第3話  見知らぬ女

夜になってエナは帰ってきた。

玄関の前では兄のマグナスが腕を組んで待っていたが、

彼は彼女の様子がいつもと違うことに気づき、一瞬張り上げた怒声を

再び縮めることになった。彼女は裸足だった。足は膝まで砂で汚れており、

衣服も所々擦り切れている。

 しかし、なにより彼を恐れさせたのは「目」だった。

普段のエナは鹿を思わせる黒い瞳をしているのだが、今、なぜかそこに

異質な赤い光を感じた。


―――化け物の眼だ。


マグナスは後退りした。彼は目を見て人を判断する。

他人に干渉するのが苦手な彼のような人間は、積極的行動を伴わずに、

自分の味方に成り得る人間を瞬時に見抜く力を必要としていた。

言葉を交わさなくとも、目を見ればどういう人物なのかがわかる。

実際予想が外れることは無かった。

彼はいつもそうやって事前に危険を察知し、回避していた。

妹は心ここにあらずという感じで、彼が「行け」と言うと、

さっさと二階の自室に上がって行ってしまった。

マグナスは恐怖を感じていた。一人になるという恐怖。





エナは夢を見ていた。

車輪の夢だ。エナの目の前で鉄の車輪が、音をたててゆっくりと回っていた。

彼女はただ、それを黙って見ている。鉄の車輪は誘惑する。

冷たい輝きを放ち、それが通った後にはどこまでも死と血の匂いがした。



真夏の昼、三人の子供が草の上で遊んでいる。

エナとウルと、もう一人の子は誰だろう。年はエナよりウルの方に近いだろう。

まだ幼いのにも関わらず、その眉間にはしわが寄っていた。あの子は昔からああなのだ。

あのぎこちなさは、どことなく母を思わせる。

エナはその子に対して様々な印象は持っているものの、

なぜか名前だけが思い出せなかった。

その理由はたぶん、誰も彼を名前で呼ばなかったからだろう。

エナも彼を名前で呼ばなかったから、彼が本当は何者なのか思い出せなかった。

花を摘んでいたエナが頭を上の方に向けると、空はいつのまにか真っ赤になっていた。

「ウル。どこ、ウル。」ウルも、名を忘れた子も消えていた。

草原の中エナは一人になった。風が吹く。

「早く家に帰らなきゃ…。」辺りを見回す。

そうだ。太陽が沈む前に帰らなくてはならない。

暖かい夕日がエナの行く手を照らしていた。

草を掻き分けて進んでいくと標識のようなものにぶつかった。「これより未知の領域」

草は無くなり、道は開けていた。

道の向こうには、影と愛情と欲望と、喜びとその分と同じ悲しみがあった。

来た道を振り返ると、陽に満ちた無邪気さと、安らかな中に子供時代の思い出があった。

通ってきたどの道も古く懐かしい。

しかしそこにはもう何もないのだ。私の居るべき場所はこの道のずっと向こう。


ああ。でも、私は―――。


家に帰りたい。

家に帰りたいよ。お母さん。

―――再び風が吹き、エナの額がそれを受ける。




 

夢はそこで終わった。目覚めればまだ夜明け前である。

昨夜のことは全く覚えていなかった。昔の家に行って、それから…。

どうなった?思い出したくも無い。

寝着に着替えずそのままベッドに入ってしまったせいか、

身体が痛んでいた。少しの間、もう一度眠ろうかと考えたが、

部屋の窓が開いていることに気づいたので、起きることにした。

寝起きのせいか身体が奇妙に熱い。

夜空に黄金色の月が出ている。位置が低いせいか、

月は不気味なほど明るく、そして大きい。

エナは窓の前に立った。夜風が気持ちいい。肌の熱が夜の闇に溶けていく。

 昔と比べて、彼女の髪は長くなった。夢の中のエナは髪を二つに結っていたし、

ウルが出て行ったあの日もそうだった。


―――いつからだったろう。髪を下ろすようになったのは。


ふと気づくと、鏡の中の自分は見知らぬ女になっていた。

髪も顔も身体も以前とは違うものに変わってしまった。

彼女はこの新しい身体の全てが気に食わなかった。この身体は何の為に存在しているのか。

母も兄もその理由を知っているせいか、彼女の身体の変化に気づくと嫌悪感を示した。

何も変わらなければ良いのに。ふと、エナはそんなことを思った。

何も変わらなければ良いのに。

どうしてみんないなくなってしまったんだろう。

どうしていつまでも子供のままでいられないんだろう。

どうして全ては過去になってしまったんだろう。

  なぜだ。私は、新しい喜びも、未来も、変化もいらないのに。

どうしてあのままでいさせてくれなかったのだ。


―――コノカラダハナンノタメニ。


彼女の瞳は空を漂っていた。薄い寝着の下、痩せた、小さな胸が震えていた。

しばらく経ち、月の下で彼女が震えている中、庭に何か黒いものが横切った。

意識の隅、彼女の視界がそれを捉える。

「誰!」彼女はカーテンを開け放った。

 そこには少年時代のウルが立っていた。



ウルは何も言わずつっ立っていた。顔には生気が無く、

その姿は幽鬼のようだった。夜の闇は、姿という名の記憶を閉じ込めた氷のように、

ぎろぎろと底光りしていた。

彼は無意識のうちにここまでたどり着いたのだろうか。

侵入という行為の作為性は感じられず、まるで最初からそこに囚われていたかのようだった。

エナが窓を隔ててウルの手の平にその手を重ね合わせると、彼の瞳はパチッと開いて、

エナの存在を確認する。笑みを浮かべたその顔は、どことなく彼の人生の疲れを感じさせた。

「入ってもいいかな。」

エナがうつむき加減にうなずくと、彼は窓を開けた。

異質な、夜に似合わぬ暖かい風が、室内に流れ込んでくる。

彼は部屋の周囲を見渡すと「変わったな。」と一言つぶやき腰を下ろした。

客というには空気にあまりに馴染み過ぎている。

「それで。何か用なの、カーライル?」エナは感情を抑圧した。





それはウルなのかカーライルなのか。

エナにはどちらも選ぶことが出来なかった。名前を呼ぶことが出来なかった。

結局彼女は自ら夢を否定した。

カーライルという名のウルによく似た少年は、一瞬ハッとしたようだった。

カーライル、カーライル、カーライル……。

彼は自分に言い聞かせるようにその名前を呟き自身の顔と存在を手で確認した。

カーライルの背丈はエナより少し高い位だ。

あと一、二年経てば、ウルと同じくらいになるに違いない。

「疲れているせいなのかもしれないね。」

カーライルは他人ごとのように言った。疲れた瞳。夢にやつれた少年が目の前に立っている。

あこがれと熱意の象徴のようなウルトリア。カーライルはウルの幻影だった。

エナにとって過去のウルは、最早ただの少年にしか過ぎなかったのだ。

エナは自分の変化を悲しく思った。



  「ねえ。」

「なんだいエナ。」

「……あなたは、どうして孤児なの?」

「一人だったから、さ。」

「寂しくはないの。」

「たまに。そういう時は他のことを考えるよ。」

「周りに人がいてもあなたは一人なの。」

「…なあエナ。僕はね。一人になった時、孤独である時に

本当の僕になれると思ったんだ。このままじゃいけないって。

今の状態では自分に真の価値は無い。そう思って、家を出たんだよ。」

「それで、あなたは真の自分になれたの。」

「……なれなかった。だからここに帰って来た。」

ウルトリアは消える最後まで笑っていた。

彼も彼女も、世界のどこかにそれが存在することを

子供の頃から確信して来たにも関わらず、永遠は無い。

過去は過ぎ去っていく。

しかしそれは残酷すぎる事実だった。

もはや彼も彼女も夢を見ることはないだろう。



エナとウルはかつてのようにソファーの上に二人で腰掛けていた。

かつて椅子の上は自分達だけの世界だった。

ウルはエナの手を初めて見るように眺めている。

そして赤ん坊の手にそうするように、すうっと指と指の間に優しく触れた。

彼の存在はゆっくりと薄くなっていた。

それはさも彼のいない世界が当たり前であったように。

エナはなにもかも終わってしまったことを知った。

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