第3射目 感動、気づき、天城

 数分後、先程の男が一人の女性を連れてきた。夏希と同じくらいか、僅かに年上に見えるその女性は、夏希と同じ位の背丈であった。


 小顔で童顔。少し青みがかった髪は短く切り揃えられていて、クールな印象を与える。ハッキリとしたガラス玉のような瞳が、重力に逆らい長く伸びたまつ毛でより強調される。


 首から下は細く痩せている。失礼ながら胸も大きくはないため、遠くから見れば少年に見間違えるかもしれない。


「待たせたね。ほら挨拶を······」

「はいっ、コーチ!自分は景水大学1年っ!松本楓まつもと かえでと申します!宜しくお願いします!」


 夏希は見た目とは裏腹な、突然の大きな声に驚いた。突然耳元でラッパを鳴らされたかのように、耳がキンとする。挨拶で圧倒され、頭が痛くなった経験は初めてだった。


「楓、弓をちょっと組み立てて。ポンドは3周位締めて上げといて。クリッカーは外していいから。」

「分かりました!すぐ組みたてます。」


 コーチと呼ぶ男に指示され、彼女はテキパキと弓を組みたて始めた。この男と彼女の間には相当に大きな上下関係があるのか。


 そう考えた夏希は身震いした。中学の部活では上下関係が厳しく、その影響で先生だったり、先輩といった立場が上の者にすこぶる弱い。


「あの······、これはどういう状況ですか?あと、どちらさまですか?」


 夏希は状況についていけず、凍えた人間のそれのように震えた声で訊ねた。傍から見れば夏希が、どんどん小さくなっているように見えるかもしれない。


「今から君には彼女の弓で射ってみてもらいたい。ポンドはちょっと弱いかもしれないが、扱いにくいほどではないはずだ。」

と落ち着いた様子で男が言った。


反対に夏希は

「他人の弓を使うなんて無理です!」

と声を張り上げて返した。


 アーチェリーは各人、自分専用に弓を調整している。そのサイズや引きの強さ、重量、色合いやグリップ等、人それぞれ違っている。そのため、他人の弓を使用しても使いこなせないし、何より当たらないことは常識であった。


男は再び夏希の目を見て

「では、何故君はお兄さんの弓を使ってる?」

と聞いてきた。


それは······、と夏希は言葉に詰まる。

背中を嫌な汗が、首から腰までを舐めるように伝う。ジャージの下の下着が肌に張り付いてきた。


 夏希の理由として、単純に金銭的事情で、自分の弓を買うのを躊躇ためらった点もある。今は使わなくなった中学時代のものと兄のもの。既に2つもフルセットの弓を買っている。


 金矢家の経済事情を鑑みて3機目の弓フルセットを買うのはかなりの打撃であった。

それを気遣った······、というのが建前上の理由であった。


だがもう1つ、人に言えない、言いたくない理由があった。それは強い人が使っていた弓ならば、夏希のように弱い者が使っても、少しは点を出せるようになるのでは······、という競技者として不純なものだった。


 裏の理由が頭をよぎり、夏希は押し黙った。その様子を見てか、男は答えを聞くのを諦めて口を開いた。


「まぁ、いいから1回射ってみて。」


 いつの間にか、男は組み立てられた弓を松本から手渡されており、それを夏希の前に差し出していた。その弓は所々に負った傷から年季を感じさせ、どこか痛々しさを感じさせた。


 気は乗らなかったが、夏希はその弓を受け取り、渋々シューティングラインに立った。プラスチックのレストに、普段と同じように矢を番え、グリップに手を添える。


 同時に、夏希は掌からいつもと違う感覚を得た。グリップが春彦の弓よりも細く、夏希の手にすっぽりと収まる。手に合わせやすい。そのまま弓を持ち上げると、真っ直ぐドローイングした。少し引きが弱いが、その分引き込みやすい。


 エイミングに入ると、スタビライザーのバランスが丁度いいのか、サイトピンの揺れが普段の何倍も小さかった。ピンの赤く塗られた球が、黄色い円を滑らかに泳ぐ。


 クリッカーに矢を通していない為、自分の好きなタイミングで射った。矢は緩やかな弧を描き、6時方向の7点に刺さる。

 ポンドが下がったせいか、それとも自分のせいか。それは分からないが、定石通り矢が下に刺さった分を修正すべく、サイトを僅かに下げた。


 2射目、6時方向の9点に刺さった。

狙ったところにそのまま矢が飛んでいく。修正も確実にできている。夏希にとってそれは初めての経験だった。胸が高鳴るのを感じていた。


 再びサイトを少し下げ、3射目。

少しリリースが引っかかったが、9点に入った。その後、4射目以降は10、10、9点と最初の1射以外、全ての矢がゴールドに入った。


「凄い······」


 夏希は自分の見ている景色が、ゆっくりと広がっていくのを感じていた。薄く覆っていた霧が晴れていくような、凍っていた心が溶かされるような気持ちだった。アーチェリーが楽しかった時の記憶が蘇る。


 狙ったところに矢が刺さる。

その現実は、夏希が体験したことの無い、極上の喜びを孕んでいた。


「やはりな······。君の射型自体はそこまで悪くない。勿論改善点は沢山あるが。だが自分に合った弓を使えば、今より格段に点数が伸びるはずだ。」


 夏希は手にしている弓と男を交互に見つめた。毎日毎日、ただ射ち続けていた日々が走馬灯のように思い出される。


 自分に合った弓を使うことの重要性。

グレードが良いとか強い人が使っているから良い、ということは無いのだと、競技を始めて6年越しに気づかされる。


「もう分かったかな。じゃその弓は······」


 男は手を差し出し、夏希に返すよう促した。手放したくない。もっとこの感覚を味わいたい。そう夏希は心の内に思うも、渋々返却した。


 男は傍で立っていた松本という女性に弓を渡し、片すようにと指示をした。彼女は手際よく、弓を解体していく。


彼女がスタビライザーを外し終え、弦を外そうとした時、後ろから小太りの男が駆け寄ってきた。


「コーチ〜!そろそろお時間ですよ〜!」

と僅かに息を切らしながら男は叫んだ。


その男の顔は若く、頭一つ夏希よりも背が高い。短い髪が上下に揺れる。


「前田か。あぁ、分かった。もう行くよ。」

中年の男は相手に聞こえる最低限の声量で答えた。そしてまだ弓を片しきれてない女性を置いて、男は背を向けて歩き始める。


夏希は慌てて

「あのっ!お名前を伺ってもよろしいでしょうかっ!」

と声を張り上げて訊ねた。


松本と名乗った女性の挨拶には及ばないが、夏希基準ではかなり頑張った。歩いていた男は立ち止まり、そのまま背を向けて答える。


「天城だ。景水大けいすいだいアーチェリー部でコーチをやってる。······うちにはいつでも訪ねてくれて構わないよ。」


 そう言い残し、天城と名乗る男の後ろ姿はどんどん小さくなっていった。

 もう見えなくなるかというところで、弓を必死に片していた女性もそれが終わり、夏希に会釈をして追いかけて行った。夏希はぼんやりと目で背中を置いながら、景水大学······と呟く。


 景水大学は地元の私立総合大学である。この辺り、東北地方では誰もが聞いたことのある有名な大学だった。


 夏希は光を感じていた。空を覆う雲が割れ、光が地上を照らすような。暗闇を歩くものに希望を与えるような光の道が視界に現れていた。


 振り返り的を眺める。そこには、先程自分が射った矢が狭い範囲に刺さっていた。1箇所に集められた矢は、赤いノックの色が際立ち、的の中心に花が咲いているように見えた。


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[用語説明]

・ポンド(lb)······弓を引いた時の強さ。1ポンド=約0.45kg、男性は35~50、女性は30~45ポンド辺りの弓を引くのが一般的。


・グリップ······弓を持つ、支える箇所。材質は主にプラスチックや木。弓によって形状が異なり、人によってはパテ等で自分に合うように作っている。


・サイトピン······サイト(照準器)に付属する直接狙うための道具。フレームが丸や四角だったり、直径の大小、中身がシールか光ファイバーか等種類が豊富にある。


・シューティングライン(SL)······射手はこのラインを跨ぎ射ち始める。他にこのラインから的側3mに引かれる「3mライン」、SLより後方にある準備のための「ウェイティングライン(WL)」等がある。


・クリッカー······矢を放つ時の目印になるもの。矢を引いてきて、クリッカーが落ち、音がなった瞬間に矢を放つことでタイミング、強さの一定を図る。


・ノック······矢のパーツのひとつ。矢は的に刺さる、先端のポイントと羽(ベイン)、本体であるシャフト、そして後方に付けられるノックにより構成される。弦とノックを合わせることで、ここを支点に矢が放たれる。


・レスト······矢をつがえるための支点になるところ。




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