未知の領域

上山ナナイ

第1話 ウルトリアとエナ

テーブルに肘をつき、頰を手で抱え、少女の瞳は空を漂っていた。

何も見えず、聞こえず、周りの音も、匂いも、彼女の元には届かない。

彼女の時間は現在には流れていない。彼女は過去に囚われていた。


1.ウルトリアとエナ


ウルトリアとエナはいつも一緒だったように思う。彼と彼女は二人で一つみたいなものだった。私の記憶の中では何時も一緒だった。

むしろ、そうでない時は違和感を感じたくらいだ。


 ワーグナー家には彼らを含めて三人の兄弟がいる。

長兄ウルトリア。次兄マグナス。末妹エナ。

ウルトリアは素朴で誠実、落ち着いた性格をしており、マグナスは傲慢で気性が荒い。

末妹のエナは寡黙ではないが、臆病な性格をしており、日々、家の窓から

空を眺めては空想に耽るかわいそうな娘であった。


 

さて、長兄ウルトリアは能力的、性格的に最も母に気に入られていた。

うって変わって、エナは最も母に蔑まれた子であった。

母は彼女の性質を憎んだ。彼女の空想も、母の瞳には逃避の姿としてしか

映らなかったようだ。

ウルトリアとエナは母の愛情面では全く対称的な子供だったが、

非常に仲の良い兄弟だった。ウルトリアは小さな妹を可愛がり、

エナは兄の行く場所ならどこにでも付いて行った。言葉で言い表さなくとも

互いの思っていることが分かっているようだった。





 その日は雨の日だった。

まだ午前中だというのに、エナは窓際の隅のテーブルに座っていた。

外は少し寒い様で、窓を眺めると屋内の暖かさを実感できる。

「雨が降っているわね。」

エナはその黒い瞳だけをウルに向けた。少し間を置いてウルは答える。

「ああ、外は少し寒いようだ。」

 店内にはまだほとんど人が入ってなかった。

テーブルは白く、店内はひどく整頓されており、昼時とはえらく違う印象を受けた。

日曜日、ウルとエナは休みの日となると、家とは違うどこか別の場所で時を過ごしていた。

父は二年前に死んだ。一家の均衡が崩れ、厳格な母の発言力が増した。

家はエナにとって居辛い場所となった。

ウルは、そんなエナを気づかってか、時折彼女を誘って外に出た。





「なあエナ。うちの一家が元々六人家族だったって話は知ってるかい。」

「知らないわ。…ええっと、それは何か、父さんと母さんの仲に

何か問題があったってテーマじゃないわよね。」

「はっはっは。そんなことではないよ。」ウルは笑った。

「要するに君には双子の兄弟がいたって話なのさ。

最もそいつは、生まれる前に死んでしまったから、意味のない話なんだけどね。

本当は僕たちは三人ではなく、四人兄弟になる予定だったんだぜ。」

 エナは茶をすすった。「ふーん。で、そいつの顔は私そっくりだったの。」

「さあ。何分赤ん坊のときの話だから、そいつはちょっとわからないな。

似てると言えば似てたかもしれない。」

「それなら一緒に暮らせれば私は幸せだったわ。

二人いれば母さんも、今の半分しか私を憎まなかっただろうに。」

 エナはカップを飲み終えると小さくため息をついた。母のことを考えると気が重い。

既に家に彼女の居場所は無いと言ってよかった。

「母さんは君のことが嫌いなわけではないんだよ。ただ…。」

「ただ?」

ウルは言葉に詰まった。

答えは決して無いわけではなかったが、なんと言えばよいのか。

今の彼にはわからなかった。





 外に出ると、空は既に晴れていた。

道の窪みに溜まった水たまりが、青空を映している。

雨上がりの空気はさわやかで、ウルとエナは、秋の冷たい太陽の光を浴びていた。

「ウルはもうすぐ家を出て行ってしまうのね。」

エナの赤い髪空気の中で揺れている。

「ああ。そうさ出て行く。しばらくお前とは会えなくなるだろうな。」

ウルの白い額が風を受けた。木の葉が舞い、外套がはためく。風が二人の道を隔てていた。

「そんなに落ち込まれても困る。家族というものは結局は別れるものなのさ。

遅かれ、早かれね。」

それはエナにもわかっていることだった。物事全てには終わりがくる。

だが頭で理解することと、実際にそれが訪れる事は違うのだ。

父がいなくなった今、さらに兄を失えば、自分はいったいどうなってしまうのか。

「それは、どうしても、必要なことなの。」

「ああ。それはどうしても必要なことなんだ。」

ざあっと、長い風が吹いた。風は、街を洗い、川を渡り、林を抜け、

草原に出ても、風はまだ吹いていた。ねぐらを追い出された鳥達が、茜色の空を昇っていく。

やがて風は止まり、冷えた大地に木の葉がぱらぱらと舞い降りた。

エナは何も言わなかった。父の時もそうだった。

人は結局何にでも慣れてしまうものなのだから。


嫌よ。行かないで。

嫌よ。行かないで。


少女の想いが遠い山の向こうにこだましていた。





そうして月日は流れていった。

一年目。エナは毎日のように家の窓からウルの帰りを待っていたが、

その年彼は帰らなかった。二年目。彼女は庭に出てウルの帰りを待っていたが、

その年も彼は帰っては来なかった。三年が経ち、次の年も彼は帰らなかった。

エナは久しぶりに鏡をのぞいて見た。そこには以前の痩せた少女は映っていなかった。

見知らぬ女が映っていた。

ウルが去ってから五年の歳月が流れた。

その日の朝、玄関で物音がした。

家の中は静まり返っている。みんな眠ってしまっていた。

誰も目を覚まさなかった。

ベッドの中で、エナはウルの夢を見ていた。

夢の中ではウルもエナも五年前の姿だった。




 

その音は手紙の配達の音だった。郵便箱には、一通の便りが入っている。

手紙はウルトリア・ワーグナーの死を告げていた。

彼は遠い異国の地に渡って行方知れずとなっていた。

旅行者がつい最近その遺体を発見し連絡してきたのだそうだ。

 エナは泣いた。彼女は十六になっていた。

何かと煩かった母も一年前に他界し、家族は崩壊した。

 家の中は静かだった。

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