第2話 「邂逅」――― 未知の領域
マグナスはレインコートを着て通学の道を急いでいた。雨が降るその時自分は1人で、兄とエナが二人で出掛けているのを知っていた。自分は孤独なのにも関わらず軽い嫉妬を覚えていた。父を失った彼は大学に行く費用を貯めるために電話交換手やタイプライターの仕事をしていた。マグナスは常に一人であった。
マグナスは妹と仲が悪かった。正確には仲が悪いと言うより、
彼が一方的に妹のことを嫌っていた。
マグナスは妹の暗い性格が嫌いだった。陽気な父と、兄のことは好きだったが、
父は随分前に死んでしまったし、兄は妹が生まれてからというもの、彼に構ってくれなくなった。
彼ら二人がこっそり家を抜け出す度、誘われなかったマグナスはたった一人、
厳格で孤独な母の相手をしなければならなかった。
マグナスは彼らのことが憎かった。世界は決して自分を中心には回らない。
しかし彼は自尊心の強い男だったので、いつも不機嫌そうに空を睨んでいるだけだった。
残されたマグナスは妹の面倒を見なければならなくなった。
妹は一六だったが、頭の方は小娘以下だった。マグナスは既に大学を卒業し、
官職に就いていたので金銭面ではさほどの苦労は無かったが、
問題はそれとは別のところにあった。
マグナスが帰宅すると家はいつものように静かだった。
以前の家は、たった二人で住むには大き過ぎたので
引き払い、売った金で新しいもっと小さな家を買った。
彼はこの新居を気に入っていた。都に近いという点でもそうだったし、
なにより以前の家は広過ぎた。
思い出すのは母と二人だけで過ごした日々。空間には機能する範囲というものがあらかじめ決まっているものなのだ。
居間に出るとテーブルに一人エナが座っていた。肘をつき、頬を手で抱え、
今日も変わらず窓の方ばかり見ている。マグナスの帰宅にも気づいてないようだった。
妹の姿を見るたび彼はうんざりした。
マグナスは心の底から彼女を嫌い抜いているわけではない。
彼は疲れていた。こんな時に父か兄がいれば。しかし目の前にいるのは妹だ。
心を許す相手などではない。
「…おい。」
マグナスはエナの肩を揺すぶった。返事は無い。
「おい。聞いているのか!」背筋が一瞬ぴくっと痙攣した。
振り向いて兄の姿を確認する。我に返った様だった。
「夕食は出来ているのか。」
手元を見回したエナは外の暗さに初めて気づいたようだった。
台所には作りかけのスープの入った鍋と、切ったジャガイモが散乱している。
「あ、ごめんなさい。まだ…。」
マグナスは肩を落とした。
「もういい、この役立たずめ。俺は寝るからな。」
そう言って彼はさっさと二階に上がり、自室のドアを閉じてしまった。
妹は声を殺して泣いていた。
翌朝、彼が起きると朝食は既にテーブルに用意されていた。
この整頓された朝に、彼はかつての幸福を思い出したが、
当のエナ本人は既に外出していたので、むしろ普段より彼の機嫌は悪くなってしまった。
―――今日学校は休みだったはずだが。
いや、だからこそ俺とは一緒に過ごしたくないということか。
あの恩知らずめ!
孤独のあまり、彼の考え方は年を追うごとにますますひねくれたものになってきた。
小声でブツブツ悪態をつきながら、彼は仕事に行く準備をした。
エナは朝が嫌いだった。始まりの時だからだ。理解し分かち合うことなど無い、
生まれて以来ますます酷くなっていく、現実の始まりの時だからだ。
今朝、いつもより少し早く目覚めた彼女は散歩に出かけることにした。
外はまだ夜の余韻を残しており、通りに人はいなかった。世界はまだ始まっていない。
彼女は人目に姿をさらすのが嫌いだ。陽の当たる時間帯はほとんど家にこもっている。
今日は休みの日ということもあったので久しぶりに外に出ることにした。
―――兄さん怒っているかしら。
兄のことが気がかりだったが、彼女は歩を進めた。
足は自然に彼女のかつての『我が家』に向かっていた。
彼女が以前に住んでいた街に着いた頃には正午を回っていた。
夏の始まりの太陽の下、地面の砂は熱く、空気は歪んで見えた。
髪は熱を集め、こめかみからうっすらと汗の筋が滴り落ちる。
街は住んでいた時より閑散として見えた。子供達が走り回っている。
何もかもが小さく見えた。
吸い寄せられるように、ある方向に向かって彼女は歩いた。
何かが彼女を呼んでいた。だが同時に、別の何かは警告を発していた。
「行ってはいけない。」「行ってはいけない。」彼女はその、自分の心に向かって問う。
行くとまた、古傷が痛み出すからか。昔の頃を思い出して悲しくなるからか。
「違う。だが行ってはいけない。」
前の家に着いた時には時刻は既に夕方になっていた。
家は高台に面していた。まだ人は住んでいない様で、物干し竿が浅い夕焼けの光に
照らされながら、パタパタと揺れている。以前と何も変わらない。
彼女は郵便箱を覗いて見た。埃が溜まっている。手紙は入っていない。
不意にどこからか歌が聞こえてきた。歌詞の無い、単純なメロディー。なつかしい。
ウルが口ずさんでいたメロディーだった。
彼女は最初、それは自分の頭の中から聞こえてきたのかと思った。
だがそうではなかった。屋根の上に人がおり、歌を歌っているのはそいつだった。
「―――誰?」
エナは思わず声をあげた。そいつの姿は夕日の影になって見えない。
エナの声に反応して影は動いた。
「ワーグナー家の一員かな。」
風が吹いた。木の葉が舞い、そいつの着ている外套が屋根の上ではためいた。
エナは父が死んだときのことを思い出していた。冷たくなったその身体に触れても、
死んだことが実感出来なかった。棺が土の下に埋められても家に着いたら、
父がひょっこり帰って来るような気がしてならなかった。
一ヶ月、二ヶ月が経ち、日常は徐々に失われていった。父親は帰って来なかった。
しかし。ウルはどうなのだ。ウルは失われた。ウルは帰って来なかった。
奇跡を信じたかった。ウルは帰ってきた。エナの願いが海を越え、
異国の地でウルに向けて放たれた死の運命から守ったのだ。
何もかも、これでなにもかも、元通りになるのだ。全ては夢だった。
「君。名前はなんていうのさ。」
「…エナ。エナ・ワーグナーよ。」
それを聞くと少年はニッと笑った。両足で屋根から飛び降り、
エナに近づき、握手を求めて言うには
「僕はカーライルっていうんだ。昨日まで孤児をやっていたんだぜ。
生まれて以来、久しぶりに家に帰ってみたら誰もいなくてびっくりさ。」
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