第4射目 スタートライン

2019年6月5日 AM11時

宮城県 仙台市 私立那須学園高校

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 その日、夏希は一日中、朝の出来事が気になっていた。授業中の教師の発言も、今の夏希は意味のあるものとして認識できなかった。


初めて、狙ったところに矢を当てられた。

初めて、当てる位置を修正できた。

初めて、思った通りに上手くいった。


 夏希はひたすらに感動を噛み締めていた。

そうしているうちに、またこの感覚を味わいたいと思うようになっていた。そんなことをぼんやり考えているうちに、気づくと放課後になっていた。

 夏希は、我ながら学生としては不真面目きわまりないと苦笑した。教師に叱られても文句は言えないなと反省していた。


 普段の夏希はこの後すぐに部室に向かうところだが、今日はすぐに帰ることにした。

授業中に考えていたことを、すぐにでも母に相談したかったからである。


 部での夏希の立ち位置的に、無断で休んでも問題は無い。そう言い聞かせた夏希は、胸が締め付けられるのを感じていた。


 夏希は足早に駐輪場に向かった。所々が錆びたカゴのついた銀のママチャリ。漕ぐと黒板を爪で引っ掻いた時のようなキリキリとした音を立てる。その状態でも、6年間夏希と共に移動してきた実績がある。夏希はそんな愛車のスタンドを蹴りあげ、立ち漕ぎで走り出した。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯2019年6月5日 PM4時

仙台市 金矢家


「ただいまー」

と夏希は家に響くように声を出した。


家の奥から姿はないが、

「おかえり、今日は早いのねぇ」

と返ってきた。


 家に着くと母が先に帰っていた。介護士として働く母の勤務時間はシフト制だ。家を出る時間も、帰宅時間もいつも異なる。夏希は確か今日は早番だったか······と思い出した。相談事のある夏希にとっては都合が良い。


「お母さん、相談があるんだけど」

「んー?どうしたの?」


朝よりも少しのんびりとした返事。

母はキッチンに立ち、夕食を作りながら背中を向けて答えた。


夏希は一息ついて、ハッキリと言う。

「私、新しい弓が欲しい。」


 数時間前から考えていたことを伝える。

天城という男に教えられたこと。兄、春彦の弓は自分には合っていないということ。それが今、悪影響を及ぼしていること。


「んー、今のお兄ちゃんのじゃだめなの?」

「だめ!」


 興奮から勢い余り、少し口調が強くなってしまった。瞬時に返答され、夏希の母は目を見開く。しまった、驚かせてしまったと反省する。


母は夏希の顔を見て、優しく微笑みながら

「分かったわ。いいよ、買いな。」

と短く答えた。


 えっ······、と夏希は驚きの声を上げる。説得はかなり苦戦するだろうと夏希は予想していた。それにもかかわらず、一瞬で了承され、思わず耳を疑った。なぜならアーチェリーの弓は安いものではないし、うちではもう買えないと思っていたからだ。


 ひとつの弓は沢山のパーツが組み合わさってできている。主要部分はミドルクラスでも10万は超え、トップクラスのものだとさらにかかる。さらに付属の部品も買うと、大体20~30万円近くにはなってしまう。


 そんな高額なものを二つ返事で了承されるとは、夢にも思ってなかった。念の為、頬をつねる。じりじりと痛みを感じる。夏希は夢じゃないと確認した。


「ほんとに良いの?」

「んー、だってお兄ちゃんの時もちゃんと買ってあげたし、夏希のもそろそろ新しいの買わないとって思ってたからねー。だからお金も貯めてたんだよー」


 母はそう言いながら再び振り向き、やさしく微笑んだ。夏希をみつめるその瞳は、慈愛に満ちていた。


「ありがとう······。本当に、ありがとう。」

「うん。買うもの決まったら教えてね。お金渡すからー」


 心の底から感謝をし、夏希は部屋に向かった。今になって身体が震えてくる。肩の荷が一つおり、気持ちが軽くなった。今日1日で夏希が救われた気持ちになったのは何度目だろうか。


 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

「自分の弓か······、どうしようかな」


 部屋に帰ると夏希は悩み始めた。制服を着替えて部屋着用のジャージに着替える。部活用のジャージはファフリーズを満遍なく吹きかけてハンガーにかけた。


 言ってはなんだが、これまで夏希は弓具のことなどを真剣に考えたことは無かった。ただひたすら射つ練習をしてきたため、弓具の知識についてよく分かっていなかった。


「大金をだしてもらうんだ、しっかり選ばないと。」


 お金のことを考えると、プレッシャーが押し寄せてきた。買って失敗した、合わなかったでは済まない。重大な決断をしなくてはいけない。


 だが、夏希の傍には弓の知識のある人がいなかった。兄は別として家族は全くアーチェリーの知識はないし、部員に聞こうにも相手にしてもらえる程の関係を築けていない。


 適当にはぐらかされるか、からかわれるか、下手したら適当な情報を掴まされるかもしれない······。

とても頼れたものではなかった。


 かといって近くに頼れる専門店もない。

こういう時に、マイナー競技であることはつくづく不利であると実感する。野球やサッカーなら、簡単に聞く相手が見つかるだろうに。


「行ってみるしかないか······」


夏希は朝の出来事を思い返す。

今日初めて会った人達の言葉。

自分に新たな気づきを与えてくれた人たちがいる場所。


「······景水大学。」


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2019年 6月12日

宮城県 景水大学 アーチェリー練習場


「はい、お疲れ。今から10分休憩。終わったら各自近射するように。」


「「はい!」」


 天城コーチの低いもよく響く声に返事をし、部員達は各々休息をとる。

 1人はストレッチをし、1人は間食のパンを頬張る。向こうの男子達はスマホでゲームでもしているようだ。


 松本楓も座り込んで休みたかったが、1年生はその前に的紙を張り替えておく仕事がある。薄暗く埃臭い倉庫から新品の的紙を取り出す。


「かえでー、いくよー」

「了解〜」


 楓を含む1年生たちは、30m先の的が置かれている場所まで小走りで向かった。中心の黄色から赤色の枠までボロボロになった的紙を外し、素早く手にしていた新しい紙へと交換する。四方をピンできっちりと固定したことを確認すると、次はさらに後方、20m向こうに同じく走っていく。


 シューティングラインから見ると50m先の的だ。30mよりも難しいため、比較的1箇所がボロボロになっている的は少ない。特に破れているものだけを選び、新品のものと交換する。


 的は70mのもあるが、そちらは的紙自体が大きく、まだ使えるため貼り替えはしなくて良いと言われていた。

 楓たちはそれぞれ、ボロボロになった的紙を折りたたみ、脇に挟むようにして戻ろうとしていた。その時、


「おっ、あれ誰だろ。あの、紺のジャージのこ。」


 隣にいた男が、まるで珍獣を見つけた時のような煌々こうこうとした瞳を向けて言った。

 名前は前田悠まえだゆう。同じ1年だがアーチェリーへの関心が強く、特に弓具に関しての知識が豊富な男だった。コーチにもよく質問にいっているようで、割と気に入られているように思う。


 ただ同時に女好きでもあり、チャラい······。楓にもよく話しかけてきたが、苦手なタイプだと認識していた。


 前田が指さす方に目線を向けると、そこには天城コーチと話す、1人の少女がいた。

 髪は楓より長く、後髪がシュシュで纏められている。右から大きく分けている前髪は、視界の邪魔にならないようピンで留められている。

 身長は私と同じくらいだろうか······

楓はそんなことを考えているうちに、ふと記憶が蘇る。


「あのこ、前に行った高校で私が弓を貸したこじゃない?」

「あぁー、そうだ!そのこ!普通に可愛いかったから覚えてる!」


 前田は納得した様子で頷くと、歩調を早めた。気になっていた様子の他の1年生達も含め、楓たちはコーチ達の元へ向かった。






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