オウム真理教事件を正しく理解するために

ネコ エレクトゥス

第1話

 まず最初に麻原彰晃なる生物は地球上でもっとも惨めな生物である(皆さんもご存知のように)。ただその惨めさ故のエネルギー(ニーチェの言うところの「ルサンチマン」)が攻撃性に移った時、破壊力が強大だというのも確かなことである。 しかし政権の転覆を企てたからと言ってそれだけでオウムの人たちが全て悪魔だという訳ではないし(それなら明治新政府の奴らも全て悪魔だ)、多数派がいつも正しく少数派が間違っている訳でもない。日々の生活に違和感を感じているのは小説に接している皆さんなら当たり前だと思う。マインド・コントロールどうのこうのと言っても皆さんも立派にマインド・コントロールされている(それも人生か)。「サリンをばらまいたじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、「正義にためなら何をやっても許される」という思考法を持つ人たちがよくやる手段で、アメリカの原爆利用もその一つであるし、ウィキリークスのようなハッキングをやってる人たちも実際のところは変わらない(最悪の兵器はしばしば善意から生まれる)。では何故オウムは間違っていると言えるのか。オウム真理教がその母体としているというヨガに代表される古代インド宗教について少し書いてみたい。


 ではヨガとは何なのか。思いっきり簡単に言えば「女性に生まれたら全ての女性が植物であり、花である」ということを学ぶのがヨガである(人間的な雑草だのという区別を忘れて)。そしてその女性なる植物から生まれた男も結局のところは植物なんだ、ということ。何故にヨガがあんなポーズをとるのかというと、植物のように太陽に向かって体を伸ばし葉っぱを伸ばし、空気を吸い込み、花を咲かせましょう!ってことでもある。古代インドの性の奥義書『カーマ・スートラ』は僕らのセックス的な視点から見てしまうと危険な書物かもしれないが、その視点を捨てれば実は「いかにして健康に植物を育て、次の世代を得るか」という農業の専門書として読める。で、もしヨガが僕たちが植物であるってことを理解するためのものなんだってことが分かっていただけたら、植物にとって太陽や自然、性をも含めて全てが美しいんだという世界への絶対的な肯定、それがヨガもその一部である古代インド宗教の目指すところなんだってことを理解してほしい(人間にとって不快な環境でもそこに生物は存在する。たぶん宇宙にも。たぶんだけど)。

 この世界への絶対的な肯定はインドと影響を与え合っているイスラム圏では「神への絶対的な服従」という形で現れる。しかし「人間ですら植物であるなら世界は植物で埋め尽くされている」という感覚は両者に共通のものであり、イスラムのモスクが一面花で覆い尽くされているのも同じ精神性によるものである。

 ではオウム真理教にはそのような精神性があるか? No。いじけた精神性だけ。でも世界に対し絶対的な肯定を感じる人がどう行動するかってことに関しては僕自身も修行中。


 しかし何かに希望を見出したくてオウムに入信してしまった人たちの気持ちは、たぶん小説に触れている人たちなら分かるんじゃないだろうか。だからと言って彼らを正当化するつもりはないのだが。しかし人類史上で同じような出来事が多数あり、現在もあり、今後も当然あるだろう。過去の哀れなオウムと、現在の哀れなオウムと、未来の哀れなオウムと、その被害者のために。南無。


 あと他にも書きたいことは山ほどあるのだけど、そのことについては僕なんかが書くより、高橋和己という戦後作家の『邪宗門』という傑作小説があるので、もし興味を持ったら図書館に置いてあるので読んでください。


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オウム真理教事件を正しく理解するために ネコ エレクトゥス @katsumikun

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