第9射目 それぞれの弦音

2019年 6月13日

仙台 金矢家

 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 弓の注文を終えた翌日。その日は日曜日だったが、家には夏希しか居なかった。前日の夜、夏希の母は知人に会いに行くと言い残し、朝早くに家を出ていた。


 夏希はこの日、12時ちょうどに起床した。高校に入って以降、休日は惰眠だみんむさぼるのが習慣となっている。布団の中が何より居心地がいい。羽毛布団に買い替えたからだろうか。


 寝ぼけ眼のまま起き上がり、洗面所で顔を洗う。続けて歯を磨く⋯。ここまでは起床後、無意識にすることだった。

 口を濯ぎ終わり、ダイニングに向かうと、食卓にメモ書きが置いてあった。


「夏希へ。

朝ご飯はいらないだろうから、お昼ご飯だけ作って冷蔵庫に入れときました。

今日は18時までには帰る予定です。

以上。

美魔女のお母さんより。」


 夏希はメモを最後まで読むと、そっと折り畳みゴミ箱へ投げた。


 その足で冷蔵庫に向かうと、中には野菜炒めとご飯が入っていた。二つを電子レンジで温め、朝食も兼ねた昼食をとる。

 兄妹がいたとはいえ、取り合いにならなかったため、ゆっくりと食事する。


 昼食をとった夏希は自室に戻るとパソコンを開いた。ホーム画面は左に二列ほどがアイコンで占められている。マウスを動かし、その中にあった動画サイトを開く。キーボードに手を移動させ、World Archeryと打ち込んだ。

 沢山の動画が表示される。夏希はホイールを回し、上から下へと動画のサムネイルを見ていく。


 基本的には全て、海外の選手同士が一対一で試合をするオリンピックラウンドの動画。たまに団体戦や男女ミックスの試合もある。


 かなり下まで見ていき、夏希は一つの動画の前で手を止めた。

タイトルは


「Issac Martin America v Haruhiko Kanaya Japanーrecurve men's gold|Salt Lake City 2018 Olympic」


 それは兄、春彦の最後の試合動画だった。

神藤主将に真似する選手を選ぶよう言われた時、真っ先に浮かんだのは兄の春彦だった。


 憧れている⋯、という表現を夏希は認めたくなかった。ただ⋯、尊敬はしていた。


 動画は選手入場から始まる。

初めに、アメリカのアイザック選手が入場する。


 彼は神藤主将よりも大きな体躯をしており、アメリカの国旗をモチーフにしたユニフォームを着ていた。

 半袖から露出する腕は夏希の太もも程の太さはあるだろうか。口周りはメジロの巣のような髭が蓄えられ、貫禄が感じられた。


 次に兄、春彦が入場した。

こちらは先程のアイザック選手の後のせいか、かなり小柄で頼りなくみえる。

 赤と白の千鳥格子ちどりこうしが特徴的なユニフォームを来ているが、正直あまり似合っていない。


 2人の紹介と審判の紹介がなされた後、試合が始まった。



 その試合は互いに1歩も譲らない、アーチェリー史の中でも稀代の激闘だった。

 通常の試合は大体15分もあれば終わる。しかし、この試合は20分以上も続いた。


1セット目は互いに29点で引き分け。

2セット目も同じく30点で引き分け。

3セット目はアイザック選手が1点差、

4セット目は春彦が1点差でポイントをとった。

5セット目は2人共ミスをし、28点で引き分け、シュートオフになった。


 シュートオフでは先にアイザック選手が射ち、10点にいれる。次に春彦が射ち、オンラインの10点にいれた。


 2人共、同じ得点を射ったため、もう一度シュートオフが行われた。

 1度目が同点の場合、2度目で点数の高い方、同点なら中心からの距離が近い方が勝つ。


 2射目、アイザック選手はXに限りなく近い10点に入れた。

 この時点で、春彦が勝利するためにはXに入れるしかなくなった。


10点の範囲ですらCD程の大きさ。

その中のXはその半分程の範囲。


 70m先からたった1射でそれを狙うなど、もはや絶望的状況としか言えなかった。




だが、春彦はそこに当ててみせた。




 誰もが心の中で終わった⋯と、思っていた中、春彦はその予想を裏切ってみせた。

 春彦は夏希の前では見せたことがないほど、狂喜した。


「兄さん、凄いけど⋯テンション怖いな⋯。」


 夏希は気恥ずかしくなり、動画内の春彦を冷めた目で見つめた。最後に春彦が退場したところで動画は終わった。


「⋯やっぱり、凄かったんだなぁ⋯」


 息が詰まる試合。

夏希はその余韻に浸っていた。トップレベル同士の戦いは、見ているものを総じて魅了する。


「よし、もう1回!」


夏希は同じ動画を再び再生した。


 先ほどと同じ流れ。ただ今回は春彦の射型を集中して観察する。

 時折止めたり、巻き戻したり⋯。

同じ動作を何度も何度も繰り返させる。


スタンスの幅。

矢の番え方。

グリップと取りかけの決め方。

セットアップの仕方。

アンカーの仕方。

エイミングの時間。

射った瞬間のフォロースルー。

それらを注意深く見ていった。


「そういえば、兄さんが射った瞬間、殆ど音がないんだ。」


 弓道で言うところの弦音つるね、春彦の射では無音と言っていい程それが聞こえなかった。


 音が聞こえない程に小さい。

それは様々な条件を同時にクリアしないと起きないことだ。


 弦を殆ど揺らさずに真っ直ぐ、優しくリリースする。弓を傾けず、地面に垂直にする。完璧なチューニングがされた弓を使う。


 これらが高い次元でなされて漸く起きる現象。つまり春彦はそれが出来る人物だったという事だ。


 1回目よりも時間をかけて2週目を見ると、すぐさま3週目に入った。3週目はさらに細かいところまで⋯


取りかけの指の深さ。

セットアップ前の弓の高さ、腕の位置。

セットアップで1番高いところはどこか。

どの高さから弓を引き始めるか。

アンカーに入った時の取りかけの指の位置。

弦と唇、鼻はどこで接しているか。

フォロースルー直後の肩や腕の高さ。


 画面に穴が開くのではないかと言うほど、細かいところまで凝視して観察する。


 その日、夏希はこの作業を19時に母が帰ってくるまで、休みなく続けていた⋯。


 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

2019年 6月14日

仙台市 小鳥新田駅周辺


 松本楓は弓が入った長いアタッシュケースを引きながら、小鳥新田駅を歩いていた。

 部室に多々あるケースのひとつ。比較的綺麗なのを選んだつもりだったが、表面は細かい傷だらけだ。


 目的地は活気フィールド宮城。

複合型の運動場で、野球場やプールなどもある地元では有名な施設だ。ここには珍しく、アーチェリーレンジもあった。


 今日は大学の練習が休みなため、前日に弓を借りた楓は自主練のつもりで訪れていた。


 駅からは一本道。

歩道は広く整備され、タイルが敷きつめられている。道にはゴミひとつなく、美しい景観が保たれている。ガラガラガラ⋯と、ケースのホイールとタイルが織り成す音が、閑静な街に一層響く。


 楓はこの悪目立ちする音が嫌いだったが、重くかさばる弓を運ぶには仕方ないと諦めて開き直っていた。


 やがて施設に到着した。

何10台も停められるだろう広い駐車場。

あたりを小学生くらいの少年少女が走り回っている。入口は二重の自動扉だった。透き通る透明な扉からは、日々丁寧に掃除されていることが窺われる。


 入って右手側に受付が見える。スタッフが不在だったので、傍にあった呼び鈴をならした。事務室になってもいるのか、机やパソコンが沢山並んでいる。その中から車椅子にのった若い女性がゆっくり近づいてきた。


「こんにちは。ご要件を伺います。」

「アーチェリー場を⋯」


 それだけ言うと、楓は施設利用の許可証と、全日本アーチェリー連盟に加入しているという証明の会員証を差し出した。


 続けて財布を手に取り、中から3千円で11回利用できる回数券の1枚を渡す。


「分かりました。えっと⋯、今日で3回目のご利用ですね。ありがとうございます。もう開いていますので、ご利用ください。」


 夏希は会釈をし、場を後にする。

1階の施設内を階段を横目に奥に向かって歩くと、開けた場所に出る。分厚い体育館の扉の右側にもう1つ、自動扉があった。


 2度目の自動扉を通過すると、施設の外に出た。とは言っても駐車場と建物の間の通路のような場所だ。左ではガラス越しにバドミントンをしている学生達が、右には先程まで歩いていた施設の前の道がみえた。


 正面の視線を戻すと少し奥に、この施設の綺麗な外観には似つかわしくない壁が目に入る。それは高いコンクリートの壁に覆れていた。25メートルのプール2つ分程の奥行があり、天井を取り払った牛舎のような建物。地面には砂利が敷かれている。

 中の様子を窺うには、空からか入口の自動扉から覗くしかないという閉ざされた空間。


 楓は入口に立つと、中に人がいるのに気づいた。


 黒とピンクのジャージ。

明るめの茶色の髪を後ろで結び、ポニーテールにしている。体のラインが細く、楓と同じくらいの身長。白と黒の二色で構成された弓。


 扉が勝手に開き、彼女も楓の存在に気づく。


「あっ、景大の松本さんですよね!」


 彼女は屈託のない笑顔で話しかけてきた。

楓も遅れて挨拶をする。


「前に来てくれた、金矢さん⋯だよね。」

「はい!あ、金矢か夏希でいいですよ。後輩ですし。今日はお1人ですか?」


「じゃあ、夏希で⋯。私も楓でいいよ。アーチェリーのキャリアでいったら後輩だからね。今日は1人で自主練。」

「じゃあ⋯、すいません。お言葉に甘えて⋯、楓さんで。あの、ご一緒してもいいですか?」


 楓はうなづいて了承した。

 以前来た時にいた、知らないおじさんと一緒よりは気が楽でいい。ただ、彼女の言動に⋯なにか違和感を感じていた。


「そういえば、夏希のその弓⋯。前と変わったんだね。」

「あっ!そうなんです。ついさっき届いて、急いで学校早退してここに来ちゃいました。さっきまでセッティングとかやってたんです。」


「そう⋯、いいね。羨ましい⋯」


 小さく呟いた最後の一言は、どうやら夏希には聞こえなかったらしい。小首をかしげるが、楓は2度は言わなかった。


 新品の弓は全体が輝いて見える。ハンドルと弦、リムの表面が白、他が全て黒でまとめられ、統一感のある弓だった。


 楓が見とれていると、夏希が穏やかな口調で話しかけてきた。

「そういえば、楓さんって思ってたより静か⋯というか、クールな感じなんですね。」

「そう⋯かもだけど。初めからこんなじゃなかった?」


「いえ、初めてあった時、凄く元気な挨拶をなさっていたので。熱血な人かなぁ〜と。」

「あぁ。あれね。うちのコーチはその辺の礼儀とか厳しいんだ。声が小さかったりすると、後できつく叱られる⋯。」


「そうだったんですか〜。」


 夏希は納得したように微笑む。

まただ。なにか、こう⋯。わざと無理してつくっているような⋯、そんな違和感。


「あ、じゃあ私、もうすぐチューニングも終わるので。ささっと済ませちゃいますね。」

「あ⋯、うん。じゃあ私も弓を⋯」


 夏希はSLに立ち、射ち始めた。楓も壁際により、ケースを開けて弓を組み始める。


 作業をしながら、楓は夏希の射型が前に見た時と変わっていることに気づいた。


 知識が追いついてないため、1つ1つを口で説明することはできないが、全体的に洗練され美しくなったように見えた。


 前はノッキングをするとすぐに弓を大きく持ち上げ、素早く引いていた。引くことを急いでいるような、当てることを急いでいるような⋯、そんな見ていて不安になるような射型だった。


 今は動作を確認するように1つずつ丁寧に行い、ゆっくり上げて等速で静かにアンカーまでもっていく。

 エイミング中も震えが少なく、止まって見える。射った瞬間も両腕が伸びたかのように大きくフォロースルーを取っていた。


「凄いなぁ⋯」


 楓は弓を組みたてながら感心していた。

勝手に自分と同じくらいの実力だと思い、親近感を覚えていたが、そんなことはなかったようだ。


 夏希が30mを6射毎に射ち、5往復程したその時、楓も弓を組み立てと準備運動が終わった。


「あ、射ちますか?私も今チューニングが終わったので、一緒に射ちましょう!」

「30mでいい?私まだそれ以上は射てなくて。」


「大丈夫です!私も30で練習したいと思ってたので。今日は調子いいですし!」

「良かった。6射ずつお願いね。」


 そういうと楓は夏希の後に立ち、隣の的に向かってスタンスを決めた。


 30mはアーチェリーの競技で使われる距離で1番簡単とされているが、それでも遠く感じる。


 楓は先輩に教えられた通りの、射法12節⋯、


 スタンス、ノッキング、セット、顔向け、セットアップ、ドローイング、アンカリング、トランスファー、エイミング、リリース、フォロースルー、フィードバック


 これらを頭で確認しながら、身体を動かす。


 少し大きな音を立てて、矢は飛んでいく。

緩やかな弧を描いて的に刺さる。どこに刺さったかは視認できないが、同じように残りの5射を打ち切った。


 楓より早く射ち終わっていた夏希は、楓が射ち終わったのを確認し、矢取りの合図をした。


「私、弓変えてからすごく調子が良いんです。これも景大の皆さんのおかげです!」

「それは良かった。主将達が聞いたら喜ぶと思うよ。」


「本当に助かりました。主将さん、優しくていい人ですよね〜」

「とんでもない!」


楓は思わず声を張り上げた。

夏希がビクリと体を震わせる。


「夏希が来てた時は特別だよ⋯。口調は優しいけど、主将は練習の時は鬼。」

「鬼⋯ですか。」


「そう、試合の時も本当はもっとやばいよ⋯。あの時は軽い試合だったから⋯。」


 夏希はあの試合で軽くだったのか⋯、とその時の神藤の気迫を思い出して震えた。


「あっ⋯、そ、そういえば、楓さんもそのうち弓を買うんですか?今のそれ、レンタルですよね。」

「うん。部の備品。買いたいけど、うちはどうかなぁ⋯」


 そんなことを話しながら歩くと的まではあっという間に到着した。各々、自分の的前に立つと、的中を確認する。


「やっぱり、まだ広がるなぁ⋯」


 楓の矢は的の黒から赤まで、上下左右に散っていた。これがだんだん集中してコンパクトにまとまらないと、アーチャーとしての成績は残せない。


 ふと隣の夏希の的を見る。そこには黄色の範囲に小さく矢がまとまっていた。恐らく全て9点以内。


「やっぱり、同じじゃないか⋯。キャリアも才能も違うもんね⋯」


楓は心の中で1人諦観ていかんした。


 施設の利用時間いっぱいまで、2人は射っていた。片方はパンッ!、片方はピシュッ!と小さい音をたてながら。


 2人が帰る頃の空は、朱のカーテンに墨を混ぜ込んだような、重苦しい色をしていた。

 来た時に楽しげな声を上げていた子供たちも既にいなくなっていた。


「では、またいつか一緒に射ちましょう!」

「うん。」


 終始機嫌のよかった夏希は、相変わらずの笑顔で手を振り去っていく。

 楓にはその笑顔に見覚えがあった。重ねられる過去。肌を通過する風が、いつもより冷たく感じられた。







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