第7話 堕女神

 思わず耳を塞ぎ、あたしは変質した神殿へ視線を投げた。


「今のは、なに?」

「察しはつくだろう?」

「……まさか、堕女神」


 静かなつぶやきに、ガーナは頷いて肯定する。

 神殿の扉は閉ざされており、まだ堕女神の姿は見えない。

 だからこそ、あたしはまだ見ぬ脅威を想像し、堪えようもなく身震いしてしまった。


「シズ。一応訊いておくけど、君は堕女神を見たことは?」

「……ないわ」


 返答する声が少し上擦る。

 しかし、臆病風に吹かれるあたしを、ガーナは責めなかった。


「なら、肝に銘じておくといい。堕女神は流行るはずだった病、起きるはずだった災害、大きすぎる人の負の感情……あらゆる穢れを体に取り込み、消耗しきった女神のなれの果てだ。当然、今この中にいる堕女神も、人型の姿を留めてはいないだろう……わかるかい?」


 彼の落ち着いた声色は親切だ。

 だが、暗にあたしに剣を握り、覚悟を決めろと言っているのがわかった。

 グリップを握る指に、必要以上に力がこもる。


「つまり、姿を見てもビビるなってことでしょ」


 唇を噛みしめた後に絞り出した返答を、ガーナは満足気に笑って受け取った。


「やれるか?」

「それ、二度は訊かないでよ。決意が揺らぎそうになるから」


 直後、ガーナは剣を構えたまま歩き出し、脈動する神殿の扉を掴む。

 そして!


「乗り込むぞっ」


 彼は、そう告げると一息に扉を開いて見せた!


 しかし、扉が開いた途端、目の前に広がったのは一切の光を許さない暗黒。

 あたし達は『乗り込む』と宣言したガーナを含め、全員が中へ足を踏み入れるのを躊躇した。


「……これ、中に入るのはまずいんじゃないの?」

「奇遇だな。僕もそう思ったところだ」


 ゼトの視線が神殿内からあたしとガーナへと移り、彼の手指が動く。

 その後。


「ああ、罠だな」


 ガーナが答返すると、それ以降、あたし達はどうにも動けなくなってしまった。


 今、神殿内は夜だということを差し引いても、あまりに暗闇が勝ちすぎている。

 それは、この中に燃え盛る松明を投げ込んだとしても明かりを得られないのではと思う程だ。


「これも堕女神のせい?」


「ああ。この手のタイプは何度か経験した。一歩でも暗闇に足を踏み入れると、視界を奪われたままなぶられる」


「……それって、打つ手がないってこと?」


 膠着こうちゃく状態が続きそうな現状に、つい呆れた声が出た。

 だが。


「いや……このまま待っておけばいい」


 ガーナ達は剣を構えたまま集中力が途切れない。

 あたしは、それが不思議になって――ほんの一瞬、剣を握る手から力を抜いた。

 その時!


「GIIIIAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」


 暗黒の中から、再びの咆哮!

 あたしは剣を落としそうになりながら、グリップを握り直す。


「なんなのっ!?」

「しびれを切らしたのさ!」


 にやりと歪んだ口から放たれた言葉は、冗談みたいに聞こえた。

 しかし、暗黒としか言いようのなかった神殿内にかがり火が灯り出し、あたしは目を疑う。


 祭壇へと続く赤地の絨毯。

 そして、踏み荒らされ、所々木っ端となった長椅子の列。

 揺らめく炎の赤光が内装を照らす中……大きな影を床に落とし、それは宙に佇んでいた。


「GURU……GA……」

「……っ」


 思わず、言葉を失う。


「相手は自分を狩る側だと思っている。隠れて獲物を待っていても、いつまでも傍へ来ないとなれば……君ならどうする?」


「それ……今、答えなきゃだめ?」


「いいや。そう言えば僕達には先にやることがあったな」


 かがり火が神殿内を照らしたことで、あたしは宙に佇む堕女神の全容を把握した。


 目前の堕女神はムカデのような黒い甲殻を鎧として纏い、黒剣と黒い宝玉のはまった盾を装備している。

 しかも、奴は武具を持つ四肢とは別に、背中から八本の部位を生やしていた。


 太く、長いそれらの部位は、まるで蜘蛛の脚のように機能し、奴を天井近くまで持ち上げている。

 おかげで、ただ剣を振り回すくらいでは、堕女神の本体へは攻撃が届きそうになかった。


「で、どうやって戦うの?」


 つい、弱気な声が指示を求める。

 すると、ゼトが手指を動かした後、ガーナがぽつりと告げた。


「そうだな……まずは、あの脚を斬り倒してみるか?」

「あ、脚っ?」


 ガーナの言う『脚』が八本の部位を指すことはすぐに理解した。

 しかし、それでもあたしが聞き返したのは、奴の『脚』がとても斬り倒せるような太さに見えなかったからだ。


「き、斬れるのっ?」

「斬れなきゃ、本体を攻撃するのに苦労がいるな」


 どうにも確信がないらしいガーナの発言を聞き、嫌な汗が流れる。

 だがっ!


「GIIAAAAAAAAAAAA!!」


 こちらを狩るつもりでいる堕女神を前に、あたしはそれを『試す』以外の選択肢を思い浮かばなかった。


「行くぞっ!」


 ガーナが吠え、勢いよく一歩目を踏み出す。

 しかし、あたしが彼に続こうとした直後――。

 ガーナが神殿内へと足を踏み入れた途端――天井近くに佇んでいた女神の体が勢いよく突進して来た!


「なっ――!?」


 一瞬で詰まった堕女神とガーナの距離!

 あたしは、堕女神の瞬発的な動きを何一つ理解できない。

 ただ、堕女神が繰り出した斬撃をガーナが防ぎ、衝撃を殺しきれずに彼の体が背後へと吹っ飛ばされたことだけは、この目で理解した。


「ガーナ!」

「前を見ろぉっ!」


 反射的に前を向くと、黒い刀身が自分へと振り下ろされる寸前だ!

 あたしは剣を握りしめ、全力で斬撃を受け止める。

 しかし、堕女神の一撃は想像以上に重い!

 続けて奴が剣を横に薙ぐと、あたしの体は簡単に神殿内へと吹っ飛ばされた。


 そして、直後に背中へと衝撃が走る。


 木材の潰れる音が耳に届き、長椅子の残骸に体が叩きつけられたのだとわかった。


「ぐっ――」


 頭が立ち上がれと命じる。

 だが、体が言うことをきかない。

 あたしは唯一動く目を使い、堕女神の姿を視界へと戻した。

 すると。


「ガアッ」


 ちょうど、ゼトが堕女神へと斬り掛かる瞬間を目撃する。

 しかし、彼の繰り出した剣は奴の体をかすりもしない。

 ゼトが剣を振るった途端、堕女神の体が糸で引っ張られるかのように背後へとさがったからだ。


「グゥッ」


 ゼトの悔しそうな声が漏れる。

 でも、あたしはこの時、ゼトと堕女神の一連の戦闘を見たことにより、奴の動きの本質を垣間見た。


「振り、子……振り子だっ!」

「ッ!?」


 ゼトの驚いたような反応を目にしながら、あたしは唇を噛む。


 堕女神は八本脚の部位を伸縮させ、時に前へ、時に後ろへと、自由自在に体を弾くように動かしていた。

 さしずめ、弦で矢を打ち出すかの如く。

 八本の脚を使い、勢いを秘めた攻撃と回避を可能にしていた。


「もうっ……自分の好きな時だけ、寄ってきたり、離れたり……」


 動かない体と堕女神の人間離れした動きに、焦りと嫌悪感が入り混じる。


 だが、そんな負の感情に浸っている暇もなく、堕女神の本体は再び剣を構えてあたしへと弾き飛んで来た!


「GIIAAAA!!!!」


 砲弾のように迫る堕女神に、あたしはなす術もない。

 ただ、あの一撃を生身で受ければ助からないと、理解もしている。

 だからっ!


「ああっ――!」


 奴が剣を振りあげた直後、あたしは体を転がし、奴が振り下ろす剣の軌道上から外れた!


 あたしの横たわっていた床が砕け、石床の破片が四散する。


「GI? GIRUAAAAAA!!」


 しかし、攻撃を外した堕女神が再びあたしを視界にとらえた。

 振りあげられる黒剣。

 だが、剣を握る手に力を込めながら、あたしはまだ持ち上げることすらできない。


 でも!


「ギアアッ!」


 堕女神からもう一撃くらおうかという時!

 堕女神へと走り出していたゼトが、奴よりも早く剣を振り下ろす!


 しかし、一歩遅かった。


 ゼトの接近に気付いた堕女神は脚を動かし、体を天井へと吊り上げて攻撃を避ける!

 しかも、体を吊り上げる際に、堕女神は甲殻に覆われた本体の脚でゼトの腕を蹴り上げていった。


 すると、ゼトが握りしめていた剣は彼の手を離れる。


 金属が石床へと叩きつけられる音が響くと、丸腰となったゼトは堕女神をにらみつけた。


 これでは脚を斬り倒すどころの話ではない。

 あたしは自分達の目論見が失敗したと悟り、ただただ目前の巨大な殺意の塊を恐れた。


 だが!


「ゼトォッ!」


 一瞬の内に磨耗しかけた精神が、ガーナの一声を聞き現実を直視しなおす!


「踏み台だっ!」


 でもこの瞬間、あたしにできたことと言えば、ただ彼らの奇策を見届けることだけだった。


 ガーナの一声を聞き、ゼトはその場から一歩下がるなり身をかがめる。

 それは、堕女神にとってかっこうの的だった。

 しかし、奴が吊り上げた体を下ろし、ゼトへと斬り掛かるよりも、ガーナの方が早い!


「GI!?」


 刹那。

 無防備なゼトへと堕女神が気を取られたと同時――。

 走り寄って来たガーナがゼトの背を踏みつけ、彼の肩へと足を乗せる!


「グゥッ――」


 次の瞬間、かがんでいたゼトが勢いよく立ち上がった!


「――ガアッ!」


 その様は、発射台という言葉がピッタリだ!

 ゼトは上段に剣を構えたガーナの体を打ち上げたのだ。

 さらに、そこからガーナがゼトの体を蹴り上げて跳躍し、剣を堕女神に向かって振り下ろす。

 その一撃は、脚によって体を吊り上げていた堕女神の本体へと届く攻撃となっていた。


 しかし。


 ――ガンッ!


 部屋に響き渡ったのは鉄で鉄を殴りつけるような音。

 肉を断つ音とは似ても似つかない。


「ちぃっ――」


 見れば、堕女神の持つ盾が、はめ込まれた宝玉を砕かれながらもガーナの一撃を防いでいた。


「そんなっ!」

「ッ!」


「GU――RU……? GA!?」


 だが、予想外の攻撃を受けたせいだろうか?

 盾で攻撃を防いだ筈の堕女神が、あたしの目にはたじろいで見えた。


 そして、そう見えたのはあたしだけではなかったらしい!


「ゼトッ! シズッ!」


 床を転がりながら着地したガーナが起き上がり、身をかがめる。

 未だ目に焼き付いていたその姿勢に、あたしは彼の――いや、彼らの目的を理解した。


「ガウッ!」


 視界に入ったゼトが、あたしに向けて手指を動かす。

 それは、彼にとっての無意識の行動だったのだろう。

 あたしには、彼の手話など一つもわからないのだから……けど。



 『剣っ!』



 この時のあたしは、ゼトが自分に何を求めているのかがわかった。


「――くっ!」


 骨が折れたっていい!

 いや、折れていても動かすつもりで、あたしは剣を放った!


 短い放物線を描き、宙を浮いた剣はグローブをはめた手にしっかりと握られる。

 次の瞬間――剣を構えたゼトはガーナへと走り、自分が彼にされたように行動した。


「らあっ!」


 ガーナの気合が短い声となり、直後にゼトの体が打ちあがる。


「行けっ! ゼトォ!」


 気付けば、あたしは声を張り上げていた。


「ガアアアァッ!」


 人間とは明らかに違う、獣のような声が耳に届く。

 ゼトはあたしの剣を思い切り振りあげ、それを堕女神の頭部へと叩きつけた!


 直後。


「Gia……?」


 吐き出された短音は終わりを自覚する前の、束の間の困惑だろう。


「GI……a――aAa!? AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」


 黒い甲殻を食い破り、未だ頭部へと刀身が刺さる一撃は、堕女神にとって致命傷だ。


 でも、奴が……いや、彼女が堕女神であり、彼女に傷を負わせた剣が戻し手の剣だったならば……堕女神は本当の意味では死にはしない。


 剣から手を離したゼトが石床へと着地する中……それは始まった。


 黒い甲殻に覆われていた堕女神の体が淡い光を帯び、彼女の中から歌が聞こえ始める。


「あ……」



 その歌は、詠唱だと聞いていた……。



 堕女神へと堕ちた女神が元の姿に戻るため、戻し手の剣に封じ込まれた術式を媒介として発動する『転神の儀』と呼ばれる儀式のための詠唱。


 美しい歌声のように聞こえるその詠唱こそ、堕女神が女神に戻る時に歌うと噂される所以だった。


「……これが、転神の儀の歌声?」


 耳に心地いい声音に張りつめていた緊張がほどけていく。

 あたしは戦闘の終わりを実感し「ほう」と、溜息を吐いた。


 すると、その身に穢れを溜め込んで変質し、膨張した堕女神の体が末端から砂のように崩れていく。


「これで、一件落着だな」


 そう言ってガーナが剣を鞘に納め、堕女神の様子を眺める中……。

 あたしはこちらに背中を向ける、ゼトの後ろ姿から何故だか目を離せなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る