。そういえば、そう読めたな。で、由来は?」

「森鴎外、芥川龍之介、太宰治、夏目漱石」

「好きなのか? そいつら」

「ペンネームを考えているときに、たまたま目に入った四人の名前を参考にしたんだ。『芥』は意味が悪いし、あんまり名前には使われない字だから、代わりに二文字目の『川』にしたんだ」

「とばっちりだな」と萩は笑った。

 読ませてほしいと萩が言ってきたものだから、感想を聞くために読ませることにする。当初はヘラヘラと笑って読んでいた萩だったが、二三ページ目には飽きたと言い出した。

「感想は?」

「つまらん」

 精魂込めて作った作品を一蹴されて不快にこそ思った教授だったが、それを呑み込んでどう詰まらないのか尋ねたが、詰まらないものは詰まらないと鰾膠にべもない。挙げ句には「そんなもの応募するだけ恥をかくだけだから、やめとけ」とまで言われる始末である。

「内容全部の構想は終わっているし、十三万字中、五万字も書いたんだ。今更やめる訳にもいかない」

「駄作は五万だろうが十三万だろうが、駄作は駄作だ。諦めろ。出来損ないの失敗作なんて生み出す価値もない。時間の無駄だし恥かくだけ。完全にゴミ。いや、ヒーローだから戦死だな。アルバイトしたほうが、よっぽど金持ちになれる」

 ここまで言われると怒りを通り越して、成仏も出来ない亡霊ごときにここまで言われるのかと、妙に可笑しくなって思わず苦笑した。

「そんな事より、インターネットに繋いでもらえる?」

萩が言ってきた。

「なんで?」

「犯人捜し」

 どうやってするつもりなのか訊いてみたが、萩はとにかく繋げろというので繋いでやる。画面に検索サイトが表示されたのだが、そこから画像検索のページに入るよう命令してくる。

「なにをする気なの?」と教授は尋ねた。

「いいから。『入れ墨』、『黒いドラゴン』と入れて検索してみろ」

 馬鹿だと思った。

「あのさ、それで犯人の手掛かりを探す気なのかも知れないけど、絶対に無理だと思うよ」

「ダメで元々だ。とにかくやれ」

 指示通りに言葉を入れて検索する。黒いドラゴンの入れ墨のほかにも、ドラゴンのイラストや別の入れ墨の写真、なんで引っ掛かったのか理由が分からない画像なども表示される。萩がそれらを一枚一枚念入りに見るのだが、萩が見た犯人が入れていた黒いドラゴンは無い。

「仮にあっても、同じ模様を入れただけかも知れないし……」

「…………」

「シールなら取ればお終いだ」

「シールじゃない。引っ掻いても剥がれなかった」

「ペイントだったら?」

 萩があっと凍りつく。

「ペイントで一週間程度で消えるやつなら、もう消えてるよ……絶対」

 溜め息の音がした。想像していなかったのか尋ねると、考えないようにしていたのだと返ってきた。

「…………。犯人の手掛かりって、腕のドラゴン以外にないの?」

「筋肉質だった」

「どんな顔してた? 誰かに似てるとかは?」

「見えたのは鏡に映った姿だけだったからなあ」

「入れ墨だけど、本当にドラゴンなの? トカゲとかじゃないの?」

「羽と角の生えた、でっぷりトカゲか?」と萩は小さく笑う。

「それに鏡に映っていたんなら、左右を間違えたなんてことは?」

「無い。死んだあとは一週間も家の中に閉じ込められたけど、そのときに何度も検証した。間違いなく左腕だ」

「仮に左腕のドラゴンだったとしても、それだけでどうやって捜すんだよ」

 教授が椅子にもたれて天を仰いだ。

「DNAなら分かっているそうだぞ?」

 そう萩は言った。

「どういうこと?」

「うちの家を調べた刑事に付いて行ったら、犯人のDNAが遺っていたそうだ」

「刑事に付いて行ったの?」

「ああ。だから自分の通夜も葬儀にも行ってない」

 それなら無理してでもどちらかに出ればよかった。まあ、警察が犯人の遺伝子を把握しているのなら冤罪でも構わないから、別件で犯人を逮捕してしまえば、DNAを調べて萩を殺害した犯人だと証明できる。口には出さなかったが、教授はそう考えた。

 ところでと、萩が言い出す。

「ほかの言葉で画像検索するとか、ブログとかSNSとか調べまくれば、オレを捜した犯人の情報があると思うんだけど、なんかいい手はないか?」

 この亡霊はまた無茶を言ってくる。

「萩、お前……ブログとかSNSとかした事ないだろ」

「ないね。そもそもSNSとかは、仕事以外でする奴は自己顕示欲の塊みたいな連中しかいないと思ってるし、それを見るのは余程の物好きだと思ってる」

「だろうね」

「検索とかだけで捜すのは、やっぱり無理か」

 そう言って萩は教授を見た。

「藁山から針だね。それに犯人が情報をネットに上げていることが前提だから、まず無理だと思う」

「誰かが勝手に上げてるとかは?」

「そういうしつけがなっていない事をする大馬鹿者もいるけど、それでもやっぱり無理だと思う」

「どうしても?」

「どうしてもやりたいなら、パソコン貸すから自分でやって」

「オバケだからパソコン触れない」と萩。

 えっと今度は教授が萩を見る。

「握力とか一切無くなった感じ。だから代わりにやって」と萩は言う。

 教授は鼻から大きく息をついて項垂れる。

「早く成仏して欲しい……」


 大学生である教授は授業がある日は大学に行き、それ以外は執筆活動かアルバイトが主である。執筆活動の合間にインターネットで資料を集めたり、気分転換と称してゲームをしたり録画してあった映画を観たりもする。出不精なので遊ぶために外出することは少なく、友達に誘われたら渋々行くといった感じである。

 今まではそんな感じで済んでいたが、今は萩という亡霊が傍に付き添っている。この世の地獄である。大学に行っているときやアルバイトをしているときには萩は現れなかったが、それ以外の時間にはどこからともなく現れて、犯人捜しを手伝えと言ってくる。ヘラヘラ笑いながら言ってくるので、犯人への憎悪や執念というよりは、嫌がる教授を見て楽しんでる観すらあった。

 本屋でアルバイトをしているとき、付いてきたのか萩がいた。まあ無視するのだが、萩はレジにいる大学生の女性店員に対して「お姉さん、いくつ? なんて名前? なんでこんな仕事してるの? なんであんなアホと一緒に仕事しなきゃならない仕事に就いたの? 転職したほうがいいよ。あいつ懸賞小説なんか書いてるんだぜ。しかも詰まらないのに五万字も書いたんだって。馬鹿だよねー」と反応がないのにも拘わらず話しかけ続ける。恐らくは自分をからかっているのだろうと教授は思ったが、害は無さそうなので無視する。

 棚に置かれた本が散乱しているのに気付いて整理に向かう。レジにも客が何人か入ってきて、さっきの女性店員が対応する。萩はからかう的が消えたのに気付いて店員から離れたとき、サラリーマン風の中年男が鞄に本を入れたのを偶然見つけた。万引きである。

「おい教授! 万引きだ!」

 その声に反応した教授が萩のほうを見ると、萩が店の奥のほうを指差している。教授は隠れつつ指されたほうを見ると、こちらに背を向けている男が、再び商品の本を鞄に入れた。「見た? 見た?」と萩が何度も訊いてきたので、教授は小さく頷いた。

 男は漫画雑誌を一冊持ってレジに並んだ。男の犯行時には、女性店員はレジの対応をしていたので、男が万引きをしたことに気付いていない。ここで鞄に入れていた本を出して代金を支払えば、非常に怪しいが問題はない。教授は本を整理する振りをして男を見ていたが、鞄から本を取り出す気配はない。男は漫画雑誌の代金を払っただけで、小走りで店から出ていった。

「出たぞ!」と萩が叫んだ。

教授も駆け足で男を追った。

「お客さん、忘れたことがありますよね?」と男の肩に触れた瞬間、「触るな!」と男に押された。運悪くその拍子に足をひねって体勢を崩し、男は逃げ出した。

「あ! 待て! 泥棒!」と教授は叫んだ。すぐに立とうとしたが、足首が痛くてすぐには立てなかった。それでも痛みを堪えて犯人を追うが、どこに逃げたのか分からない。

「こっちだ!」

 萩の声だ。路地裏のほうを指差している。周囲の地理は、漠然とだが教授の頭に入っていたので、犯人が逃げ出しそうなところを予想して先廻りすることにする。

「お前は犯人を追いかけて、どっちの方角に逃げたか教えてくれ!」

 萩に言うと、教授は違う方向へと走った。時たま「北!」だの「東!」だの萩の叫ぶ声がした。

「東!」と叫んだ萩の声に、教授は走りながら小さく北叟ほくそ笑んだ。萩の声で多少の修正こそしたが、やはりあの男は人通りの多い道に向かって走っていた。

「路地裏から出る!」

 萩の声を同時に出てきた男に飛びついて、倒れる形で取り押さえた。

「お客さん、鞄の中身……見せてもらえますよね?」

 教授の言葉に男は観念する。店に連れて帰り、控え室に椅子に男を座らせた。事情を聞いた店長の男が犯人の鞄を確認すると、人気のある漫画や小説の新刊などが何冊も出てきた。もちろん購入していない本である。

「なんで盗んだんですか?」

 店長は当初、犯人に敬語を使っていたが、強面で筋肉質の男がしかも普段よりも声を低くして言うものだから、犯人でなくても針の筵である。犯人の男も怯んでか何も言わなかった。

 萩はあの店長の腕について教授に尋ねたが、首を小さく横に振って強盗殺人犯ではないと伝えた。

「おい、警察を呼べ」と店長が教授に指示を出すと、「ちょっと待って下さい!」と男が止めた。

「なんだ?」

「け、警察だけは勘弁して下さい」と、男は情けない顔をして言った。

「これだけ盗んでおいて?」

 店長が一冊二冊……と声を上げて被害品を数えると十六冊もあった。ジャンルもまちまちで、少年漫画が何冊もあると思えば、少女漫画や推理小説、恋愛小説といろいろある。

「これだけ盗まれると本屋は大赤字なんですよ。一冊の被害を補填するのに、何冊売らないといけないのか、あんた知ってんのか?」

「す、すみません」

「すみませんじゃないよ。それにしても、あんたは随分と多趣味なんだな」

 店長が恋愛漫画を手に取った。男性間の同性愛を描いた作品である。その本の下にあったのが、女性の同性愛を描いた作品だ。その隣には王道の少年漫画だってある。

「少年漫画に、少女漫画、推理小説に男女の恋愛かと思えば、マニア向けの同性愛ものに外国語の辞典に専門書とまあ、これ全部あんたの趣味か?」

 店長がただす。男は俯いて何も答えない。

「警察を呼べ」と、再び教授に指示を出す。

「待って下さい! そんな事をされたら離婚されます!」と男が叫んだ。

「こんな事されたら、うちが廃業になるだろうが!」と店長が怒鳴った。

「全部、転売する気だったんだろ!」と続けた。

「すいません。つい出来心で」

「出来心で十六冊も盗む馬鹿があるか!」

「お金は全て払います!」

「もうそんな次元じゃない! そんな事も分からんのか!」

 店長が机を強く叩いた。すぐにでも男に殴り掛かる剣幕である。

「店長、警察に通報してきます」

 教授がそう言うと、店長は大きく息を吐いて「任せた」と両腕を組んだ。

 十分と経たないうちに警察官がやって来て、犯人の男を連行していった。教授は――よくやった。でかしたぞ――と店長に誉められた。そのあとでレジ対応をしていた女性店員から、店の奥から店長の怒鳴り声が聞こえていたと聞かされた。なにを言っているのかまでは分からなかったが、相当怒っているのは分かったそうだ。万引き犯のせいで痛めた足は、店長や女性店員から心配されたのだが、大した事はなさそうだったので気にせず仕事に戻る。その傍で「これは貸しだからな。ちゃんと返せよ」と得意気になっているオバケが何度も同じようなことを言ってきた。


 自宅にいる教授が、パソコン画面に向かって難しい顔をしている。退屈していた萩が画面を覗いてみると、例の懸賞小説の筆が止まっていた。十三万字は書くだけの話はあるんだよねと教授に尋ねると、どうやらこの章の構想分だけでは少し足りないらしい。教授は全十三章で、一章につき一万字を想定していたそうなのだが、現在書いている章においては一万字も書けないそうだ。

「次のやつを持ってきたら」との萩の提案も、「そんな事をしたら次の章が足りなくなる」と言って拒む。

 どうにかして、あと三千字程度は雑談や小さな出来事を入れて埋めたいのだが、なにも思い浮かばない。

「なにか、いい話題はない」と萩に投げ掛ける。

 そんなことを言われてもと言いつつ、ふと以前……オカルト・マニア達が話し合っていた都市伝説や陰謀論を思い出したので、いくつか教授に聞かせてやった。すると、そのうちの一つが書いている小説と相性がよかったのか、インターネットでその噂を調べ出す。その噂の出所は分からなかったが、マニアの間では十年以上も前から有名だったらしく、思っていた以上に情報が濃かった。教授はその噂の記録や考察が書かれた文章をコピーして、ファイルに貼り付けたかと思うと、構想用のノートを取り出してなにかを書き留めた。さらには電子辞書まで取り出して、インターネットも駆使しては懸賞小説の細かな設定部分を構成する資料を集めていく。この噂について、教授は萩に詳しい情報を持っていないか尋ねた。萩も朧気ながらも、その件についてマニア達の見解を覚えているだけ萩に伝えた。そのほとんどがすでにネットに上げられてる情報ではあったが、一部はネットに出ていなかったため、その情報を急いでファイルに入力する。インターネット接続を遮断して、構想を書いたファイルを開き、ノートを見ながら物語の中盤から終盤にかけて矛盾が生じないように構想を修正していった。

 懸賞小説を書いていた文章ファイルを開く。そして執筆を再開した。時たま萩が邪魔してくるが、無視して必要だった約三千字を埋めた。ファイルを上書き保存した教授は大きく息を吐いた。

「書けた?」と萩が訊いてきたので、素直に「ああ、助かった。ありがとう」と礼を言うと、「これも貸しだからな」と奴は笑った。

 ある休みの日に、教授は録り溜めていた映画を観ることにする。内容はホラーではないが幽霊が登場し、その人物の死後の体験も描かれているのだが、その部分を本物のオバケである萩が細かく否定してくる。登場人物の幽霊が家族の夢に出て会話をする場面があれば「散々出ようとしたけど、出られなかった」とか、大規模な心霊現象を起こす場面があれば「こんな便利なこと出来ない」とか、その幽霊が他人に乗り移ってみれば「こんなことが出来れば楽でいい」とまで言ってくる。本当に鬱陶しい。

「これはフィクションだ。作り話なの」と教授が言うと、「だからってメチャクチャだ」と言い返してくる。

「医療ドラマや刑事ドラマだって、本物とは違う場面がたくさんあるだろう」

 教授がそう言うと、確かにと萩は同意する。そして「殺人現場に刑事は入って来ないしね」と続けた。えっと教授が萩を見た。

「そうなの?」

「ああ。鑑識の小父おっさんが、厳重な恰好をして、シートみたいなのを床に敷いて入ってくる」

「刑事は?」

「外で待ってた」

「ドラマとかなら、現場で鑑識に指図とかしてるのに?」

「刑事は現場に入って来なかったぞ。オレが家から去ったあとは知らないけど」

 興味深いのでノートに書き留める。そして萩にいろいろ尋ねると、知っていることは大抵教えてくれた。もちろん、その内容もノートに書き留める。話が逸れて『馬鹿』と入れ墨をした外国人の話を聞いたときには、本当にそんな人がいるんだと小さく吹いた。話が一段落すると、萩は決め台詞のように「これも貸しだからな」と言った。


 教授のアルバイト先には弁当屋もあった。ほかの店員との雑談で聞いたのだが、数日前の昼間に近所で自動車による轢き逃げ事故があったらしく、被害にあった少年は亡くなったそうなのだ。そういえば、ここに来るまでに道路脇に献花されているのを見掛けた。それで心当たりがあれば伝えてほしいと、警察の人が店に訪れたのだと店員が教えてくれた。教授には心当たりが無かったため、この話はすぐに終わった。

 自宅に帰ったら萩はいなかった。例の虱潰し作戦を未だにやっているらしく、オバケのくせに夜はあまり見掛けなかった。次の日は休みだったこともあり、昼過ぎまで懸賞小説を書いているときに「ただいまー」とまるで住人のごとく萩が現れた。

「行ってらっしゃーい。よい来世をー」と教授はあしらう。

「冷たいぞ。そんな事より、オレを殺した犯人の手掛かりはあったか?」

 正直言うと教授は一切捜していなかったが、あたかも捜したかのような口振りで「成果なし」と告げた。その代わりというか、話題を逸らせるためにアルバイト先で聞いた事故の話を伝えた。萩は気の毒にとは言うものの興味を示さず、すぐにネットで黒いドラゴンについて調べろと駄々を捏ねてくる。

「いくらやったって無駄だって」

「じゃあ、あれだ。左腕に黒いドラゴンの入れ墨をした男の人にお世話になったものですが、お礼をしたいのですが何処のどなたか存じ上げないので、知っている方がいらしたら……って感じで、掲示板かどこかに書き込めば――」

「情報が少なすぎるし、そもそもネット上でも強盗殺人犯なんかと関わりたくない」

「じゃあ、どんなドラゴンか覚えているから、お前……代わりに絵にしてネットに上げろ」と萩は無茶を言う。

 教授は絵心があれば漫画家を目指すと言って無視する。萩は万引き犯を捕まえた貸しと、作家取材に協力した貸しを返せと迫ってくるが、これも無視して出掛ける準備を始める。

「逃げる気か!」

「バイト。さっき言った弁当屋」

「付いて行くぞ!」

「どうぞ」

「アルバイトに付き添いなんて、恥ずかしいぞ!」

「誰にも見えないから問題ない」

 教授が家から出ると、萩は本当に付いてきた。仕事中も挑発したり、厨房で「きゃあ! ゴキブリとネズミ。こわーい。きたなーい。不衛生えー」などと変な声を出して遊んでいる。鬱陶しいのでいつものように無視する。閉店後には売れ残りの弁当をもらって帰路につく。すでに日は暮れていて暗かった。教授は小走りで進み、萩はそれに付いていく。ふと、萩が献花の傍で突ッ立っている子供を見つけた。

「おい教授。花のそばに子供がいるぞ」

 教授が献花周辺を見るが、誰もいない。

「誰もいないぞ」

「いや、居るって。よく見てみろ」

 凝視してみる。ぼんやりとだが人影が見えてきた。本当だとジッと見定めてみると、ランドセルを背負った小学校低学年ほどの少年が立っていた。

「脚を見てみろ」と萩が言ったので、脚を見るとただでさえ靄のように薄く見える少年の脚は透明かと思えるほどに朧気であった。

「事故に遭った子かな?」

「気持ち悪いこと言わないでくれ」

 なにを思ったか、萩が子供に駆け寄った。

「おい坊主、お前こんなところで何やってるんだ?」

 そう声を掛けると、子供は驚いた様子で萩を見た。

「なんでそんなに驚くんだ」

「みんな僕のこと無視するの。お母さんもお父さんもお巡りさんも、花を置いていった人みんなも」

 どうやらこの子供は、死んで幽霊になったことに気付いていないようだ。

「お前は、なんでお家に帰らないんだ? 親が来たんなら、一緒に帰れただろ?」

 子供は少し黙ったあと一言「分からない」と答えた。萩は少し考えたあと「お前、みんなから無視される前に、なにかあったのか?」と尋ねた。

「白い車がね、僕に体当たりして、僕は飛ばされたの」

 轢き逃げの車だ。

「車には四つの数字が書かれた板が付いているんだけど、その白い車の板に、どの数字が書かれていたのか、覚えてるか?」

 子供は頭二つの数字は覚えていた。それを聞いた萩は続ける。

「お前のお母さんやお父さんは、ここに毎日来るのか?」

 うんと子供は答えた。

「そうか。じゃあ、次にお前の親が来たら、一緒にお家に帰りなさい。こんなところに居ても詰まらないだろ。一緒にお家に帰ったら、きっと楽しいところへ連れて行ってもらえるから」

「そこって、遊園地より楽しいところ?」

「ああ。きっとな。オレは逝ったことないから知らないけど」

 子供は分かったと笑って答えたので、萩はその子の頭を撫でた。それを教授は少し離れたところで見ていた。

 後日、事故を起こした車の色と子供が覚えていたというナンバープレートの番号の頭二つを、教授が公衆電話から匿名で轢き逃げ事故の捜査本部に伝えた。そのお陰か、さらに数日後にはアルバイト先で、例の轢き逃げ事故の犯人が捕まったらしいとの噂を聞いた。その日にインターネットで調べてみると、大きく取り上げられる事がなかった事故のために情報自体は少なかったが、例の轢き逃げ事故の犯人が逮捕されて容疑を認めたという報道を見つけた。

 さらに後日、この日は雨が降っていた。教授が夜中に事故現場を歩いていると、ふと新しくなっている献花が目に留まった。周辺を凝視してみる。あの少年はどこにも居なかった。きっと萩に言われた通り、親と一緒に帰って、それから……。

 ふと、萩はどうなるのだろうと考える。あいつは自分を殺した犯人に復讐するまでは、こっちにいると言い張っている。奴なりに捜査はしているのだろうし、警察も犯人を追っているのだろうが、事件発生から一年も経つのに犯人が見つかる気配はない。

 いつもは目障りでしかない萩が、なんだか不憫に思えた。

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