サクラと教授の奇譚録 黒龍刺青(Killer Hunt)

枯尾花

  第一回


 最近はやけに忙しかったために、気が向いて買ったゲームソフトの何本かが手付かずのまま放置されていた。アパートのワンルームの、色んな物が雑然と置かれた机の奥には、据え置き型のゲーム機が置かれていて、その上には封すら開けられていないゲームソフトがある。予定が一切ない休みが二日もある。だから徹夜でゲームをプレイしていた。何度かの休憩を挟みつつ、どうしても分からないところや、面倒なところはインターネットで攻略方法や裏技を調べたり、物語の進展は後回しにして道草を食ってやり込み要素を楽しんだり、他人から見ると全く無意味な行動をとったりと、自由気儘きままに遊んでいた。

 ゲームを始めたのは金曜日の夜中。土曜日に四時間ほどの睡眠をとって、そのはまたプレイを始めた。休憩しているときも意識して時計を見なかったこともあってか、気付けば日曜の明け方になっていて、睡魔と戦いながら明日の出勤に体が持つかどうかを考えていた。

 そんな時にオレは死んだ。

 唐突すぎるが、実際にそうなのだ。オレはコントローラーを握りながら、まるで瞑想するかのように、座布団の上で浅い眠りについてしまった。そんな時に奴が来た。忘れもしない。早い話が、そいつは強盗だった。オレが奴に気付いたときには、すでに奴はオレの背後に立っていた。首になにかを巻き付けられた。オレは必死にそれを解こうとするが、奴の太い腕と大きな手に抵抗できず、首を振り回すも意味をなさず、声を出そうにも出なかった。オレの視界にスタンドミラーが入った。奴の顔は見えなかった。だが、奴の前腕の甲に黒い龍の入れ墨があったのはしっかりと見た。蛇のように長い東洋の龍ではなく、二本の角が生え羽のあるトカゲのような西洋のドラゴンである。そのドラゴンは引っ掻いてもめくれたりしなかったから、シールではない筈だ。オレの視界が薄れるまで、奴の左腕に刻まれた忌々しいけだものを見つめて、そのまま真ッ暗な世界に落ちていった。

 次に気付いたとき、オレの隣にオレが倒れていた。いや、死んでいた。オレは死んだのか、なんだか呆気ないものだと冷静だった。ふと、自分の脚が、体のほかの部位よりも薄いことに気付いた。今にも消え入りそうである。幽霊などのように死んだら脚が無いようにえがかれるが、なるほど、確かに無いように見えなくもない。それ以外の見た目は生前と同じだった。服も着ていたときの服装だし、頭に白い三角のついた変な鉢巻きもない。

 オレは自分が死んだことを誰かに伝えようとした。犯人を捜すのも早いほうがいいだろうし、なにより自分の死体が腐ったり虫に喰われるのを見たくなかったのだ。携帯電話で警察に連絡しようとするのだが、携帯電話をどれだけ捜しても見つからず、物の陰に隠れているのだろうと、邪魔なものを退かそうにも動かせない。紙切れ一枚動かせないのだ。家から出ようと玄関のドアノブを掴むが、やはりビクともしない。仕方がないので大声で叫んではみたものの、一切反応は無かった。自分の死体の隣で、オレ……佐倉さくらはぎは途方に暮れた。


 萩の職場から、彼の実家に電話が入ったのは金曜日の朝だった。萩の直属の上司は心配する様子は微塵もなく、――来週もこんな様だったら容赦なくクビですよ。全く情けない。いったい、お宅は今まで子供にどんなしつけをなされて――と言った口振りであった。連絡を受けた母は、最初に萩の携帯電話に連絡を入れるが、――お掛けになった電話番号は現在使われておりません――といった音声が流れるだけだった。すぐに仕事に出ていた夫、つまり萩の父に連絡を入れると、気になるなら奴の家に行ってやれとの一言で終わった。萩の母は専業主婦で仕事に就いていない。一通りの家事を終えて昼食を済ませた後、電車に乗って萩の住んでいるアパートに向かった。

 母は萩の自宅の合鍵を持っている。アパートの部屋を借りるときに、大家から鍵を二本貰ったのだが、そのうち一本を万が一に備えてと実家に置いてあったのだ。もっとも、その万が一が起こるだなんて夢想だにしていなかったが。

 玄関の扉を開けて部屋に入る。部屋の明かりは点いていた。母は萩の名を呼んで部屋に入るなり、萩が倒れているのに気付いた。うつ伏せで、しかも不自然な形で倒れているのだから、すぐに重大な何かが起こったと母は理解した。萩に近づいて体に触れるが冷たかった。母はすぐに持っていた携帯電話で救急に電話をかけたのだが、頸に残された殺害の痕跡はおろか、冷たくなって死んでいることにも気付かなかったところから、母の気が動転して冷静さを失っているのは確かだった。

 萩の部屋には救急隊員ではなく鑑識を連れた刑事が訪れた。母の電話を受けた担当者が、母から救助対象はすでに冷たくなっており、頸には絞殺かなにかの痕跡と思われる筋があることを聞き出して、それならば救急ではなく警察の仕事だと判断した結果であった。

 母は部屋から出されて警察官から、いろいろと事情を訊かれている。一方、室内では鑑識が萩の遺体をカメラで撮影したり、いろいろ調べたりしているのを、オバケになった萩は黙ったまま両腕を組みながら眺めていた。母が来たときに声をかけたが反応がなかったので予想はしていたが、駆けつけた警察官らにも声をかけたがやはり無反応だったからだ。だから、不本意ながらも大人しく見ているのだ。

 パソコンやゲーム機にソフト、ショルダーバッグなどが盗まれているのは知っていたが、確証がないが恐らくは盗まれただろうと思っていた財布や携帯電話なども、案の定……犯人に盗まれていた。安物のショルダーバッグが盗まれたのは、恐らくはゲーム機を持ち帰るのに使ったからだろう。まったく図々しい奴だ。一方、銀行の通帳などは遺されていた。これも推測ではあるが、多分これを金に換えて足が付くのを恐れたのだろう。

 萩が外に出る。母に事情を訊いている偉そうな刑事に目星をつけて、その男に付いて行くことにした。刑事が母に、萩の様子でなにか変わったところはなかったかなど尋ねている。自殺や怨恨による殺人などの可能性を考えているのだろうか。と、そこにブルーシートに隠されたなにかが運ばれていく。母が、息子ですかと刑事に尋ねても、彼はお茶を濁すようにして断言はしなかった。萩は運び出している連中に先回りして、そのなにかを確認すると、やはり母の言ったそれだった。このあとは検視とかいって解剖されたり色々された挙げ句、燃やされてしまうのだろうか。体が無くなる以上は、奇跡が起ころうとも生き返ることはないだろうと思いつつ、死んで一週間近くにもなるせいか、その体には未練と執着といったものはない。正直、丁重に扱ってさえくれればそれでかった。自分の体を載せた自動車がどこかへと去っていく。萩はそれから目を逸らしたが、母はずっとその車を見つめていた。


 萩に成仏するつもりなどサラサラ無かった。自分が死んだのを悟ったときから生き返ることは諦めているし、そもそも見た目こそ悲惨なことにはなってはいなかったがとはいえ、内部が腐っているかも知れない体で生き返ってもゾンビみたいで、ただただ気持ち悪く、そんな状態で生き返るつもりは毛頭なかったのだ。成仏するつもりもなく、生き返るつもりもないのに現世に留まるとすれば、やる事は決まっている。自分を殺した犯人を見つけ出して復讐する。そのために母に付いて実家に帰るつもりもなければ、自分の亡骸の傍にいて葬儀で坊主の念仏を聞くつもりもなし、自分の墓に座ってボンヤリと時間を過ごす気もない。

 犯人に復讐すると言ってもオバケになってしまった萩に出来ることは限られていた。なので萩は『待つ』ということに徹した。刑事に付いて警察署に来ていた。頸の痕跡からすぐに殺人であることが分かっていたので、この事件の捜査本部がただちに設置され、萩が目星を付けていた刑事の下で捜査が始められる。萩はその捜査結果が上がって来るのを待っていたのだ。それでも一応は、捜査に携わる警察官たちに大声で、犯人は筋肉質で左腕に黒いドラゴンの入れ墨のある男だと散々伝えようとしたのだが、霊感のない者しかいないせいか、伝わることはなかった。萩は心霊現象を起こして伝えようとも努力した。例えば、パソコンの画面に自分の伝えようとしていることを文字に起こそうとしたり、刑事の家まで付いて行って、眠っている刑事の夢枕に立って伝えようとしたのだが、それも無駄だった。刑事だけではなく、仮眠をとっていた若い刑事の夢枕に立とうとしたが、やはり効果がないばかりか、突然に怪しい半笑いを浮かべながら「ダメだよ、うふふん。僕ちん、もうプッツンして逮捕しちゃうぞ」などと気持ちの悪い変な寝言を猫撫で声で言ったものだから、さすがにオバケも気味悪がった。そんな感じで萩の努力は、幼稚な子供が超能力者ぶって物を空中に浮かせようと気合いを入れるように、萩自身が惨めなほど情けない気持ちなるくらいに意味を成さなかった。だから、大人しく待ったのだ。

 手掛かりになりそうな情報はないか、現場の指紋はどうだったか、毛髪や遺伝子などの遺留物はどうだ、周辺の防犯カメラには不審な人物は映っていなかったか、聞き込みの結果はどうだったか。刑事たちは毎日毎日懸命に捜査をしていたのだが、結局は現場に遺された手掛かりから犯人を特定することは出来なかった。

 進展のない捜査を見続けるのも流石さすがに飽きた。この調子だとお巡り共は役に立ちそうもない。なので、萩は捜査本部から立ち去ることにする。警察署の場所も、捜査本部のある部屋もどこにあるか分かっている。時たま捜査具合を確認しに戻っては来るが、自分で捜したほうが早いとすら思えるほどに、この強盗殺人事件の進展が見られなかったのだ。


 犯人の手掛かりで萩が知っていることは、左腕に黒いドラゴンの入れ墨をした筋肉質の男であるということだけである。顔も分からない。まず無いだろうが、女かも知れない。それならそれで面白いが、安っぽい推理ドラマ番組でもそんな下らないオチはないだろう。いや、もしかしたら意外とあるかも知れないなんてことを考えながら、萩は人が集まる場所の近くにある、銭湯やトレーニング・ジムに向かった。日本で生活する以上、普通ならば必ず服を着る。それをされると唯一の手掛かりである入れ墨が隠れてしまう恐れがあるので、更衣室で裸になったところで左腕を確認しようと考えたのだ。

 萩は犯人は男であると確信しているので、何日かは男性更衣室でずっと待機する。それ以降は人の出入りが多い時間帯を狙って確認に訪れた。ある日、とあるトレーニング・ジムでようやく入れ墨をした男を見つけたのだが、見た感じは外国人の男だった。入れ墨も左腕にドラゴンというわけではなく、なんだかよく分からない派手な模様が片腕からもう片腕へと架けるように彫られている。任侠映画に出てくるような怖い人達が好んで彫りそうなものとは違い、欧米人が好みそうな柄であった。ふと、自分を殺害した犯人が外国人だったらどうなるのか考える。もう出国していればどうなるのか。到底見つけようがない。いや、そもそもこの町周辺から逃げ出していたとしても萩からすれば捜しようがないのだ。余談だが、変な入れ墨を彫っている外国人が一人だけいた。右肩の後ろに彫られた字がまさかの『馬鹿』だ。なにか深い意味でもあるのだろうか。単にデザインが気に入ったのだろうか。知らないが、中国語などなら違う意味にでもなるのだろうか。それとも馬と鹿が好きな人が、言葉の意味も知らずに彫ったのだろうか。今は理解しているのだろうか。分かっているのなら、今頃はきっと後悔しているだろう。いや、意外と笑い話に出来るほど図太い神経をしているのかなんて、萩はいろいろ空想に耽ってはみたが、結局は更衣室で待機する作戦が萩の望む結果を生むことは無かった。

 捜しかたを変えることにする。想像するだけでも気が遠くなりそうだが、虱潰しに他人の家に入り込んで、黒いドラゴンの入れ墨をした男を捜そうと考えたのだ。萩自身もこの考えが愚行だと確信してはいるが、自力で捜そうにも物が掴めず、意思疎通も出来ず、ましてや心霊現象も起こせないために、こんな無謀で地道な方法で捜す以外に手段が思いつかなかったのだ。住宅に忍び込んで、まずは玄関に男性用の靴があるかを確認する。無ければ住人に男がいない可能性が高いのですぐに立ち去る。男が居そうであれば、住人が犯人同様に筋肉質かを確認する。違えば立ち去り、筋肉質なら左腕に例の入れ墨がないかを確認する。透視したり、眠っている間に袖をまくったり出来ないので、住人が着替えをしたり風呂に入るときに見る。ただ、家に入るときは住人と一緒に入らなければならず、家から出るときも住人が扉を開けた隙に出るか、窓が開いていればそこから無理やり出ていた。なので、一日に二件以上できれば上出来だった。この方法で捜索を始めたその日の段階で、萩は本当に馬鹿気た手段だと自分に嫌気が差した。

 偶然にだが何度か女性の着替えや入浴に遭遇したことがある。だが、このときも無感情なほどに落ち着いていられた。生前だと、すれ違えば目で追ってしまうほど魅力的な異性を見掛けても何も感じず、同様にそんな女性の入浴姿を見てもなんの感情も湧かないのだ。食欲と睡眠欲求にも死んでから感じたことはない。それと同時に性的な欲求も失ったのだろうと萩は思った。死んでしまえば、生きるのに必要な手段は一切不要だし、繁殖の機会もない。つまり、完全に不要な欲求だから消えたのだ。話は変わるが、便利な能力を身に付けた。以前は、自分が入れるだけの隙間がなければ行き来が出来なかったが、数ミリ程度の隙間さえあれば、体をまるで霧のようにして通り抜けられるようになったのだ。これなら窓が閉まっていようがなんなく家に忍び込むことが出来る。今までは住人と一緒でなければ侵入できなかったことを考えると、ありがたい程に便利ではあったが、この能力も犯人捜しの役には立たなかった。

 この虱潰しの捜索にもウンザリしてきたので、萩は自分の殺人事件を追っている捜査本部を訪れたのだが、めぼしい進展があったようには見えなかった。それでも容疑者とは言いがたいが、疑いの余地はあると判断された人物の許へ向かう刑事がいたので、萩も付いて行った。刑事はお決まりだからと、いくつかの質問をしてDNAの提供も協力してもらうと帰ってしまったが、その人物というのが筋肉質の男で長袖をしていたものだから、萩はその場に残って男の左腕を確認することにした。だが、男はなかなか袖を捲らない。男はアパートの一室で一人で住んでいるらしく、その男以外には誰もいない。男の夕食はコンビニで買ってきた弁当だった。それをテレビ番組を観ながら食べている。テレビでは気取った俳優と、司会のヘラヘラ笑っているお笑い芸人が、恋だのプライベートだの視聴者からすれば心底どうでもいい雑談を延々と続けている。こんなもののどこが面白いのかと萩が思っていると、男もそう思ったのかチャンネルを変えた。画面には霊能者を自称する人達がオカルトなことを話す番組が映った。どうやら特別番組らしい。

 下らないと、男が呟いてリモコンでチャンネルを変えようとしたとき、『霊能者直伝! 宝籤で高額当選する方法!』なる話題となり、男は何事もなかったかのようにリモコンを机に置いて弁当を再び食べ始めた。萩は男に呆れつつ、ふと閃いた。

 男が風呂に入る際に確認できたのだが、結局この男はあの事件とは関係のない男だったらしく、太くて少し毛深いことを除けば普通の腕だった。男が湯槽ゆぶねに浸かるころには、萩はそのアパートを去っていた。


 萩が閃いたものというのは、霊感を持つ人物に自分の存在と犯人の手掛かりを伝えて、代わりに警察に伝えて貰おうといったものである。警察が犯人の手掛かりである黒いドラゴンの入れ墨の存在さえ知れば、今よりは捜査が進展するだろうと考えたのだ。だが、霊能者と自称する人物の戯言たわごとにしか聞こえない、犯人の手掛かりをどうやって警察に受け入れてもらうかという点が問題になるのだが、そこはなんとか成るだろうとしか思っていなかった。

 萩はまず、葬儀や供養という形で、死者や死後と関わりがありそうな仏僧と交流できないだろうかと考えた。近くで見つけた寺に入ってみる。寝室を探して、そこに眠っていた僧侶らしき禿げ頭の枕許に立って起きろと話しかけてはみたが、一切反応がない。夜明け前に目覚めた際にも声をかけてはみたが反応がなかった。起きだした僧侶の家族にも声をかけたが、やはり反応がない。仕方がないので次の寺に行く。同様に僧侶に声をかけてはみたが、やはり同様に反応がなかった。坊主には霊感がないのかと、当たり前といえば当たり前のことを思いながら、今度は近くの高校や大学で『オカルト研究部』のような活動がないかを調べてみたが、これも意味を成さなかった。

 一応、いくつかは見つけたことには見つけたのだが、『未確認』と頭につく変なもの……例えば『未確認飛行物体』とか『未確認生物』とかいう写真や絵が飾られた部室に集まる、部員らしき人物に話しかけても反応がなく、昔どこかで起こった怪奇現象だの、根拠があるのか無いのか、それすら不明な都市伝説や陰謀論といった話を、夏に楽しむ怪談話の感覚で話し合っているか、そういったものを題材にした映画を観賞している程度のものだった。

「撮影された年代を考慮しても、あの特撮部分は陳腐だ」

「けど、話自体は人間の暗い心理をついた哲学的な部分は評価できる」

「しかし、この二作目は、最初の作品と比べ物にならないほど劣化していて、とても同じ監督と脚本家が作ったものとは思えない」

「興行収益を優先したんでしょ? よくある事だって」

 映画評論家の集まりかと思った。こんな感じでオカルト繋がりではあるが、オカルトそのものではなく、オカルトに関わる映画や小説を趣味にしている部活もあれば、ただ先に書いた都市伝説や陰謀論を紹介して面白おかしく楽しむだけの部活もあった。本格的……という表現が正しいのかどうか分からないが、薄暗くて壁には何枚も奇妙な文字が書かれたお札が貼られ、机の上に敷かれた変な模様のかれた紙の上に髑髏が置かれて、その模様の周囲に火の点った蝋燭が何本も置かれている部屋があった。そこには長い黒髪の不健康に痩せ細った女子学生が、髑髏に向かって呪文らしきものを唱えている。萩は内心怖じ気づきながらも「あの、すみません。オバケですけど」と声をかけたが、反応はなかった。肩を叩いてはみたものの反応がない。まだなにか言っているのでそっと耳を近づけてみて、ようやく聞き取れたのだが、呪文らしき言葉は「あの女、マジで赦さない。あたしの大切なあの方に馴れ馴れしくしやがって。なにが『おはよう』よ、気安く話しかけてんじゃないわよ。ちょっと可愛いからって忌々しい。あんな性根の腐り果てたけがらわしいブスなんか――」と、このあとは非常に不吉で縁起でもない言葉が続いたため、萩は気味悪がって逃げだした。

 僧侶はダメ、物好きなマニアもダメと来たら仕方がない。肉親ならなんとか交流できるんじゃないかと実家に帰ってみる。自分のための簡素な仏壇がある点を除けば、以前に帰った時となんら変わらない。母はソファーに座ってテレビ番組を見ていた。夕方のドラマの再放送を少し観たかと思うと、すぐに違う局のワイドショーを観ては、またチャンネルを変える。母は明らかに退屈していた。

 萩の遺体を発見したときの母の反応から、萩は母が自分の存在に気付いてくれるとは思っていなかったが、取り合えずは話しかけてみる。が、やはり予想通りに反応がない。夕方になると妹が、夜には父が帰宅する。妹と父とは死後、一度も会ってはいなかったので、もしかしたらとは思ったが、やはり話しかけても反応はなかった。深夜になって三人が寝静まったときに、夢枕に立とうとしてはみたが、無駄だった。萩は失意のまま家から出た。

 朝の通勤時間。人通りの多い駅に萩は立っていた。眼前にいる無数の通勤通学の人達に向かって叫ぶ。

「火事だー!」

「泥棒だー!」

「人殺しー!」

 これだけ叫べば、不審がったり興味本位から自分に目を向ける人が一人くらいいるはずである。霊感のある、自分の声が聞こえる人物が一人くらい居るのなら、その誰かに自分の存在に気付いてくれるだろうと思っていた。だが、目の前を通り過ぎる数十人、いや百人以上はいるであろう群衆の中で誰一人として、萩に目を向ける者はいなかった。

「オレは殺されたんだ!」

 思わず叫んだ。だが、やはり誰も萩には気付かない。

 無数の人集りの中で、萩は絶望的な孤独を感じだ。


 佐倉萩の実家である佐倉宅で、萩の一周忌の法事が行われる事となり、従弟にあたる神部かんべ教授なりさずが訪れた。『教授きょうじゅ』とあるが、別に大学などの偉い人ではない。「きょうじゅ」ではなく「なりさず」と読む。本名だ。教授なりさずは萩の葬儀に出席しなかった事もあり、その代わりと言ってはなんだが、今回の法事に出席することにしたのだ。萩の母と軽い挨拶を済ませて一人で和室に入る。まだ新しい仏壇には萩の遺影が飾られている。そういえば、萩と教授なりさずが最後に会ったのは、もう十年以上も前になる。すでに当時の記憶が朧気だったこともあり、教授なりさずはまるで会ったこともない遠い親戚の法事に訪れたかのような、いわば人事ひとごとという感じもあったが、仏壇のかねを鳴らして萩の冥福を形式的に祈ってやった。

 ふと、視界の端に人影を見つけた。さっとそのほうを見ると、同年代ほど……いや少し年上と思われる男がボンヤリというか間抜けた様子というか、とにかく気の抜けたような顔をしてこちらを見ている。自分が部屋に入ったときは、確かに誰もいなかった筈だ。教授なりさずは思わず誰だと呟き、じっと男を見つめた。男は相変わらず、壁にもたれながらこちらを見ている。

「あの、どちら様ですか?」

 恐る恐る教授なりさずは尋ねた。力が抜けて細くなっていた男は目を見開いた。

「……マジで?」と、男は言った。

「マジで……とは?」

教授なりさずが訊き返すと男は仏壇の遺影を指差し、それに釣られて教授なりさずの視線が動く。顔の向きをゆっくり戻して、再び男のほうを見た。

「え?」

 寒気がした。何度も間抜けた男と遺影を見比べるのだが、同じ顔がそこにある。――え? え?――と何度も見比べて、最後に「マジで?!」と驚きながら尋ねた。

「マジで!」

 男は力強く、そして頷きながら答えた。全身から力が抜けた教授なりさずは、大きな溜め息を吐いた。「嘘お」と力なく漏らすと「現実だ」とその男……萩は答えた。

「お前、教授きょうじゅだよな?」

 教授きょうじゅというのは、教授なりさずの渾名である。

「え? あ。ああ、はい。教授なりさずです。……お前は萩なのか?」

「ああ、そうだ」

「死んだんじゃなかったのか?」

「死んだんだ。どこぞの大馬鹿なボケナスのクソッタレた筋肉ゴキブリに首を絞められてウゲーッて」と、萩は両手で首を絞める仕種しぐさをして答えた。

 そうなんだと言いながらも同様していると、今度は萩から――お前、もしかしてオレが見えるのにオバケと会うのは初めてか――と訊いてきたので、墓地や心霊スポットに行くと頭痛がすることはあるが実物は初めてだと答える。萩が急に不気味な笑みを浮かべて近づいて隣に座ると、そのまま肩に腕をかけてきた。

「お前、オレに祟られたくないよな?」

 ゾッとした。

「オレさ、殺されて死んだから、この世に未練タラタラなんだよね」

「そ、そうだろうね……」

 教授きょうじゅは肩に掛かっている萩の手を下ろすが、すぐに元通りに掛け直される。

「犯人は筋肉ムキムキの小父おっさんでよ、左腕に黒いドラゴンの入れ墨をした、悪趣味の気持ち悪いイカれた異常者のクソ野郎なんだよ。しかも、その狂気的に気色悪い変質者である犯人はまだ捕まっていない」

「そ、そうらしいね……」

「そうなんだよー。警察連中にも犯人のことを教えようにも、誰もオレのことに気付かない。鈍感で間抜けで情けない奴らばっかりだから、耳許で叫んでやっても完全無視。正直、オレは失望したね。あんな連中が日本を守ってんのかよって。日本の未来は真ッ暗だ」

「た、大変だね……」

「だからお前、手伝え」

 一瞬、意味が分からなかった。えっと戸惑ったが、すぐに理解して嫌だ嫌だと拒否して「怖い! いろんな意味で」と言うが、クスクス笑う萩が「祟られたいのか」と脅してくる。口許とは違って、目はまるで笑っていない。教授は怖くて言葉が出なかった。

 萩が言う。

「オレもお前なんかじゃなくて、犯人のナメクジ・ゴミ野郎を祟りたいんだけど、居場所が分からないからさー」

 教授の肩に掛かっていた腕が首に廻り、萩の両手が頸を掴んだ。憎悪に満ちた表情で教授の目を睨んで萩は続けた。

「八つ当たりでマジで祟るぞ」

「無理です、無理ですって。勘弁して下さい。成仏して下さい」

「なら手伝え。犯人見つけるだけだ」

 教授は萩から目を逸らすと、萩がクスクス笑い出した。

「そんなにビビるなって。じゃ、宜しくな!」

 そう言って教授の頭を何度か軽く叩いた。まったく痛くはない。教授は思わず天を仰いだ。

「……来るんじゃなかった」

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