第3話

 鮎の一件から数日後の日曜日。

 久々に三葉旅館から注文があった。

「行ってきます!」

 親父に先手を打たれぬよう、注文のとろろ蕎麦2人前を用意して車に乗り込む。山道なので、自転車は危険なのだ。片手運転もできません。

 助手席には、亜里砂が乗り込んだ。亜里砂は土日休みなのだ。

 俺は出前を、亜里砂は鮎のバケツを返すのを口実に、甘露に会うつもりだ。



「お世話になります! ふじみ庵です!」

 いつもの従業員出入り口で声を張ってしまったが、すぐ近くで甘露が作業をしている。

 甘露は、目と口元をわずかに綻ばせ「かたじけない」と頭を下げた。

「うちこそ、ふじみ庵には昔から世話になっている」

 今日も口調は堅いが、ためぐちだ。

 白シャツと黒いジーンズ姿に、“三葉旅館”と書かれた紺色の羽織を着ているだけなのに、着物を着ているような雰囲気がある。

 身長は意外にも高くない。亜里砂と頭ひとつ分しか身長差がない成人男性に、久々に会った。

「初めまして。篤志の妻の亜里砂です」

 亜里砂が、ひょっこり前に出て、ぺこりと頭を下げる。うん、できた妻だ。

「昨日は鮎をごちそうさまでした。バケツお返ししますね」

 甘露の返事は「かたじけない」。

「……すまない。育ての親がこのような口調だったゆえ、なかなか普通に喋ることができない。よく年配のかたを怒らせてしまうのだ。生意気だ、と」

 育ての親……意味深なフレーズが鼓膜に刺さる。

「生意気じゃないと思いますよ。俺の親父なんか、でれっとしてますし」

 亜里砂に小突かれた。

 甘露は、整った眉をわずかにひそめる。

「いや、あの、鮎をもらったのが嬉しかったみたいで、でれっとしてました」

「なんだ、そういうことか」

 愁眉を開く、なんて言葉は、こういうときに使うのだろう。甘露は明らかに安堵していた。

「親父のこと、気持ち悪くないですか? 親父が迷惑をかけていませんか?」

「全然。面白い親父殿だな」

 おやじどの、と亜里砂が小声で復唱した。

「そなたは親父殿に似ている。声の張り方など、特に」

「似てねえよ!」

 先程声を張り上げたのを気にされてしまったか。また声を荒げてしまった。

 甘露は、ふっ、と笑みをこぼす。

 それだけなのに、妙に色っぽく感じてしまった。

 不意に、蕎麦猪口の中の漣を思い出した。



 車に乗ると、助手席の亜里砂から肩をばしばし叩かれた。

「やばい! なにあの雰囲気イケメン! 親父さんじゃなくても、ころっといっちゃうよ!」

 妻よ。それは夫の前で他の男を褒めるのか。それを嫌がるのは、俺のエゴなんだろうな。



 その日の晩、俺は改まって親父に呼び出された。同居の家族なのに。

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