第11射目 SH戦 前編

2019年 6月26日

宮城県登米市 西和総合運動公園

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 この日、夏希は高校生活最後のSH試合に参加するために登米市を訪れていた。

 仙台からは車で約2時間。いつの間にか景色から高い建物が消え、代わりに広大な田畑が辺りに広がる。緑と茶色の色彩に慣れた頃、夏希たちを乗せたバスは勾配がある細い坂道を登った。その頂上に試合会場はあった。


 周りは緑豊かな山々に囲まれ、仙台と比べると長閑のどかな田舎町といった雰囲気を感じさせる。空にはしらす雲が覆い、初夏をおもわせる涼しい風が地上に吹いていた。


 山の頂上に拓かれた平地は、会場であるサッカーコート以外にも使われている。その1段下には野球用のグラウンド。さらに下には濃緑の葉をつけた植物が育つ畑があった。夏希はふかふかの人工芝を歩いている時、大の字になって昼寝がしたいなどと考えていた。


「フェンス側に荷物を寄せて、弓組み立てよう。」


 部長の世羅琴乃せら ことのが呼びかけた。振り向きざま、彼女の眼鏡が陽の光を反射して輝いた。後ろで縛られている筆のような髪が、ぴょんと跳ねる。


 彼女は夏希と同じ日に入部した。中学では弓道をやっていたらしいが、厳しい指導が嫌になり、アーチェリーに転向したと聞いていた。初めは仲良くしていたが、夏希が部内で浮いていくにつれ、その距離は徐々に離れていった。以来、彼女と夏希は言葉を交わしていない。


 夏希は隅に座ると、黙然と弓を組みたて、渡されたスコアシートに名前を記入していた。後半分の2枚目にも名前を書こうとしていた時、ふと肩を誰かに叩かれた。


 首を回してみると、突然、視界に黒い壁が立ち塞がった。夏希は驚いて、反射的に仰け反った。

 壁と距離を取ると、視界が広がり、それは人間であると判明した。上下とも黒のジャージ。太陽を背にしていて、影で顔まで黒い。


頭上から

「ごめん。夏希さん、大丈夫?驚かせるつもりはなかったんだけど⋯⋯」と男の声が投げかけられた。


 その声には聞き覚えがあった。さらに見覚えのある大きな体躯。夏希は瞬間的に記憶を遡り、名を思い出す。


「もしかして神藤主将ですか⋯⋯?」

と怯えるように尋ねると、

「そうそう。覚えてくれてて良かったぁ。」

安心したような、落ち着きのある返事が返ってきた。


 男は夏希に視線を合わせるためしゃがむ。そこでようやく顔が見えた。紛れもなく数日前に見た神藤の顔だった。ただ1つ、記憶とは違う点がある。


「いやぁ、髪染めたから分からないかと思ったよー。」それは髪色だった。髪型は変わらないが、色が金へと変わっていた。


「お久しぶりです。金髪⋯⋯、結構目立ちますね。」

感心とも皮肉とも取れる感想を言う。

「でしょ。アイザックを真似るうちに、見た目も真似たくなったんよ。」

屈託のない眩しい笑顔で、神藤は髪を持ち上げた。


 あまり似合っている気はしないが、本人がご満悦な以上、変に口を出すのは野暮というものだろう。それにしても、そこまで憧れているとは⋯⋯。夏希は関心と変な怖さから、中途半端な笑顔を浮かべた。


「ところで、今日はどうしたんですか?」

「あぁ、そうだった!」


 神藤は柔らかい表情から真剣な表情へ、一瞬で変えると、夏希にだけ聞こえるよう小声で話し始めた。


「今日は表向き、うちの1年の試合見学って名目で来たんだけど」

次の言葉の前に神藤が一息つく。つられて夏希も唾を飲み込む。


「本当のところ、うちの推薦入試の視察がメインできてるんだよ。あそこにコーチが座ってるでしょ?今日を含め、複数回視察して、気になった子には声をかけるんだ。」


 神藤が指さす方を見ると、白いシートのテントの下に周りと違う服装の男が座っているのが見えた。目を凝らすと、その男は景水大コーチの天城だと判明した。赤い帽子を被った審判達の中に1人、ラフな格好でいるため、妙に存在感がある。


「夏希さんは進学か就職って決めてる?」

と神藤は進路指導課の大人のように静かに尋ねてきた。

夏希は

「まだはっきりとは。ただうちは裕福じゃないので、進学したくても学費の問題が。」

と正直に返した。


 そこまで言うと、神藤は夏希の言葉を待っていたかのように目を輝かせた。


「大丈夫!スポーツ推薦で入れば、うちは学費免除だから!試験もない面談だけだし、アーチェリーも続けられるし。」

と早口で話す神藤。その勢いに夏希は、そうなんですかと押し負けた声で返す。


 夏希の表情は驚きを隠せなかった。口では進学をほのめかしたが、家計の状況的に就職になるだろうと諦めていたからだ。そのため大学のことは殆ど調べていなかったし、受験も諦め勉強は最低限にしかしていなかった。

 故に、そういった制度など知りもしなかった。ただ⋯⋯、と神藤は先程とは打って変わって声のトーンを落とし続けた。


「それにはコーチに認められないといけない。もしくはインハイで実績を残すとか。」


 インハイ⋯⋯、とか細い声で夏希はその言葉を繰り返した。この間まで最下位争いをしていた夏希には、無縁の大会。高校生の全国大会。夏希にとってそこで実績を残すなど、想像もしていないことだった。


 大丈夫。と神藤は神妙な顔から諭すような優しい笑顔を作ると、

「言いたかったのは、もし大学に進学する気があって、うちも候補に入るならこういうチャンスあるよってだけだから。」

とさらりと言った。


続けて

「それにインハイでなくても、コーチが目をつけるだけでいいし」

と補足する。

ここで夏希に1つ疑問が生じた。


「でも目をつけられるようなって⋯⋯、どんなですか?」食い気味に質問する。しかし、神藤はそれは分からないと首を横に振った。


「ごめんね。あと本当はこのこと自体も秘密だから、他の人には内緒にしてね。」

周りを気にしながら、神藤が声を小さくして言った。


「えっ⋯⋯」と夏希は頓狂な声を上げると、同じく声を小さくして、なぜ自分にだけ教えてくれたのかを聞いた。


神藤は

「それは言えないなー。」

と一言だけ発すると、もみ上げを弄りながら顔を背けた。夏希は理由が気になったが、神藤の様子から教える気は無いだろうなと確信し、渋々追求を諦めた。


 試合にそういった目的で来る人がいたのか。神藤から告げられた言葉に、今までただ参加する側だった夏希は心底驚いていた。野球やサッカーでは聞いた事があるが、アーチェリーにもあったのか⋯⋯。


 この試合、自分はどうしたらいいのだろうか。夏希は本当にただ、自分の成長具合を見たい一心だった。しかし、偶然にも進学への道がひらける機会でもあると知ってしまった。


 唐突に進路についてで頭がいっぱいになる。今まで考えてこなかったせいか、直ぐに頭がパンクする。そもそも本当に大学に行きたいのか?更に言えば、今後アーチェリーを続けたいと思っているのか?

 夏希が1人考え込んでいると、神藤が徐ろに立ち上がった。


「ごめん、ちょっと向こうでうちの部員がうるさいから止めてくる。まぁ色々話したけれど、まずはこの一試合を精一杯頑張って!後ろで応援してるから。」


神藤はそうと言うと、申し訳なさそうに片手を顔の前で立てる。そして入口の方へと歩いていった。


 夏希がその姿越しに奥を見ると、1人の男が他校の女子部員に、せわしなく声をかけているのが見えた。その周りには同学年らしい数人の男女が立っており、皆が揃ってその男の行動に呆れている様子が伺える。


 その光景に夏希は和やかな気持ちになった。その時の気持ちは、公園で子供たちが遊んでいるのを、傍から見ている時の様であった。ああいう環境に身を置くのも楽しそうだな。夏希はぼんやりと進学について考えてみたいと思い始めた。


 まずはこの試合に集中しよう。心の中で夏希は自分に言い聞かせ、一旦新藤の言葉を頭の片隅へと追いやった。


 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

「ねぇ君、どこの高校?名前は?」

 手馴れたナンパ師のように、前田は女子高校生に話しかけていた。前田の顔とはうって変わり、声をかけられたものは皆、汚物を見るかのように顔をしかめていた。


 先程からこなっちゃんが止めようとするも、耳を傾ける様子はなかった。楓たちは為す術なく、ただ傍から見ていることしか出来ずにいた。


そこに

「夏希さんに用がある」

と言い、先に降りて話しかけに行っていた神藤が戻ってきた。


「前田のやつ、来る前に言ったことをもう忘れてるのか?」

神藤が前田を睨み据えて言う。


「僕は止めましたよ!⋯⋯聞いてくれなかったけど。」と弁明を図るこなっちゃん。周りにいた楓たちもぶんぶんと首を縦に振った。


 はぁ⋯⋯、と深い溜息をつくと神藤は楓の隣にいた1年の女子、百合ヶ浜玲奈ゆりがはま れなに赤い水筒を持ってくるよう指示した。玲奈はハッキリとした返事の後、早歩きで取りに行った。


 2、3分後に玲奈は水筒を片手に帰ってきた。それを神藤に渡すと、神藤は朗らかな笑顔で前田のもとに行き、それを飲むよう促した。


 前田は渡された水筒の蓋を逆さにしてコップにすると、中の液体を注いで一気に飲んだ。直後、糸が切れた操り人形のように力なく倒れ、それを神藤が支えた。


 神藤はこなっちゃんを呼び、二人がかりで前田を車に乗せると、すっきりとした表情で何事も無かったように話し始めた。


「よし、各自、高校生の邪魔にならないように後ろで観戦するよ。」といつもの明るい調子で指示する。

 すると楓の横にいた玲奈が、びしっと音が聴こえそうな勢いで挙手をした。


 神藤は玲奈に話す機会を与えると、彼女は小学生のごとく元気に、その場の全員が気になっていたことを尋ねた。


「さっきの水筒の中身はなんですか?」


神藤は

「烏龍茶だよ。俺が好きなマンガを参考に作ったんだ。」と平然と答えた。


 烏龍茶?とざわめきが広がる。なぜ烏龍茶で人が倒れるんだろうか。その様子をみた神藤は傍に置いていた水筒を手に取り、蓋に半分ほど入れて見せた。


 確かに色は烏龍茶と同じ、濃い茶色であった。すると神藤はポケットからライターを取り出し、液体の上で着火した。その火は液体の上で燃え上がった。


 辺りは急に静まり返った。皆がその液体の正体を瞬時に理解する。楓は心の中で前田に同情した。


 ちなみに度数は⋯⋯と楓は神藤に尋ねた。神藤は60から70はあるだろなぁと曖昧に答えた。流石に周りが引いていることを感じ取ったのか、神藤は事前に忠告した事、前田が成年であることを慌てて主張し始める。


 部員達は液体の上で燃え揺らぐ炎を呆然と眺めながら、その弁明を聞き流していた。

 暫くして火が消えた。同時に会場にアナウンスが流れて、部員達は我に返る。


「ほら、弓具検査も始まったし移動しよう」

と神藤は疲れ果てた様子で促した。どうやら部員達に向かってずっと弁明を続けていたようだ。いつも元気はつらつとしている玲奈まで黙っていたので、相当に焦ったのだろう。


 顔に汗を滲ませた神藤を先頭に、楓たちはWL《ウェイティングライン》のさらに後方に邪魔にならないよう陣取り、弓具検査を受ける高校生たちを眺めていた。


 重い雰囲気を断ち切り、話題を作ったのは玲奈だった。彼女は弓具検査はなにを見ているのかという質問をした。神藤は救い船を見つけたかのように顔を輝かせ、説明を始める。


「弓具検査は不正防止と確認の目的で、殆どの大会で行われるんだ。」

顔に浮かべた汗を拭い、話を続ける。


「弓に目印になるような大きなキズや細工はないか、タブや弦にルール違反になる加工はしてないかとかだね。後は矢に名前が書いてあるかも確認するよ。」

「なるほど。因みになんで矢に名前を書くんですか?」


 玲奈はここに来る途中に購入した〝 本物の〟お茶を飲みながら、続けて質問した。それは⋯⋯と神藤が説明しようとすると、言葉を重ねてこなっちゃんが先に答えた。


「矢を失くしても誰のか分かるようにするためだよ。この競技、矢を失くして放置すると大問題になるから、誰のか管理して探したり、見つからなければ報告するからね〜」

 こなっちゃんはそのために、羽やノックの色まで確認するんだと付け足した。


 玲奈は納得した様子で高校生たちを見守りながら、手にしていたじゃかりこを楓たちに分けた。本当にピクニックにでも来ているようにくつろぐ姿に一種の安心感を与えられる。楓も貰った1本を口にし、ぼんやりと咀嚼しながら目の前の光景を眺めていた。


 新品の的紙が貼られた的が左に6、審判のいるテントを挟んで、右に11並んでいた。的までの間にタイマーが2つ置かれ、競技者はこれを確認しながら2分以内に3射を射たなくてはならない。


 2人が同時に1つの的に向かって射ち、時間で入れ替わり後半の2人が射つ。これを交互に繰り返し、合計72射720点満点で採点する。SHでは36射を50m、残り36射を30mで射って競技を行うため、オリンピックで使われる70mラウンドとは区別される。


 的の上に刺された、三角形の旗が激しく揺らいでいた。今日は風がある。その風を攻略できるかで大きく順位が変わるのだろう。


 自分だったらどうするだろうか。

そんなことを考えながら、楓は大会の雰囲気を肌で感じていた。いつの間にか弓具検査が終了し、高校生たちは自分の的の前に並んでいる。競技開始前のフリープラクティス、所謂試し射ちが始まるようだ。


 先程まで和やかだった会場に静寂が訪れ、緊張感が一層増した。スイッチが切り替わったかのように、高校生たちの顔が真剣になる。その表情を見渡していると、丁度真ん中あたりに夏希さんがいるのに気づいた。

 自然と視線が固定された。同時にフリープラクティス開始のブザーが鳴った。

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